05/23.チーシェ
もうひとつ、ミーマの心を救ったものがある。
それは小さな、雄ライオンのマスコット人形だった。
布に綿を詰め、ビーズで目鼻を着けただけの他愛ない人形は、当代の法王が
そして寂しく、辛いことがあると、こっそり取り出しては、彼に話しかけるのだ。
『ねえチーシェル、お話しましょう?』
背も伸び、胸も、腰もすっかり成人のそれになったミーマが、掌の中の小さなライオンと、楽しそうに会話する。普段は狂気スレスレの鋭さを消さないミーマの瞳も、その時だけは木漏れ日のような優しさをたたえ、声もまた、まるで春風のように密やかだ。
もっとも、それはそれで別の狂気、そう言えたかもしれないけれど。
『あのねチーシェル。私はここを、法王庁を出たい』
ミーマはよく、その望みを口にした。
『誰にも愛されず、憎しみばかり向けられるのには、もう慣れちゃった。でもね、チーシェル。聞いてほしいの』
小さなライオンのたてがみを、そっと撫でる。
『私は誰かを愛したい』
小さなライオンの身体を、胸に抱きしめる。
『誰かを心から愛し、守ってあげたいの』
ミーマは目を上げ、高い壁に囲まれた法王庁の、狭い空を見る。
『そうしたら許せる気がする。許して、生きていける気がするの。私を愛さなかった人達も、誰にも愛されなかった私自身も』
決して叶わぬ幻だとわかっていても。
『ねえ、教えてチーシェル』
いや、わかっているからこそ。
『世界のどこかに、こんな私が愛してもいい人が、いるかしら……?』
そんなミーマを、ある日、大きな災厄が襲った。
『法王に子供ができない』
これである。
とはいえ、その事実はだいぶ前からわかっていた。
獅子の法王が、せめて自分の子を王位に、と熱望したことは既に書いた。だが彼の正妻はもちろん、妾妻にも子供が生まれない。若い
しかし、それでも誰ひとり妊娠の兆候すら見せないのだ。
子供がなくては王位どころか、自分自身の血統さえ絶えてしまう。加えて、
『
ベタな陰口がささやかれる。
『百獣の王』を自認する法王にとって、それがどれほどの屈辱か。
そして同時に、法王を盲目的に溺愛する
そして、真の狂気が始まった。
狂った姉は、狂った弟のために、とうとう一線を越えたのだ。が、それを描写するのはさすがに控えよう。
もはや誰も呼ばれなくなった法王の寝室で、夜毎に繰り返される背徳行為。それはミーマを始め、法王庁のすべての
『もはや末期』
と、思わせるのに十分だった。法王庁全体を薄汚れた空気が包み、人も、建物も、なにもかもが腐っていく感覚。
そしてついに、寝室の扉が開かれた日、ミーマたちはふたつの事実を知ることになった。
ひとつ。弟を溺愛する姉も、ついに妊娠しなかったこと。
ふたつ。狂った姉弟が、さらなる狂気に堕ちたことを。
『
ミーマたちに命令が下されたのは、その夜のことだった。過去に何度も呼ばれた場所だが、さすがに部隊全員というのは初めてだ。
法王の広い寝室、狂った姉弟の前に整列させられた彼女らに、次に下された命令は、
『お互いに目隠し・拘束せよ』
異様な命令。だが
『動かず、じっとしていろ。すぐ終わる』
直後、ミーマたちは何者かに服を剥ぎ取られ、そして若い身体を犯された。相手が何者かもわからないまま、ただモノのように、次々に犯されたのだ。
愛情はおろか、快楽すら微塵もない作業の中、
ちょうどその直後、法王庁では数人の若い衛兵が突然、辺境の教会に配転を命じられた。しかも運悪く赴任中の船が沈み、全員死亡するという事故まで起きている。が、もちろん彼らについて語ることは禁じられた。
そして後日、犯された
『ついに!』
狂喜したのは法王だ。
『ついに子ができたぞ!』
まさに踊り狂わんばかり、ミーマが宿した子供が、本当に自分の子供だと思い込んでいるとしか思えない喜びようであった。今思えば、法王は本当にそう思い込んでいた、いやそう思い込まされていたのだろう。
だがミーマは、そんな法王の姿より、彼の隣に立った
憎しみと嫉妬と嫌悪、あらゆるマイナスの感情をどす黒く煮詰めておいて、喜びの笑顔の上から素手で塗りたくったならば、きっとこんな顔になるのだろう。
『よくやった』
ミーマを労う言葉さえ、蒸留すれば一国を滅ぼす猛毒が精製できたに違いない。そして
『尊い血を宿した以上、お前にも、ふさわしい格を持ってもらう』
と宣言し、弟の法王に『
『ただし、こやつの血統は下らぬ下衆猫。この下品な尻にでもお入れなされませ』
そんな最低の悪ふざけを提案されたところで、ミーマには抵抗も、反論さえ許されない。
そして姉の言いなりとなった法王は、唯々諾々と胸の
小さな光の点がふわり、と広がり、ミーマの尻に紋が花開く。そうして
『子を宿した以上、これはもう要らんな?』
張り付いたような笑顔を浮かべた
(……チーシェル、ねえ、聞いてくれる?)
表情の消えたミーマの頬を、知らぬ間に涙が濡らしていた。
次の日からミーマは、法王庁の一角にある離れに幽閉された。見張りが付けられ、剣の素振りすら許されないまま、次第に大きくなる腹と向き合う日々が始まった。
常人ならとっくに狂うか、なにもかも諦めて運命の汚泥に沈むか。
だが、それでもミーマは耐えていた。
……いや。
ミーマの心に変化が起きていた。
不思議なことに彼女は、ほとんど人生で初めて、自分の中に温かい気持ちが湧き上がるのを感じていた。決して望まぬ妊娠ではあったけれど、それでも自分の中に育っている命を、どうしても否定する気になれないのだ。それというのも、
(……チーシェル、ひょっとして貴方なの?)
それだった。
目の前で引き裂かれた小さなライオンが、生まれ変わって自分の中に宿っている。ミーマは、そんなことを思うようになっていたのだ。
当然、まともな思考ではない。
が、どこの誰かも知らぬ男の子供を、ワケもわからず妊娠させられ、いうがままに生まされるミーマの境遇。
(貴方ならいいわ。貴方なら、私はいい)
それで、そのことでミーマの心が、ギリギリ狂わずにいられるとしたら。
(貴方なら、私は愛せる)
だが、ミーマにそう思わせる、それこそマスコットを破壊した
もし悪魔というものが本当にいたとして、彼らでさえお手本にするだろう。
予定の日が近づく。ミーマは毎日のように、
『チーシェル、貴方は私が、お母さんが守ってあげる……今度こそ』
誓いの言葉を口にする。
繰り返し、繰り返し。
自分の心と身体に、何度も何度も、言い聞かせるように。
しかし無情、その誓いが果たされることは、やはりなかった。
産卵の日がきた。
すべての
また子供は母親の
その日、離れの中で医師に取り囲まれたミーマは、まず麻酔され、眠らされた。既にこの段階で、世間一般の産卵とは手順が違っている。しかしもちろんミーマには抵抗する権利も、またその隙もなかった。
そして目覚めた時、彼女の側には砕けた卵の殻と。
息をしていない、小さな
男の子、
『残念ながら死産であった』
医師はそれだけ伝えると、ミーマを残して去った。
ミーマは、しばらくぼう、としていた。大きかった腹はもう元に戻り、身体の中に命は感じられない。息子の
『……チーシェル?』
息子の名前を呼んで見る。『チーシェル・マームリーシャ』。
だが返事はない。
ミーマが大切に、大切に守ってきたものが、ついに根こそぎ奪い取られた瞬間だった。
喪失感。
と同時に、その大切なものに注ぐはずだったものが、ミーマの中で行き場を失った。
愛するはずが。
愛し抜くはずが。
狂おしいほどの感情がミーマの中で渦巻き、制御不能の嵐となって荒れ狂う。
こんなのおかしい。
こんなはずじゃない。
ミーマはほとんど無意識に、息子の
その時だ。
目にも留まらぬ速さでミーマに飛び掛かり、反撃の暇すら与えず床に押さえつけて制圧した者がある。
暴れるミーマの耳元で、彼女はひとつの言葉をささやいた。
『死者を蘇らせる道がある』
ぴくり、とミーマの身体が痙攣する。
『
呪わしき誘惑の言葉はゆっくりと、優しく、慈しみに満ちていた。
『だが、お前の息子は
ミーマの脳髄が、誘惑の言葉に侵されていく。
『3日後、船が出る。息子の
それでも普段のミーマなら、決して耳を貸すことはなかっただろう。腰の剣を握り締めながら誘惑を跳ね返す、その強さを持てたはずだ。
だが、その時のミーマは違った。
悲しみと喪失感、そして何より、行き場を失った愛情の渦に囚われ、流されるまま溺死しようとしていた。
だからこそ
(チーシェルを、息子を救うことができるなら)
一切の迷いなく突き進むのだ。
ミーマが息子に寄せる愛情の強さ、深さを逆手に取ったこの手管は、もはや狡猾などというレベルではない。悪魔さえ、たとえ教えられたとしても、ここまではしないに違いない。
こうしてミーマは息子の
とはいえ、いかにミーマといえども産卵直後の身体だ。航海の当初は本当に体調不良で、『ゲロ猫』と陰口を叩かれたのも決して演技ではなかった。幸い航海の間に体調も戻り、嘔吐するふりをして食事も取った。周囲から無視される立場を利用し、逆に彼らを観察できたことで、ウォードの不審な動きにも、いち早く気づけた。でなければ、
(あぶなかった!)
そして今、外法の神殿の前、ウォードと相対したのだった。
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