11/23.蛻殻
「……馬鹿じゃないの?」
悪態の内容とは裏腹に、ミーマの声は細く、小さかった。絶望し、軽々に死のうとした自分が恥ずかしかったのかもしれない。
だが直後、状況は一変する。
「おい、何だありゃ!?」
神殿を睨みつけていたウォードが叫んだ。
はっ、とミーマが視線を向けると、そこには予想もしない光景。
「なに、あれ!?」
青黒い沼と化した神殿の中心、今や形さえおぼろな祭壇の上に、真白いものがひとつ、ふわりと浮いていた。
「卵?!」
その卵がいつから、そしてどこから出現したのか、ウォードにもミーマにもわからなかった。不気味に触手の
見つめるふたりは無言。というより、何を言っていいかわからないのだ。
だがその卵の出現こそ、その後の2人の運命を大きく変えていく出来事の、本当の始まりだった。
ざわ、と、沼を埋めた触手が動揺する。と見るや次の瞬間、触手たちが一斉に卵に襲いかかる。
「あ?!」
思わずミーマが声を上げた。
青黒い触手の群れが、卵を捕まえようと激しく
「おい、アレが『魂』ってヤツなんじゃねえか?」
「え? ……ええ」
蝙蝠男は確か、『魂を喰いに、
「じゃあ出てくんのか、
聞かれても、ミーマに分かるはずもない。眼下で繰り広げられる光景を、ただ呆然と見つめるだけ。
「?」
そのミーマの目に一瞬、なにか異質なものが紛れ込んだ。青黒い触手と真っ白な卵による異形の鬼ごっこ、その中に、何かが見えたのだ。
「
ありえない言葉が、ミーマの口をついて出た。
(そんな馬鹿な)
言ったミーマ本人が、心の中で即座に否定する。あの青黒い地獄の中では、どんな
「見えたか、お前も?」
ウォードが訊いてきた。2人とも、沼から目を離さない。
「ええ、一瞬だけど誰かいたような……あ!」
「?!」
今度こそ、2人は見た。
青黒い沼の中から一瞬、同じ青黒い色の、だが
「あれは……?!」
2人が見つめる前で、その姿はすぐに沼に溶け、そしてまた現れる。
「あいつは!!」
ミーマの身体に、ふうっ、という熱の塊が届く。ウォードの身体が、とてつもない熱をはらんでいる。
その時には、ミーマにも見えていた。卵を守る、
それは
溶けては現れ、また溶けては現れる少女の
(幻?)
ミーマは疑うが、しかしウォードも同じものを見ている。2人同時に見る幻などあるものか。しかもミーマの目はもうひとつ、少女の背中に張り付くように背負われた、もっと小さな
小さな、小さな。
獅子の
卵を抱いて、少女が
卵を奪おうと触手が迫れば、再び少女が現れて卵を抱き、背に
青黒い色の粘液に、ただ
なんとしても。
なんとしても。
その表情が、どれほど似ていることか。イルカと猿、そもそも
少女が走る眼前に、ひときわ大きな触手が出現し、真上から少女を襲う。
避けられない。
『と』
少女の口が、声にならない声を張り上げる。
『と』
『さ』
『ま』
『!』
口の形を模しただけの青黒い粘液から、もちろん声など出ない。しかし力の限りに叫んだ少女の表情が、ふっ、と安堵のそれに変わった。そして卵と、背中の小さな
その少女を触手が襲……
ど! だああああんん!!!
嵐の大波をぶち砕くような、凄まじい打撃音。少女を襲おうとした巨大な触手が、空中で微塵と砕け散る。
無双の大盾、その威力を見るがいい。
だが反対方向から少女へ、新たな触手。細く、速く、しかも3本同時。
き、き、しぃん!!
三筋の稲妻。
神速の細剣、その閃きは見えたか。
「ルールー!!」
父が。
「チーシェル!!」
母が。
猿と猫が、男と女が、斧と剣が。
たった2人の、だが無双の援軍が今、子供たちのもとへ到着したのだ。
「ルールー、本当にお前なのか!」
駆け寄るウォードに、少女の姿の塊はただ笑いの形を浮かべ、胸に抱いた卵をそっと、父に手渡した。そして、
「チーシェル……?」
ウォードの隣に膝をついたミーマ、その目の前に、少女は腕に抱いた小さなライオンの身体を差し出した。
だがミーマが手を触れようとすると、少女は微かに自分の手を引き、
「……」
寂しそうに無言で首を振る。触れることはできないのだ。
だが、小さな
『ひゃあ』
声には出せずとも、ミーマに笑いかけてくれた。
永遠の一瞬。
イルカの少女が、ライオンの子をしっかりと抱き直し、そして駆け出した。ウォードとミーマに手招きし、小さな指で方向を指し示す。
神殿の、円の外へ!
「おい、猫!」
まだ膝をついたままのミーマに、卵を抱いたウォードが怒鳴る。
「俺は行く。アテにしていいなら、コイツ頼む。道は俺が開く。ついて来い」
ミーマの目の前に、卵が差し出される。いまだ得体の知れない謎の卵。
だがミーマは、もはや躊躇しなかった。
「『ミーマ』よ、猿」
しっかりと、だが優しく卵を受け取る。
「『ウォード』だ、猫」
挨拶も契約も、たったそれだけ。
ウォードがミーマ、猿と猫、二つの
触手が殺到してくる。一方で、ルールーとチーシェの映し身は、もう狙われていない。やはり卵だ。
「来るぞ、離れんな!」
ウォードの巨大な盾、そして分厚い戦斧は胸の前。
『処女構え』。
ずどばばぁんん!!!
正面から襲ってきた触手が、ウォードのひと薙ぎでふっ飛ばされ、霧散する。後ろでミーマが剣を振るい、残った触手を処理。
だが触手もしぶとい。無限に再生し、また2人を襲う。
ウォードが再び『処女構え』。
「何本でも来やがれ!!」
だあん!!
異形の触手、だが正面からねじ伏せる。圧倒的なパワーと破壊力。その背中に自分の背中を合わせたミーマは、まるで太古の巨獣の背中にでも乗ったような感覚。
ただ、ウォードの背中全体から常に、むせ返るような熱気が放たれ続けているものだから、ぶっちゃけ、
(暑苦し……)
きゅ、とミーマの唇が釣り上がる。笑うところではないが、なぜか笑ってしまう。
ばばあん!
何度目かの処女構えが炸裂し、2人が前進する。だがその速度は、次第に鈍っていく。足元の青黒い沼が、だんだんと深さを増しているのだ。しかも、
「ウォード!」
「どしたぁ! ……うお!?」
ミーマの警報に振り向いたウォードが、思い切り目を剥く。本当、このゴリラの表情は面白い。が、今度こそ笑っていられる場面ではなかった。青黒沼の中心から、なにかが顔をのぞかせている。
それは頭の尖った、白い骨のようだった。
ウォードは『蛇の骨』と見た。ミーマも同じだ。しかしこんな巨大な蛇など存在しない。
の、4段階がある。
この世界に住む
牙がずらりと並ぶ口は大きく裂け、眼球のない眼窩は青黒い粘液でヌメ光る。手も足もなく、連結された節骨だけがジャラジャラとつながった身体は、まだ見えない部分も含めれば
不気味なほど真っ白な骨に、青黒い粘液が腐肉よろしくまとわりついている様は、悪夢じみているどころはない、悪夢そのものだ。
これが外法の果実『
「冗談じゃねえぞおい!」
ウォードが、自分の正気を保つために絶叫する。さしもの大猿ウォードも、こんな常識外れのシロモノは見たこともなければ、もちろん戦ったことなどない。
恐怖、とは男のプライドが認めなくとも、ほとんどそれに近い戦慄がウォードを襲っていた。
(こりゃ本気でヤベえ!)
ウォードの頭の中で警報が鳴り響く。危険感知能力、それを持たない戦人(イクサビト)は、ただの無鉄砲だ。ウォードは豪胆だが、無謀ではない。
「おいミーマ、卵貸せ!」
「どうする気?!」
「アレの狙いは卵だ。俺が引きつける間に、お前は走れ! お前が離れたら卵投げるから、受け取るんだ!」
「……!」
「迷ってるヒマあるか! お前の方が速い! 走れ!」
ウォードとミーマ、戦士としての力量は互角でも、とっさの判断と取捨選択、最前線で生死を分けるのはそれだ。
「行け!」
ウォードが強引に卵を奪い取り、もう一度叫ぶ。
ミーマが走り出す。円の外まで、ものの10メートルもない。が、粘液の沼は深さを増し、既にミーマの膝近く。走るといっても、脚を取られながら必死にもがくしかない。
ウォードは卵を抱え、ミーマと反対方向へ。
「こっちだ、バケモンども!!」
片手に卵を抱えていては、
ばつん! がつん!!
背中を、頭を、触手で滅多打ちにされる。
「こなくそぉ!!」
もはや払いきれない。そして
「ウォード!」
後ろからミーマの声。沼の外へたどり着いたか。
(いや、まだだ)
ウォードは振り返らず、声からミーマの位置を把握する。彼女はまだ沼を出ていない。
「早く! 投げて!」
まだ。
じゃららららら!
ぎろり、と青黒い瞳がウォードを睨む。そして、かっ、と巨大な口が開かれる。
「ウォード!!」
ミーマの声が絶叫と化す。ウォードが、もはや捨て身のレベルまで敵を引き付けるつもりと悟ったのだ。
この大猿は怖いものを知っている。危険を感知し、現状を正しくそろばんにかけ、それに対応した策もはじき出せる。
ただし、そこには自分が勘定に入っていない。
「早く投げなさいっ! 馬鹿猿っ!!!」
ミーマが沼を抜けるまであと半歩。だが、さしものウォードもここまでだ。
「頼んだぜ、ミーマ!」
振り絞るような声とは裏腹に、ウォードの右手が優しく卵を放る。
ふわり、と宙を舞った卵の軌道をミーマが、そしてルールーとチーシェの写し身が、ゆっくりと目で追う。
ふっ。
両手の肘を深く曲げ、胸の前で籠よろしく構えたミーマの腕に、卵が音もなく収まった。
しかし。
「避けて!!」
ミーマが叫ぶ。
くわぁ、と大口を開けた
巨大な骨は直前で軌道を変え、ミーマへ向かう。やはり卵狙い。もうウォードには目もくれず、その脇をすり抜けていく。
だが、それを許すウォードか。
「ツレねえじゃねえか、バケモンよう!」
これでもかとガニ股に腰を落とし、盛り上がった背中に湯気が出るほど、いや本当に蒸気が揺らめいて見えるまで、全身の筋肉を引き絞る。
『
「ホぅオオォオオオ!!!」
ゴリラの雄叫び。最初は甲高く、後は野太く。
ばづん!!
ば、がん!!
分厚い木の板でできたウォードの大盾が、とうとう微塵に砕け散る。それでもウォードの豪腕は止まらず、残った縦横十字の金属板だけで、
ぐらん!
なんと
そして相手が揺らいだなら、もう一撃。それが
「ホぅオ!!」
右足を思い切り踏み込みながら、戦斧をすくい上げに振り込む。狙うは
がじん!!
ウォードの戦斧が真下から、
(っしゃあ!!)
ウォードが心で快哉を叫ぶ。とっさに左手も動員、戦斧を両手で握りしめ、全体重をかけて圧し斬りに斬り込んでいく。
ばり、ばり、ばき!
無骨な刃に込められたウォードの体重と、凄まじいまでの怪力が、異形の骨を砕く。
「こな! くそ!がぁああ!!!」
顎の先までぶち割れろ、とばかり、満身の筋肉に湯気を立たせる。『
「ウォード、もういい! 離れて!」
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