∠ 66 せめて体だけでも


ツクヨミの変態は、止まることを知らない。胸部、大腿部、もはや原型をとどめない筋肉のカーニバルを発展させ、光太郎を殴りまくる。


「ぐっ……!」


腕でガードをしたにもかかわらず、後方に大きく吹き飛ばされた。痺れは残るが、戦闘継続に支障はない。


「くははっ! よく耐えた! まあ一撃で肉塊になってもらってもつまらんがな」


どの口が言うのか。ツクヨミの頭部は筋肉に埋まってもはや見分けがつかない。しかも、筋肉の鎧はあらゆる攻撃を寄せ付けない。見かけはともかく、合理的なメタモルフォーゼだ。


「チビの時より、男前になったな。イルカも惚れ直すんじゃないか」


「貴様に言われる筋合いはないわっ! 輝夜をたぶらかす悪い虫は、天誅!」


ツクヨミは目がくらむようなまばゆい光を放つ。光太郎は視界を奪われ、棒立ちとなった。


光が収まり目は開けられるようになったが、ツクヨミが消えた。そのラグが明暗を分けた。


ツクヨミは団子状になり、天高く跳ねていた。丁度、光太郎の真上だ。墜ちてくる。月が墜ちてくる。廻転を増し、瞑府へと誘うようなギロチンの刃のように静かにただ、落下する。


音速を超える弾丸となったツクヨミが、光太郎を叩きつぶした。橋のアスファルトに亀裂。振動と粉塵はしばらく収まりそうにない。


「あははは、これが報いだ。王に逆らうからそうなる。予のモノに手を出した罰だ」


高笑いを続けるツクヨミの下で、光太郎はみじろぎ一つしない。朦朧とする意識をイルカの声がつなぎ止めていた。


「自分を傷つけるのはもうやめてください」


約束守れなくてごめんなさい。


助けられなくてごめんなさい。


弱くてごめんなさい。


頭悪くてごめんなさい。


役に立てなくて、でもせめて



光太郎の指が動いた。握りこむというより、やっと関節を曲げるような弱々しい動き。ツクヨミはすぐさま察知した。


「なんだ、まだ息があるのか。どれ一ひねりに」


「お前の敗因は……」


覚醒した光太郎は、何トンもあるツクヨミの体を肘だけで持ち上げる。


「表面積を小さくして威力を最大化しなかったことだ。おかけで衝撃が分散できた。そして」


ツクヨミの肉布団が光太郎の手をまきこみ、あらぬ方向にねじ曲げる。激痛が走るが、構わず胸に巻いた爆薬に着火した。


「貴様ああああ!!!!!」


ツクヨミの下腹で幾層もの衝撃と爆炎がはぜる。上空に跳ねることで、衝撃を最小化するが、高くは跳べなかった。何かに阻まれ身動きが取れない。欄干に張り巡らされた黒いワイヤーが、体を雁字搦めにしている。醜く焦げた肉をこぼれさせた姿は、まるでハムのようだ。


「いつの間に……、だが体を小さくすれば」


巨体を縮め、拘束を逃れたツクヨミの目に映ったのは、煙に混じり高く舞う漆黒の影。


狙うは露出した首筋一点。


影は短刀をツクヨミの喉元から首に深々と突き刺さし、地面に縫いつけた。一連の動作は驚くほど静かに行われた。


「あいつはモノじゃない」


ツクヨミが最後に見た景色は、月に群雲。


そうか、何度手折られても、踏みにじられても、あの女はめげなかった。重要なのはモノではないのだ。それこそが、


「輝夜の太陽か。どうりで予が負けるわけだ」 


 


どんな結果に至ろうとも、体だけは持ち帰ると光太郎は決めていた。


足を引きずるようにして、讃岐家への道を歩く。右手は無惨にひしゃげ、つながっているのがやっとだし、その他の骨折も数え切れない。


無益な戦いだった。ツクヨミは激怒していたが、光太郎は別れの意味を込めてあの石をイルカ贈った。ペリドットには、夫婦円満という意味もある。自分の至らなさを棚に上げ、品物で誤魔化そうとした。竹取物語の貴族のような末路を迎えるべきだった。


それなのに自分は勝ってしまった。イルカにどう顔向けすればいいかわからない。英雄気取りで君を守ったよ、などとは口が裂けても言いたくない。


イルカはツクヨミ探しに行こうとしていたが、玄関で翁に制止されていた。


大声で怒鳴り合う彼らの前に、光太郎がひっそりと現れた。イルカが初めに気づき、駆けよった。光太郎はかろうじて動く左手に目玉の模型を載せ、結果を報告する。


「あいつはもう現れない」


イルカはたちまち座り込んだ。押し寄せる罪悪感と期待の入り交じった顔を覆い隠そうと、口元に手をやった。


「もう全部終わったんだ。何も心配しなくていい」


本当にそうだろうか。光太郎はツクヨミの最後に立ち会っている。


「これにて月と地球の盟約は破棄された! 貴様はいずれ悔いるだろう、女一人の命を惜しんだことを。その時になってももう遅いのだ」


地球はいずれ滅びる。だが、光太郎の戦いはこれで終わった。

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