∠56 傷だらけの手
小町はイルカを先導し、不審な男から引き離した。二人は無我夢中で走り、石畳の道にさしかかる。
「小町殿、この度のことは私のせいかもしれません」
イルカは沈痛な面持ちで迷惑を詫びた。
「自分が世界の中心だなんて考えない方がいいよ。子供じゃないんだしさ」
字面だけを追うと相変わらず冷淡だったが、先程より小町の口調は柔らかくなっていた。
イルカに敵対的だった小町が今や庇護者のように振る舞っているのは、不測の事態による連体感によるものか。皆の頼れる委員長は、困っている人を放っておけないのだ。
「後ろついてきてる」
「えっ」
「振り向かないで。ペースもそのまま。この先二つ目の角で曲がるよ」
イルカは小さく頷き、指示に従う。
二人が曲がった直後に、慌ただしい足音が通り過ぎた。イルカたちは、民家に立てかけてあった顔ハメパネルの裏に身を潜ませ、追跡者をやり過ごすことに成功した。
「どうやら追われてるのは間違いないみたいね」
「ですね」
頭をよぎったのは、富嶽統一会。彼らがイルカを狙っている確証は未だ得られていない。それでも今回の異変に絡んでいないとも言い切れない。
緊張の中、小町は自分の頬を押さえ、冗談めいたことを口にする。
「私の美少女度が高くて狙われてるのかも」
「あはは」
「いや、笑うところじゃないし」
諸矢仕込みのボケツッコミに、イルカは心を開きかけていた。
「貴殿は私のことを嫌ってると思ってました」
「今でも嫌いかな。悪いけど」
イルカの顔から笑みが消える。小町は竹を割ったような性格だ。先送りも、誤魔化しもできないらしい。
「世間ずれしてないっていうか、何にも染まってないところがいいんだろうね。初めは猫被ってるのかと思ってたけど、違うみたいだし。そうでしょ?」
「え……、ええ」
理解しないまま肯定すると、小町は非難するように目を細めた。
「ぶれない強さを持ってるから、菱川君は貴女に惹かれたのかな」
イルカは、ようやく小町の気持ちに気づいた。火消しに入る。
「私は諸矢殿のことをなんとも思ってないですよ。彼だって私のことはone of them としか思ってないと思います」
「私は嫌だな。一番じゃなきゃ」
小町は絞り出すように胸中を訴える。
イルカは心の中で同意した。諸矢は相手に対して不誠実だ。とはいえ、ツクヨミに対して気持ちを偽る自分も、似たようなものだ。諸矢に対するイルカの感情は、同族嫌悪に近いものなのかもしれない。
「一番になりたいですね」
「うんっ! 今からでも間に合うかな。実は一着を狙ってたんだ」
小町は快活な口調で話題を切り替えた。これで遺恨が晴れたわけではないが、今は無事に皆と合流する方が先決だと小町も考えたのだろう。
「実は私、視界が悪くてよかった面もあるんです」
「それはどうして?」
小町がパネルから慎重に顔を出す。イルカも耳をそばだてるが、足音は聞こえない。
「標識とか、信号機が怖いから走り切る自信がなかったんです。今なら良い勝負かもしれませんよ」
「それは楽しみだ。正々堂々戦おう」
小町に手を借りて、イルカもパネルの陰から踊り出た。靄は未だ晴れていない。加えて二人以外の物音もしないので、不気味さに拍車がかかる。小町も不安になったのかこの場をすぐに離れるように主張する。
「みんなもう結構先に行っちゃったかな。急がないと……」
小町は路地の片側を見据えて、口を閉ざした。視線の先にいたのは、先ほどバス会社の社員を名乗った男だ。反対方向に目を向けると、レスラー体型の大男が道を塞ぐように立っている。計ったようなタイミングで現れた二人を前に、戦慄が走る。
「駄目じゃないですかあ。大人の指示に従わないとお」
不自然に語尾を伸ばしながら、男たちは近づいてくる。古民家に挟まれた路地ゆえ、逃げ道がない。小町はイルカを背中に庇うようにしていたが、手が震えている。イルカは彼女を巻き込んでしまい、申し訳ない気持ちで一杯になった。
「こんな所にいたのか。探したぞ」
イルカが自分を犠牲にしようとした刹那、一陣の風と共に黒い影が頭上から舞い降りた。鴉のような身軽さと、黒一色の頭巾と忍び装束は、一度見たら忘れられない。
「月影殿……!?」
これまで影の異名通り暗躍していた彼が、ついに表舞台に姿を現した。頼もしいといえば頼もしいが、どうやってここがわかったのか悠長に尋ねる暇はなかった。
「なんだ、てめえは」
楽しい狩りを邪魔されて気が立っているのか、ドスの効いた声でレスラー風の男がすごむ。月影は彼に背中を向け、小町とイルカの無事を確認している。隙だらけに見えた。
男は静かに間合いをつめ、上腕を振り上げる。間抜けなヒーローの後頭部を砕くための不意打ち。だが、その程度の動きは月影には想定済みだった。
「おひょっ!」
男の両腕が自分の意志とは無関係に背後で寄り合わされ動かせなくなった。短い首を回して状態を確認すると、黒い帯のようなものでがんじがらめにされている。
そこからの時間は、男にとって地獄以外の何者でもなかった。無抵抗の状態で顔面を殴られ続けた。殴打によって、血が飛び散るたびに、小町は目を瞑って共感による苦痛に耐えねばならなかった。
月影は暴力を振るうための機械に様変わりしてしまったようだった。男が気を失ってもなお、胸ぐらを揺さぶって気付けをしようとしている。
「きゃあああ!」
イルカが制止しようとした所、小町が悲鳴を上げた。バス会社の男(?)が、小町を羽交い締めにしてナイフをつきつけていた。相手は歯の根もかみ合わないほど震え、必死の形相で小町を盾にしている。
月影は姿勢を低くし、目にも止まらぬ早さで距離を詰めると、ひ弱そうな男の膝頭に蹴りを入れた。悶絶して倒れた男に馬乗りになると、奪ったナイフを喉に突き刺そうとする。
「やめて!」
イルカの叫び声は、最悪の惨劇を寸出の所で踏みとどまらせた。月影の顔は見えなかったが、くぐもった哀れに満ちた声を発する。
「俺が……、君にしてあげられるのはこれくらいしかないから」
イルカは膝をつき、月影の手をかき抱いた。
「貴殿の手はいつも傷だらけ。私はそんなことを望んでいないのに。約束してください。もう自分自身を傷つけないと」
ゆっくりと宥めるように触れていると、月影の手からナイフが滑り落ちた。
「綾瀬さん……、その人、知り合いなの」
離れた場所に避難していた小町が、恐る恐る探りを入れた。
「ええ、私の大切な人です」
イルカは力強く答えて、月影に目をやった。彼はうなだれて、放心しているようだった。
「……、お前は許せるのか。理不尽な悪意を」
イルカは尻餅をついていた小町を立ち上がらせ、靄の晴れ始めた通りに向かった。
「貴殿が怒ってくれましたから。また何かあっても、駆けつけてくれるのでしょう?」
先程とは逆で、イルカが小町を先導してレースに復帰した。なかなかペースは上がらなかったが、前へ進もうとする意志は微塵も変わらなかった。
月影は座り込んだまま狭い空を見上げていた。ふと手元のナイフの刃で自分の目を映した。一重で、目つきの悪さには定評がある。
「……、女の勘は鋭いな」
彼は幼なじみを甘く見ていた。イルカには、とっくにお見通しだったのである。
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