10/23.外法

 もし万が一にもそれがキスだとすれば、ロマンどころか愛嬌の欠片さえ見当たらない。だが安心してほしい、というのも変だが、もちろんそれはキスではなかった。

 「……!」

 ウォードはミーマの頭を仰け反らせるように抱き抱え、顎を上げて、唇から唇へと息を吹き込む。

 人工呼吸だ。

 実はクラーレの麻痺毒は、身体を麻痺させ呼吸を止める、。だからこうして肺に酸素を送ってやれば、とりあえず死ぬことはない。

 もうひとつ、クラーレは。クラーレで死んだ獲物を食べたとして、食べた人間にはまったく害がないのだ。この毒が狩猟用として急速に広まったのは、この特性が重宝されたからである。

 なにが言いたいかといえば、要するにミーマにキス、いや人工呼吸をしても、ウォードに毒がおよぶことはない、ということ。

 「……!」

 肺に酸素がまわり、かすかだったミーマの意識にわずかな光が差す。だが体内の毒そのものは消えていないから、引きつった顔も身体もそのままで、口からは涎、股間からは真っ赤な血尿が垂れ流し、という酷い有様だ。

 「飲め!」

 ウォードがミーマの目の前で、治癒薬の小瓶を振ってみせ、栓を噛みちぎってまず自分の口に含む。そして、

 「ん……ぐ!?」

 これまた優しく口移し、などとロマンティックなものでなく、樽から漏斗で一気飲みさせられるような荒行。

 「ぐぐぐ!!!!」

 食道ではなく、気管に入った治癒薬が揮発し、魔法を発動させる。その刺激の凄まじさ。

 「!!!!!!」

 さしものミーマも絶叫、しかも声が出ないので苦痛は倍増し。一ノ鐘ファーストリンガー失神か、もう一度お花畑を見るところだ。

 だが、ミーマの苦痛はどうあれ回復の効果は抜群。身体の傷は癒え、毒も消えていく。

 「ほい、残り」

 ウォードが薬瓶を差し出してくるが、すぐには受け取れない。

 「飲ませるか? 残りも?」

 冗談じゃない。

 ばっ、と根性で奪い取り、瓶をあおる。染みて、痺れて、衝撃。

 「……ぶは!!」

 バネが戻るように跳ね起き、両掌を拳骨に握って顔をごしごし。ついでに萎れていたヒゲもごりごり。ウォードの膝の上で、を披露するのも気がひけるが、どうにも落ち着かない。

 「ほい」

 ウォードが指でつまんで渡してきたのは、ミーマの剣だ。『敵意はない』、と言いたいのだろう。

 「だがリベンジなら後回しだ。アレ見てくれ」

 ウォードが木の下を指差す。

 一瞬警戒したミーマだが、救命行為の上に剣まで返してもらって、いまさら疑うのも冴えない話だ。

 言われるまま、ウォードの指先に視線を転じる。

 「にゃっ!?」

 驚きのあまり、素の猫声が出た。が、幸いウォードは気づかなかったようだ。しかしそれも当然、そこに展開していたのは異様な光景。ミーマの猫声をからかう余裕などあるはずもない。

 古代の神殿とされる環状列石、その石がつくる円の内側が、すべて青黒く染まっていた。

 ぬめぬめと光沢のある液体が、まるで不気味に水をたたえた沼のように揺れ、しかも同じ液体でできた、太い蛇のような触手が数十本も『生えている』。

 まるで沼の下に、巨大なイソギンチャクでも棲んでいるかのよう。

 「?!」

 ミーマが息を飲む。

 中心部の祭壇に供えられていたチーシェ、そしてルールーの亡殻ナキガラが、触手によって沼に引きずり込まれていく。

 「すまねえ、持ってこられなかった。逃げるんで精一杯でよ」

 ミーマに頭を下げるウォードの声は硬く、抑揚がない。しかしそれがむしろ、ウォードの内心の激情を示していることを、ミーマは敏感に感じ取る。

 悔しいのだ。はらわたが千切れそうなぐらい悔しいのだ。

 さっきウォードの毒に敗れた、自分と同じように。

 「教えて、何があったの?」

 ミーマはあえてウォードの膝から動かず、その顔を見上げながら訊ねた。

 「最初に気づいたのは『石』だ。祭壇とやらの石が新しいんだよ」

 ウォードが答える。

 「新しい?」

 「そうだ。『古代の神殿』とか言ってやがったが、よく見りゃあ石の柱も全然、風化してねえだろ?」

 「……」

 ミーマも改めて『神殿』を見る。確かに列石の花崗岩は白く輝き、苔のひとつも生えていない。しかも、

 「あっちに石を運び込んだ跡もある。この丸い空き地はともかく、石を立てたのは最近だ」

 ウォードが真っ黒な顔の眉間に、盛大なしわを寄せる。

 「少なくとも、ここ1年か2年のうちだろうぜ。そして俺たちをだまして連れてきた」

 「だまし……?」

 「そうだ」

 一瞬ぽかん、としたミーマを、ウォードが厳しい顔で見つめる。

 「俺たちはだまされたんだ。祭壇に子供らの亡殻ナキガラを供えた途端、あのヌルヌルしたヤツに、地面へ引きずり込まれそうになった」

 ウォードの眉間のシワが深くなる。

 「望みが叶う代わりに、自分が殺されるとか、そんな話は聞いてねえ」

 言われて、思わずミーマが青黒い沼を見、かっ、と顔を熱くする。確かにこんな状況で、まだ望みが叶うと思っていた、自分の甘さが恥ずかしい。

 「じゃあ、あれはなに?!」

 ミーマの、当然の問いだ。

 「俺が知るわきゃねえだろ」

 ウォードの当然の答えだ。だがウォードは続ける。

 「だから、知ってそうな奴に聞くとしようぜ」

 ウォードが目でミーマを立ち上がらせる。見上げるほど高い木の上の、横に張った枝の上だが、猿殻サルガラ猫殻ネコガラに不自由はない。

 「知ってそうな奴?」

 「あいつさ」

 ウォードが、今度は真上を指差す。

 さらに高い枝の上、そこにもう1人、カラがいた。ミーマも見覚えがあるその男はだ。今はお得意のフードもなく、全身が見えている。

 「あれは……蝙蝠コウモリ?」

 「ああ、蝙蝠殻コウモリガラだ」

 ミーマの指摘に、ウォードがうなずく。

 「ゲノスはチスイコウモリかな。ずっと鼠殻ネズミガラだと思ってたが、まさか飛べる奴だったとはよ」

 なるほど、みずから飛行できるカラなら、沈没する船から誰にも気づかれずに脱出し、誰よりも先にこの場所へ来ることも可能だ。

 「騙しに気づいた時にな、じゃあ、きっとどっかで見てる奴がいると思ってさ。そして見たら、辺りの木のここだけ

 で、戦斧をぶん投げてみたらビンゴ、だったらしい。

 2人が木を登って近づいても、戦斧を土手っ腹にくらった蝙蝠殻コウモリガラの男は動かない。

 「死んだ?」

 「いや、まだ息はある。腹は立つが、薬飲まそう」

 「……待って」 

 ウォードが薬を出そうとするのを、ミーマが止める。

 「こいつに話させるんなら、いいものがある」

 言いつつ、腰の物入れから掌ほどの長さの細い金属の筒を取り出す。中身は同じ長さの

 「まかせて」

 「お、おう」

 ウォードが一瞬噛んだのは、ミーマの目が本気マジだったからだ。

 瀕死の蝙蝠男をうつ伏せに拘束し、回復剤を飲ませる。まだ朦朧としている蝙蝠男の後頭部を、ミーマの指で慎重に探る。

 「蝙蝠殻コウモリガラにやるのは初めてだから……」

 ぶつぶつと呟きながら、例の長い鍼を男の後頭部の1点に当てると、つう、と差し込んだ。

 「げ」

 ウォードが顔をしかめる。蝙蝠にやるのは初めて、というからには、他殻ホカガラにはやったことあるのか、とは聞けない。

 ミーマの鍼が進む。そして鍼の尻まであと少し、というところで、

 「う」

 ぴく、と蝙蝠が痙攣。

 「よし」

 ミーマが鍼から手を離し、舌でぺろり、と自分の唇を舐める。その舌の赤と、牙の白。

 そして言葉。

 「目覚めなさい、勇者よ……目覚めるのです」 

 甘い響き。

 側で聞いていたウォードでさえ、ぞくり、と背骨を震わせる。

 「神に選ばれし、雄々しき勇者よ、目覚めの時が来たのです……」

 「う……」

 蝙蝠がうめく。もしコイツが今、夢の中にいるとすれば、間違いなくに、それもに出会っていることだろう。

 「さあ、勇者よ。神の御前に、お前の名前を告げるのです」

 「……サジロ」

 蝙蝠男、相変わらずのキイキイ声。

 「勇者サジロ!その名こそ、まさに約束の子!」

 抜群のタイミング。

 「勇者サジロよ、貴方に与えられた使命を、神の御前に示しなさい」

 「う……」

 「勇者よ、早く。神がお待ちです」

 ミーマ、慎重ではあるが、時々イラっとしているのがよく分かる。

 (こういうの、意外と向いてねえな、コイツ)

 ウォードは内心で苦笑。

 「……俺の使命。それは『蛻殻ヌケガラ寄せ』だ」

 「蛻殻ヌケガラ?! 何だそりゃ!?」

 ウォードが思わず口に出し、ミーマにすごい目でにらまれて首をすくめる。

 「気にしないで、勇者よ。今のはです。耳を貸さないこと」

 非道い。

 「さあ、続けて。蛻殻ヌケガラとは何かしら?」

 「……」

 「勇者よ、急がないと黒い猿が来ます。災いと共に」

 さっきからココにいるけど、ますます非道い。

 「さ、猿?」

 「そう。災の猿。黒き猿」

 いや猿はもういいから。

 「蛻殻ヌケガラは……魂を持たぬカラだ」

 「魂がない? それは亡殻ナキガラ?」

 「違う。魂がなくとも生きているカラ。それが蛻殻ヌケガラだ」

 (魂がないのに生きているカラ?!)

 ウォードは目を剥く。そんなものは聞いたこともない。ミーマと目を見交わすが、彼女も知らないようだ。

 「封印の場所に祭壇を設け、100のカラと、100の亡殻ナキガラを供物に捧げれば、まず蛻殻ヌケガラの魂が現れる。蛻殻ヌケガラはその魂に引かれ、魂を食うために現れる」

 蝙蝠の口が軽くなりはじめた。

 「魂を食った蛻殻ヌケガラは力を取り戻し、封印の結界を破って外の世界に出ることができる」

 聞かれてもいないことまで、ペラペラとしゃべる。

 「だから食われる前に魂を奪い、持ち帰る。それが俺の使命だ」

 黙って聞いていたミーマが、質問を変える。同時に声のトーンも変わる。

 「……『死者が蘇る』という話は? 嘘?」

 「アレは嘘だ」

 即答。

 「儀式の供物となる、強い魂を持つカラを集めるために、でっち上げた作り話だ」

 分かってはいたが、こうまで明確に言われると、怒りよりも脱力が大きい。

 すべては無駄だった。ウォードの戦いも、ミーマの死闘も。残り98人のカラの死も。

 「『蛻殻ヌケガラ』について、お前の知っていることをすべて話せ」

 ミーマの口調から、もはや甘さが消えていることに、本人は気づいているだろうか。

 「蛻殻ヌケガラは遠い遠い昔、このカラの世界を創るために生み出された、神の道具だ」

 荒唐無稽な話になってきた。

 「だが、あまりにも大きな力を持っていたため、魂を奪われ、この世界のあちこちに封印された。ここは、そのひとつを封じた島なのだ」

 「蛻殻ヌケガラって、ひとつじゃねーのか?!」

 ウォードが口を挟む。が、

 「ひとつではない」

 ちゃんと答えた。鍼による催眠が相当の深度に達している。

 「ここの他にもいくつか、見つかっている。既に魂を入れ、蘇った蛻殻ヌケガラもいる。蘇った蛻殻ヌケガラを『ムシ』。魔殻マカラどもは『械殻カイガラ』とも呼ぶ」

 蝙蝠の語りは、もはや得意げだ。

  「『ムシ』なら知ってるぞ」

 ウォードが声を上げる。 

 「西大陸の牛殻ウシガラが密かに飼ってる、っていう噂の……」

 「他には?」

 ウォードを無視し、ミーマが質問を続ける。

 「それで全部だ」

 蝙蝠男は、それでも得意そうだ。

 「じゃあ最後に聞くわ。私達をだました、企みの張本人は誰?」

 「猫殻ネコガラの、獅子の法お……」

 ミーマの指が鍼の先をとん、と、軽く叩く。ふつっ、と、蝙蝠男の声が途切れる。

 死。

 だが、殺したミーマの目には、なんの感情もない。

 やはりそうだった。すべてはの企みだったのだ。ミーマが妊娠させられたことも。そして、

 (チーシェルがことも)

 男の頭から鍼が引きぬかれ、丁寧に拭かれる。

 「おっと」

 ミーマの手を、遥かに大きな手が上から押さえた。

 「やめとけ、つまんねえこたぁ」

 ウォードが押さえたミーマの手には鍼。その先端が、彼女の喉に向けられている。

 「仕舞しまえよ」

 よいしょ、と、野太い指で鍼を摘み取り、面倒そうに元の筒に戻す。細かい作業は得意ではない。

 「気持ぁ分かるが、ココで死なれちゃよ。助けた俺の立場がねえだろ?」

 「先に殺したくせに、後で勝手に助けて恩着せる気?」

 双方、もっともな言い分だ。

 「恩? そんなもん、着せる気はねえ」

 ウォードが、割と本気で困った顔を見せる。

 「そもそも、こうなっちまったのは俺のせいだからな。お前を助けたのは……そう、さ」

 ウォードの言葉に、ミーマは内心で、そうか、と納得する。この男は今の状況を、

 「違う。これはお前のせいじゃない」

 ミーマはまっすぐにウォードを見る。ウォードがミーマの命を助けたというなら、そもそも筋が違う。

 「お前たちをだましたのも、なにもかも猫殻ネコガラたくらみだった。お前は、ただだまされただけ」

 正直、そこまでは言わなくてもいいことだったが、今となっては隠す意味もない。

 ウォードが激怒するか、と思ったが、彼は拍子抜けするほどあっさりと、

 「そうかい。猫殻ネコガラにも色々あんだな」

 と、答えただけ。そしてミーマに軽く片手を上げ、

 「そいじゃ、妙な縁だったが、達者でな。ひょっとしたらいずれウチの、渦潮紋ウズシオモンの連中が俺を探しに来るかもしれん。そしたら助けてもらうといい。俺のこと聞かれたら、『知らん』と言っとけ」

 「どうする気?!」

 今度こそ、聞く義理も答える義理もない問い。だがミーマは問わずにはいられなかった。

 「決まってんだろ? 娘の亡殻ナキガラ、取り返すんだ」

 「行く気?! あそこへ!?」

 「おうとも」

 木の上から見える『神殿』、青黒い粘液の沼はますます触手の数を増し、2人の子供の亡殻ナキガラは、もうどこにも見えない。だがウォードは平然と、

 「娘を生き返らせることもできず、みすみす外法の供物にされた上に、のこのこ逃げ帰ったとあっちゃな。娘にも、死んだ嫁にも会わせる顔がねえ」

 「……人に『死ぬな』って言っといて?」

 「違えよ、お前とはな」

 「何がよ?!」

 だんだんと高くなるミーマの声と対象的に、ウォードの声はむしろ落ち着いた響きを増していく。

 「俺は死ぬんじゃねえ」

 男は言った。

 「

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