∠ 67 神楽
光太郎の治療費は、全額讃岐家で持つことになった。イルカは輝夜の力を失ったため、再生医療に頼らざるを得ないのだ。
月の船団の依り代に使われていたマリアは、その間の一切の記憶を失っていたものの、滞りなく校長の業務を続けていた。全ては丸く収まったかに見えた。
イルカは一人、月を眺める時間が増えた。まるで喪に服するように家にこもり、学校も休みがちとなる。宇美たちのメッセージに対する反応も鈍くなり、まるでツクヨミの消失が彼女を別の世界へ連れ去ったようだった。
光太郎もまた、イルカへの対処を考えあぐねていた。ひょっとしたら、ツクヨミを殺した自分をイルカは恨んでいるのではないか。そんな妄想も抱くようになり、讃岐家への足も遠のいた。
こうして七月は終わり、八月を迎える。その頃、金環日食到来のニュースが世間をにぎわせた。
さぬき市を二分するように流れる大川では毎年、花火大会が開かれる。例年県外からも多くの人間が詰めかける大きなイベントだ。
宇美と涼子、それに諸矢が、イルカに参加を呼びかけた。イルカは終業式にも現れず、心配になったのだ。当日まで参加の意志を見せなかったイルカだが、笹柄の浴衣を着て待合わせ場所にふらりと現れた。顔色はよく、落ち着いた所作が似合う。以前より大人びて見えたが、よそよそしい挨拶に一同は困惑した。
「ご無沙汰しております」
腫れ物を扱うような空気が流れる中で、光太郎だけが変わらず、甲斐甲斐しく世話を焼いた。イルカもそれを嫌がらず受け入れ、徐々に笑うようになった。
「結局、何も起きませんでしたね」
日付が変わろうとする頃、イルカと光太郎は土手の草に座り、祭りの後の静けさに耳を済ませていた。鈴虫の音や、未だ熱気を帯びた足音の遠ざかる様を堪能していた。
「そうか、今日だったな」
忘れえぬ八月十五日が終わった。予言されていた輝夜姫の消失の日は、幻となったのだ。イルカと光太郎は互いに罰が下るのを恐れ、これまでろくに口を開こうとしなかった。緊張が少し解け、イルカは汗を拭った。
「誕生日おめでとう」
「一日過ぎてますけどね」
今は八月十六日、深夜零時を回った所だ。終電もない。帰りのことは二人とも考えていなかった。
「貴殿からは既に誕生日プレゼントを頂いてますから、よしとしますか」
イルカの首には例のネックレスがかけられている。光太郎にとってはそれが救いだった。
「他の奴からは何かもらったのか」
「ええと、宇美殿からはCD、涼子殿からは、漫画。諸矢殿は」
イルカが指折り数える姿から目が離せない。光太郎はほぼ一ヶ月ぶりに顔を合わせた幼なじみに見とれていた。
「聞いてます?」
「あ、ああ」
注意されて顔を伏せる。小さな子供のように。
「……、友達が一杯だな」
「そうですね。もう家来などとは言えなくなってしまいました」
イルカは川に手近な小石を投げ込む。小さな波紋が浮かんで消えた。
「友達がたくさんいると、愛想のない貴殿なんかすぐに埋もれてしまいますよ? それでもいいんですか」
遠回しに、友達のままでいいのかと問われている。イルカなりの精一杯のアプローチを、光太郎は気づかない振りで通した。
「それならそれでいいさ。幼なじみなんていてもいなくても変わりやしない」
イルカは頭を殴られたような衝撃を受けたが、笑みを絶やすことなく光太郎の目を見た。
「それもそうですね。これからもよろしくお願いします」
「ああ。こちらこそ」
光太郎は飲み物を買ってくると行って、その場を離れた。
イルカは川面を眺めていたが、やがて、膝を抱え震えだした。
「あーあ、哀れよの。我が娘」
イルカの母が慰めるように周囲を巡る。
「胸でも揉ませて押し倒せば良いと教えたじゃろ」
「あんなアドバイス、使えるわけないじゃないですか。はしたないって思われる」
「その癖、勝負下着を買っておる辺りが、けなげよの」
完膚なきまでに振られた。こうなるのが嫌だったから、良い思い出だけを持ってツクヨミの元に嫁ごうとしていたのだ。光太郎がまさか神を打ち破るほど強いとは思いも寄らず、破れかぶれに告白し、失敗した。
「あやつは、輝夜を守る護衛の役に酔っていただけぞ。忘れろ忘れろ」
「そんな……、こーたろーは私を」
いてもいなくても変わらない。そう言い切られてしまっては、反論する気力も湧かなくなる。やはり以前母が言っていた通り、自分と光太郎の道は違える運命だったのだろうか。
「まあ、すぐに受け入れるのは無理な話じゃ。妾も、あの小僧を一発殴ってやりたい」
「もういいです。黙って下さい」
「せっかく円の外にはじき出して、特別扱いしてやったのにな。家来の次は友達。友達百人が幸せだと誰が決めたのか残酷じゃのう。奴はその他大勢の一人に過ぎなくなった」
「やめてって言ってるでしょ!」
懇願するようにイルカは手を合わせた。なぜ何一つ、思い通りにならないのだろう。無念で仕方なかった。もし輝夜のままだったら、光太郎は振り向いてくれただろうか。
「そんなにあの小僧の側にいたいか」
「えっ?」
反射的に顔を上げると、母に鼻の頭を撫でられた。
「なあに、造作もないこと。妾が手を貸してやろう。この娘思いの母に任せれば万事抜かりないわ」
光太郎は自販機の光の前で呆然としていた。彼とてイルカの気持ちに無関心なわけではなかった。自覚する以上に、彼女を求めていたかもしれない。だが、その機会をふいにした。
これまでイルカは守るべき対象だった。彼女を守るためなら拷問めいた訓練にも耐えられた。イルカが輝夜の運命と戦うなら、光太郎は自分に課せられた運命と戦おうと決意していたのだ。
その役目が終わり、平穏な日常を取り戻すと、自分の居場所はどこにもなくなっていることに気づいた。
それに引き替え、自分の手は汚れている。きっとイルカの邪魔になる。高校を卒業したら、地元を離れるつもりだ。それがお互いにとって最良の選択と信じ込もうとしていた。
砂利道を踏む足音が近づいてくる。酔ったように頼りない足取りは、光太郎の背後で止まった。
「……、こーたろー」
待ちきれなくなったのかイルカが追いついてきた。熱でもあるのか顔を赤らめている。舌足らずな甘えた声に、光太郎は一抹の不安を抱いた。
「夜風に当たりすぎたか。すぐ帰ろう、家に電話するから」
何故か、携帯は圏外だった。歩いて帰るには時間がかかる。大通りを出てタクシーを拾うしかない。
そう提案しようとした時、イルカが執拗に体を寄せてきた。浴衣がはだけて、胸元から少し派手なデザインの白い下着が見え隠れする。浴衣は薄い生地で作られているため透けやすい。肌着を着ているのが普通であるが、イルカは脱いでしまったようである。光太郎は目のやり場に困り、身をよじった。
「おんぶか。わかったから落ち着け」
「おんぶぅ! やだっ」
子供じみた言動とは裏腹に、イルカの力は侮れない。光太郎は突き飛ばされ、自販機に背中をぶつけた。イルカは背伸びをし、光太郎の唇に自分の唇を擦り合わせる。貝のように閉じた二人の唇は、互いを吸いつくすために蠢いた。
イルカの唇からは直前に食べたリンゴ飴の味がした。光太郎は腰が抜けそうになりながら、やっとイルカから顔を離す。
「誰だ、お前」
上目遣いで光太郎を観察していたイルカが、くふっと下品な笑い声を立てる。くるりと背中を向け、口調を変えた。
「もうバレたか。神殺しの礼に童貞をもらってやろうと思うたのに」
月の船団が残っていて、イルカに取り付いたと光太郎は推測した。まだ戦いは終わっていなかったのだ。
「質問に答えろ」
「妾が誰かじゃと。知れたこと」
イルカは胸元から扇を取り出し、さっと広げた。そこに広がったのは、影すら寄せ付けぬ漆黒の円。まるで日食だ。
「妾は輝夜姫の真祖にして頂点。そうさな、神楽とでも呼ぶがいい」
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