∠ 57 君の声が聞きたくて


その後、大会がどうなったかというと、


「後少しです、がんばって」


イルカは、小町を励ましながら並走した。大言壮語を吐いた小町に体力はなく、やれ足が痛い、わき腹が痛いと休もうとする。限界なら棄権してもいいと何度も勧めたが、彼女のプライドが許さないらしく、決して諦めない。


道中、色々な話をした。友人のこと、好きな相手に対する愚痴、将来の夢。理解が深まるにつれ、単なる道ずれではなく、かけがえのない相棒のように感じるようになった。


ゴールのある、さぬき市庁舎前に着いた時には午後七時を回っていた。オーディエンスも何もない寂しい旅路だったが、とにかく楽になりたい一心で二人は支えあった。


ゴールテープなどの目印はなかったものの、マリア校長が腕を組んで立っている。イルカは疲労困憊で、彼女の胸に飛び込むのが精一杯だった。薄れゆく意識の中で、マリアの唇の動きが目に入った。


「お疲れさま。今はゆっくり休みなさい、輝夜姫」


マラソン大会の翌日は休校となっていた。イルカは筋肉痛がひどく、うつ伏せでツクヨミのマッサージを受ける。髪に鼻息が当たるのがうっとおしく、触り方がいやらしいのがたまに傷だが、不思議と体が楽になった。


宇美と涼子が完走したとの報告をスマホで受けた。返信する余力がなく、禄にメッセージも読めず放置するしかない。


スマホを握ったままうとうとしていると、着信が入った。画面にはこーたろーと表示されている。スマホは振動を続けている。イルカは目の色を変え、ツクヨミに意見を求めた。


「ねえ、どうしたらいいの! 教えて下さい」


「落ち着くのだ。どれ疲労の輝夜に代わり予が」


イルカは横むきになって邪魔なツクヨミを背中から落とすと、通話ボタンを押した。連絡先を交換したのだ。こうなることは予想できたはずなのに、胸が苦しくて仕方ない。


「……」


一念発起して電話に出たのに、スピーカーからは何も聞こえない。光太郎はいたずらをする性格ではないから、イルカが話し出すのを待っていると思われる。


「もしもし……、八角殿?」


遠慮がちにイルカが誰何すると、電話口からうめきめいたものがしてから、光太郎の低い声が後に続いた。


「夜遅くにごめん、迷惑だったか」


時刻は夜八時を過ぎているが、個人的に迷惑という程でもない。讃岐家では八時以降の電話は原則禁止となっている。光太郎の配慮は、これまで本電話でしか通話したことがなかった名残だろう。


「いえ、晩ご飯を食べて休んでいたところです。八角殿は?」


「外だ」


バイクの排気音が間近に聞こえた。どこをほっつき歩いているのだろう。まさかこれから家に来るとか言い出すのではないか。光太郎ならありうる。イルカは手鏡で我が身を省みる。髪はボサボサだし、表に出られる容姿をしていない。


「今どこですか。翁が怒りますよ。日本刀とか持ち出しますからね」


「……、何で俺が爺に怒られるんだ」


光太郎と電話をするのは久しぶりで、イルカは何を話していいかわからない。子供の頃は翁の目を盗んで電話をかけあっていた。その習慣が絶えたのは、光太郎が事故にあって、家来でなくなった時だ。


「なんだ、黙るなよ。マラソンでケガでもしたのか」


光太郎の声はあの頃より低く、本人も持て余し気味だった。大人にしては威厳に欠け、背伸びしている気がする。


「八角殿の声を聞いていました」


「そうか。俺もお前の声が聞きたくて電話した」


イルカは筋肉痛を忘れ、襖に背中をぶつけるまで距離を取った。わなわなと手を震わせる。


「八角殿がなんか気持ち悪い。もしや偽物」


「そこまでか。悪かった、忘れてくれ」


電話を切られそうだったので、イルカは急いで引き留める。


「何かあったんですか?」


光太郎はためらいつつも、打ち明けてくれた。


「気合いを入れ直したくてな。これから一勝負ある」


イルカは正座しなおし、髪をくるくるともてあそんだ。


「危ないことはしませんよね?」


「場合によっては……、いや、善処する」


事情を知らないイルカとしては光太郎を信じるしかなく、それなら連絡がない方がいいような気がするが、頼られて悪い気はしない。むしろ嬉しい。


「約束しましたものね。傷つけたりしないと」


「何の話だ?」


「こっちの話です。明日は宇美殿たちとお疲れさま会をするんです。ちゃんと来ないとダメですからね。お休みなさい」


イルカは一方的に通話を切り、縁側に面した廊下に出た。冷たい月が煌々と光を放つ中、柱によりかかって物思いにふけった。顔のほてりが冷めるまで、部屋に戻れそうにない。

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