∠ 64 影の戦い
面倒なことになった。光太郎は表だって動くことを得意としていない。イルカの前で見栄を張ったのが、裏目に出た。翁の密命はひとまず忘れ、争奪戦に力を入れる。
イルカはどちらにも肩入れできずに、右往左往していた。光太郎を応援すれば、ツクヨミに本心を気取られる。さりとて、ツクヨミを応援しても、光太郎に大して面目ない。
男たちは雌雄を決めるための戦いをすぐにでも始めたかったが、環境がそれを許さなかった。
マラソン大会の総括として、大会の問題点と課題をレポートに纏める試験が課された。
その後、カリキュラム毎に十日間の中間考査に突入する。イルカたちは勉学に追われ、色恋どころではない。図書館に缶詰になり、昼夜を問わず知識を詰め込む。疑問を差し挟む余地はない。宝蔵院の生徒でいるには、まずこの地獄の季節を乗り切らなければならないのだ。
宇美はかなり苦戦していたが、イルカはバイトの合間に貴教に教えを請うていたし、秀才の涼子は難なく試験をパスできた。三人とも自己採点で赤点は回避できるだろうという結論が出る。
無事試験を乗り切った喜びを分かち合おうと、三人娘はカラオケ店に集まったが、そこに光太郎の姿はない。
彼は古典の単位を落としかけ、補習に望みをつないでいた。試験の合間に捜し物をしていたため、勉強時間は削られている。それを言い訳にするつもりはない。光太郎は頑なに日常と影の生活を守ろうとしていた。
古典の授業では、かぐや姫を扱っている。嘘つきの貴公子たちが宝の偽物を作らせ、姫に献上する。馬鹿な奴らだ。自分なら本物を持ち帰って、姫を納得させられる。
「あれ、八角君も補習受けるんや」
なれなれしい声が、光太郎を現実に引き戻す。菱川諸矢が含み笑いをしながら隣の席に座った。
「悪いか」
「そんな邪険にせんでもええやろ。同じイルカちゃんのファン同士……」
諸矢の軽率な発言は、光太郎の眼光一つで遮られる。もはやイルカ関連の冗談すら受け付けなくなっていた。
「俺は単なる幼なじみだ。放っておいてくれ」
光太郎は参考書に目を落とした。彼の対人遮断スキルに大抵の人間は諦めるが、諸矢は鈍感な振りをして居座り続ける。
「いやあ、負けたわ。そりゃ、俺より長い時間過ごしてるんだし、当然か」
諸矢が降参するように両手を上げるのを光太郎は忌々しそうに見つめる。
「イルカちゃん、君しか見てへんで」
参考書を握る力が強まる。感情のコントロールは忍の基本だ。それができなくなりつつある。
「……、気のせいだろう。あいつは俺の顔を見たことがない」
「そういうことじゃない。あの子はここを見てる」
諸矢は、光太郎の胸に拳を向けた。
「心は見えないぞ。変なこと言うな」
「そうかなあ。気持ちは伝わるって俺は思うてるけどな」
光太郎は詩人の諸矢から視線を外した。自分がしているのは、鬱屈した思いを誤魔化すための行為に過ぎないのではないか。これでは貴公子たちを笑えない。
「だから君が困っているのがわかる。俺でよければ力になるで」
結局、光太郎は仇敵諸矢の助力を仰ぐことになった。
どうせ自分は、影だ。偽物には偽物の戦いがある。
迷走する光太郎をよそに、二階堂宇美は羽を伸ばしていた。辛くも試験を突破したことで浮かれ、夏の予定を視野に入れる。好きなアーティストのライブのチケットを予約したのはその手始めだ。
国木田涼子は、夏の終わりにあるコミケに向けて準備を開始した。コミケは日本最大の同人誌即売会だ。宇美はエロ本と断じたが、それは物事の一側面に過ぎない。宇美に理解を促すために、虎の穴に連れていくのは準備の一環だった。
「お?」
虎の穴の帰りに、宇美は見知った顔を発見した。
さっそくスマホのカメラて画像を保存し、イルカに送信した。
SNS映えするクレープ店を前に、宇美と涼子がクレープを頬張っている。イルカはその日、翁の個展の手伝いをしていた。翁も甘いものが好物なので、帰りにデパートでパフェを食べた。
イルカはクレープに気を取られ、重要な見落としをしていた。背景に映り込むクレープ店の店員は、イルカのよく知る人物だったのだ。
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