09/23.非情
顔の笑み、いや、それは明らかに痙攣だ。顔の筋肉が引きつり、笑みの形を強制されている。ミーマの全身を、いや痺れていない半身だけに戦慄が走った。
(なぜ?!)
焦って左腕を動かそうとするが、動かない。感覚がないだけではない、まるで左半身が無くなったかのように、まったく応答が返ってこないのだ。
ミーマの焦りを他所に、その唇がさらに吊り上がる。顔の筋肉が痛みを訴えはじめるが、それでも止まる気配がない。
異常。
異常!
「か……ッ!?」
息が、吸えない。
ミーマの口が尻尾をはなし、空気を求めてパクパクとあえぐ。からん、と剣が落ち、両手の爪がばりばりと、自分の喉に鉤裂きを作る。
「やっと効いたかよ」
ミーマの耳に届いたウォードの声は、氷のように冷たく、そして石のように硬かった。
そしてその意味するところは、
(毒……?!)
「ああ、毒さ」
ミーマの内心を、ウォードが言葉にする。だが、
(いつ?!)
ここまでの戦いで、ミーマが毒を見舞われたことなどなかったはず。
「こいつだ」
ウォードがまたしても、ミーマの内心を読んだように応える。そして掲げてみせたのは大盾。と、そこに刺さったままの矢尻。
「毒矢だ。
ウォードの種明かし、だが得意そうな響きは微塵もない。
ど、と、ミーマの膝が地面に落ち、そのまま地面に倒れた。続いて両肩が、両肘が、足首が、体中の筋肉が引きつる。もちろんミーマの意思ではない。毒が彼女の体の自由を奪い、狂わせているのだ。
「……悪りぃな」
ウォードの声は、やはり氷のように冷たく、石のように硬かった。
ミーマが食らった毒は、森の
効能は筋肉への神経伝達を阻害する、いわゆる筋弛緩毒。具体的には、まず全身の筋肉が言うことをきかなくなり、最後は呼吸ができなくなって窒息死する。
ウォードは、
毒の矢尻がミーマの身体に食い込んだ時、既に勝負はついていたのだ。
あとはミーマの身体に毒が回るまで、回復剤を飲ませないこと。並の敵なら毒が回るまで逃げまわっていればいい。だが、このユキヒョウ相手に逃げは不可能。
仕方なく正面切って戦った結果、この有り様。まさか、ここまで身体をズダボロにされるとは。
(まったく、とんでもねえ女だ)
ウォードは腹の中で唸る。
(よく勝てたもんだぜ)
その感慨は本物だろう。
ウォードは
「うえ」
飲んで、そして盛大に顔をしかめる。
まず、度数の高い酒を一気飲みした時のように、口の中から喉、胃の奥までが、くわっ、と焼き付く。続いて全身にジーンという痺れが広がり、直後、それを強引に引っぺがすような刺激が、頭のてっぺんから爪先までを走り抜けるのだ。
液体そのものに込められた魔力が発動し、身体が記憶した健康な状態へと回帰させる時の副作用。たとえば長い間正座して痺れた足を、力まかせに揉み込まれるあの刺激を想像すれば良い。
こればかりはウォードでさえ、
(慣れることがねえ)
とはいえ、効果となればやはり抜群。ミーマに斬られた傷口の血が止まり、ぱっくり割れた肉の切れ目がみるみるふさがっていく。
「う」
先走って戦斧を拾おうとしたウォードが、めまいを起こしてよろめく。
(やべ、血ぃ流しすぎた)
回復剤で肉体の傷は治るが、流れ出た血液までは補充されない。だから貧血は日常茶飯事、どころか、あまりに血を流しすぎた場合、傷が治っても失血死、という例は多い。
せめて回復剤と一緒に大量の水、できれば薄い食塩水を飲めば、体液補充にもなるのだが、今はその水さえない。全身の血管に粘土が詰まったような疲労感。
それでもよっこらせ、と戦斧を拾い、腰のベルトにぶっ刺すと、ウォードは大きな足を踏み出す。
東の空の端が、だいぶ白い。
今頃になって、辺りの森を鳥の声が、ちちち、ちょん、ちち、と響いていることに気づく。どんな土地でも、朝一番の早起きは鳥達だ。
じゃり、と、ウォードが地面を踏む。
ちち、ちちち、ちょん、と鳥が鳴く。
そのふたつの音に、
「……ね」
なにか別な音が混じった。
「……ごめ……ね」
じゃ、と、ウォードの足音が止まる。
「……ご……んね……ごめんね……」
か細い、か細い。
ミーマの声だった。
(よせ、やめろ)
ウォードの心に響いた静止の声は、ミーマにではない、ウォード自身にだ。
(振り向くな!)
ウォードは振り向いた。そこに、身体を引きつらせたまま倒れたミーマの姿。
泣いている。
毒による痙攣で、無残なまでに引きつった顔に、滂沱の涙を流しながら。
そして吐いたら最後、もはや吸うことができない息を細く、細く吐きながら、
「ごめんなさい……」
そう繰り返していた。
息子の
それでも。
意識を失うまで、あとわずか。呼吸が止まり、体内の酸素を使いきれば、死だ。
それでも。
(……畜生)
ウォードの心の中に、重く、暗い闇の塊がごろり、と転がる。
ミーマと相対し、命をかけて戦った彼には分かっている。彼女がどれほどの鍛錬と経験を経て、これほどの強さを身につけたのか。
その日々が、自分が生きた日々と重なる。
そしてどんな思いで、この場所にやってきたのか。その思いも重なる。
猿と猫。
男と女。
父と母。
立場もなにもかも違うけれど、自分自身より大切なもののため、すべてをかなぐり捨てて、この場に立ったのだ。
(よせ、もう見るんじゃない!)
ウォードは、しかし見てしまう。ボロボロの法服からこぼれ出たミーマの乳房、その先端を飾る薄紅色の乳首。
そこから、半透明の母乳が流れ出していた。
出産から一月半、吸う者もいないミーマの母乳は、しかし止まることなくあふれ続けている。それがもし息子の
なぜなら、ミーマ本来の動きと速度を阻害したのが、授乳期の胸の重さだったからだ。
豊かな胸の女性は、ただでさえ激しい運動にハンディを背負う。まして授乳期のミーマが剣を振れば、ステップを踏めば。
胸は重く、そして痛んだことだろう。あるいは島に上陸してから、森のどこかに隠れ、自分で乳をしぼったこともあったのか。
母親ゆえの強さ、そして弱さ。
「ごめ……」
「謝んな!!」
知らず、ウォードは
「お前は十分に戦った!」
俺と同じように。
「恐ろしいほど強かった!」
俺と同じくらいに。
子を想う母親だった。
俺が、父親であるように。
「ああ!! あああああ!!!!」
ウォードが叫ぶ。
(駄目だ! 心を揺らすな!)
心の中のウォードが叫ぶ。が、無駄だ。
「畜生、畜生、ちくしょぉぉおお!」
ウォードの叫びは止まらない。身体の傷は薬で治癒しても、心の傷は治るどころか広がって、心の熱を流し出す。
大切なものがあったのだ。
ウォードにも、ミーマにも、倒れた98人の
それは我が子だったか。ウォードのように、ミーマのように。
自分より大きな
だが皆、想いは同じだったはずだ。
死なせない。
もう一度。
愛している。
(やめろ! 情は捨てろ! 非情になるんだ!)
内心からの警告は、もはや絶叫だ。しかしウォードの中に渦巻く熱は、もう止まりようがなかった。
考えてもみるがいい。
『非情になれ』、そんな警告自体、ウォードが非情な男でない証拠なのだ。そもそもウォードが非情な男であるならば、亡き娘のために、こんなところまで来るはずがない。
来るはずがないではないか。
「は……ぉ、ウぇ!」
身体に溜まったなにかを、吐き出すように。そして、
「……ぅ、ぉおオオオオ!!!」
ウォードは
ミーマの方へ。
ミーマの息子・チーシェの
「俺を!」
ウォードが、ミーマの耳元で叫ぶ。
「俺を恨め!」
大きな手で、ミーマの息子の
ミーマの目が弱く、しかし見開かれる。
(何を、する?!)
だがそれに応えず、ウォードは再び
祭壇。
死者を蘇らせる、外法の核心。
かあ!
ウォードの頭に乗っかった牛角の鍋底兜を、朝の光が
日の出だ。
「ホぉおぉぉおお!!!」
長く、長く雄叫びの尾を引かせ、ウォードは環状列石の中心、祭壇にたどり着いた。縦、横、高さともに1メートルほどの、律儀な石の立方体。上面に魔法陣が刻まれているが、もちろんウォードには理解できない。
ぐっ、と一瞬の間。
左手のルールーを、そして右手のチーシェを、ウォードはそっと祭壇に下ろす。
2人同時。
そうすれば、2人とも生き返る?
そんな虫のいい話があるだろうか。
『願いがかなうのは1人だけ、それは変わらぬ』
きいきい男は、そう言ったはずだ。
ならば生き返るのはルールーだけか。あるいはチーシェだけか。いや最悪、2人とも生き返れないのではないか。
ウォードはしかし、すでに腹をくくっていた。
(もし駄目なら)
膨大と言っていい熱量をその身に抱えながら、ウォードはむしろ静かに思う。
(駄目なら、すべて俺の
子供たちの
(だから猫、お前が謝ることはない。代わりに、俺を恨んでくれていい)
朝日の光線が、祭壇へ向かって移動していく。
(すまぬ、ルールー。しくじったら、すぐに
ウォードが内心で、娘に謝罪する。
戦うだけ戦った。
俺もアイツも、やれるだけのことはやった。
あとは外法よ、その力を示せ。そして俺を、俺の罪ごと焼きつくすがいい。
跡形もなく。
「……」
一方、倒れたままのミーマは瀕死の中、それでも必死で意識をつないでいた。
肺の中には、もう
ウォードの行動の意味を、ミーマは理解していた。だが、彼がなぜそうしたのか、それが分からない。
こうして毒に倒れ、無様に泣くしかない自分を哀れんだのか。そう考えるのが自然ではあるが、違うような気もした。
ここから見えるウォードの背中には、ミーマを哀れんでなにかをサービスしてくれる、そういう上からの甘さめいたものは感じられない。
たとえばん、戦場で倒れた戦友のため、その最後の望みを叶えようと命を張る。
たとえば、こういう肝心な時に限って、なぜか急に損得計算ができなくなる。
そういう馬鹿みたいな馬鹿の背中が、そこにあった。
(甘えては駄目)
ミーマは自分に言い聞かせる。あの背中にこれ以上、なにかを背負わせるのはミーマの甘えだ。
だが、共に祈ることぐらいは許されるだろうか。
あの背中に、どうか幸あれ、と。
だが、
突如、ウォードの背中がびくん、と跳ね上がった。
(!?)
振り向いたウォードの顔は、まさに血相を変えていると表現するにふさわしい。
「おぉオオオオぅ!!!!」
ゴリラの雄叫び。
いつ抜いたのか、右手に両刃の戦斧。それをぶぅん、と振り回したと見るや。
「ほォ!!」
ぎゅん!!
戦斧が飛ぶ。その行方を、麻痺したミーマは見ることができない。見えるのは、斧を投げたと同時に、こちらへ向かって
ぐい!!
ミーマの身体が、ウォードの片手に抱き上げられる。落ちていたミーマの剣を拾い、刃を口にくわえる。
ぐん!
ウォードはそのまま、円形神殿を見下ろす巨木の
ミーマたち
相当な高さまで登った、と、瀕死のミーマが感じた頃、ウォードが止まった。ミーマの身体が、ウォードの膝の上に抱き上げられる。
そして。
「御免よ」
ミーマの唇を、ウォードの分厚い唇がふさいだ。
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