∠55 マラソン大会開幕
マラソン大会当日の天気は、はっきりしなかった。昼過ぎには晴れるとの予報が出ていたが、朝九時現在はいつ降り出してもおかしくない曇り空だった。
「何キロ走るんだっけ」
気だるそうに訊ねながら、宇美は靴紐を結び直す。
「42、195キロ」
涼子が無表情のまま事実を伝えると、宇美は涙目で首を振った。
「ガチな奴じゃん、それ。聞いてないし」
「散々アナウンスされてたと思うけど。今日のために一杯練習したんだからなんとかなる」
励ますように涼子は答えるが、不安なのだろう。周囲に目を配る。
香具山城西門の前には、体操服姿の生徒が折り重なるように集まっていた。宝蔵院一年総勢百人余りが、マラソン大会の開始を今かと待ち受けている。
「お待たせしましたー」
イルカが二人より遅れて現れた。その背後には諸矢と光太郎の姿がある。
「あー、どこぞのお節介が出しゃばったせいで遅れたなあ」
諸矢が独り言のように述べると、光太郎もムキになって、渋面を作る。
「自覚のない足手まといはタチが悪いな。ああはなりたくないものだ」
諸矢と光太郎は互いの顔を見ずに、いがみ合っている。
「八角殿が諸矢殿をおんぶして運ぼうとしたんです」
イルカによって仲違いの理由が露見すると、宇美と涼子は笑いを堪えるのに必死だった。想像するだけでおかしさがこみ上げてくる。
「それにしても長いな。フルマラソンか」
諸矢の言い分はこの場にいる全員が納得する所だ。文武両道が校風の宝蔵院にしても、このイベントは苛烈に映る。途中棄権は認められるが、病気などの理由があっても不参加は認められない。
「女子と病人は半分でいいて言われてるけど、しんどいわー」
そこで諸矢は光太郎を伺ったが、そっぽを向いている。真意が通じないならわからせるまでと、背中を叩く。
「ここで、おぶってやろうかって言わんかい!」
諸矢渾身のボケツッコミに光太郎は目を白黒させていたが、周りの人間は大爆笑していた。良い具合に緊張が解れたところで諸矢は別のグループをひやかしに行った。
「悪い人ではないですよね」
イルカは光太郎に同意を求めるが、無視された。和解にはまだ時間が要りそうだ。
諸矢が小町と談笑しているのが目に入る。こちらもまだ難しそうだった。
アナウンスが入り、クラスごとに整列するよう指示があった。前日に全体予行練習があったため、整列はスムーズに進んだ。
一度並んでしまうと、前後左右黒い頭ばかりに視界が占めれ、身動きが取れなくなってしまう。イルカは、少しでも息を吸おうと空を見上げる。
「いたっ!」
背後からうめき声がした。身じろぎできるスペースがないのを忘れていた。イルカの後頭部が誰かの鼻に接触したらしい。
「こら、振り返らない。子供じゃないんだから、きょろきょろしないで」
突き放すような少女の声に、イルカは心当たりがあった。後ろにいるのは小町だろう。まずいことになった。彼女はイルカに良い感情を抱いていない。
「ごめんなさい。息が詰まりそうだったので」
「それはみんな同じだよ。貴女だけが特別じゃないんだから」
案の定冷たくあしらわれた。一刻も早くスタートして宇美たちと合流したい。合図があるまでは私語も禁じられているため、うっかり口も開けない。
「あれは……」
「今度は何?」
「風船が、見えました」
首を逸らさない範囲で顔を上げていると、空を赤い風船が横切って、城の方角に流れていくのが見えた。
「どこかの子供が離したんだよ。不注意な人ってどこにでもいるもんね」
涼子のおかげで嫌みには慣れてきたが、すすんで受け入れたい状況ではない。それにしても小町とこれだけ長く会話したのは初めてだ。
「私たちは子供じゃない。自主独立を重んじる宝蔵院が全体主義めいたイベントを行うのは矛盾してると思う」
「そうですね」
「貴女に聞いてないよ! 私語厳禁」
話しかけられたと思ったから答えたのに、理不尽な仕打ちだ。段々鬱憤が溜まってきた。
この苛立ちをレースにぶつけるべきだ。上位入賞者には景品が貰えると聞いている。イルカのやる気に火がついた所で、タイミングよくスタートの号砲が鳴る。
やる気だけは誰にも負けないつもりだったが、我先にと駆け出そうとする生徒にもみくちゃにされ、思うように前に進めない。
「早く行ってよ!」
小町はイルカの真後ろから怒号を飛ばす。スタートした以上、配置に拘る必要はないのだが、どうあってもイルカを目の敵にしたいらしい。このまま後ろで騒がれたら、レース所ではなくなってしまう。注意を余所に向けようとする。
「諸矢殿はあっちにいましたよ」
「そんなの聞いてない。貴女が出遅れたから私まで」
小町の悔しげな声が雑踏に消える。安否を確認したいが、群衆の流れには逆らえない。前に押し出される。
ようやく自分の意志で動けるようになる頃には、小町の姿はなかった。それどころか宇美たちまで見失ってしまった。
男も女も歯を食いしばり、先を争う。名門校の生徒というより、動物の生存競争に近かった。
彼らの熱気を感じても、イルカは冷静だった。出遅れは痛いが、無理にペースを上げれば最後まで持ちこたえられない。完走が目標なら、自制も必要となる。
一度に放たれた生徒が団子になり、石橋が渋滞している。なんとも杜撰なイベントだ。市に反対されるのもわかる気がする。
橋を渡り切るまで十分もかかった。ここから城下町の低い軒が見えてくるはずだったが、
「……?」
イルカは目をこすり、何度も眼前の光景を確認した。
町が、白い靄のようなものに包まれて判然としない。町だけでなく、数メートル先の景色もミルク色の靄に飲み込まれつつある。スマホの地図にコースを入れていなければ、迷子になってしまいそうだ。
立ち止まっていると急に肩を叩かれ、振り返る。そこにいたのは、スーツ姿の男性だった。二十代くらいで黒の短髪、気弱そうな雰囲気が警戒心を一端和らげた。
「宝蔵院の生徒さんですか」
「は、はい」
「濃霧警報が発令されました。大会は中止です」
「ええっ!?」
あまりの展開にイルカは頓狂な声を上げる。この霧が、自然のものか確認するのを忘れるほどには動転していた。
「貴殿は学校の職員ですか」
「いいえ、自分はバス会社の社員です。他の生徒の皆さんは既にバスに乗ってお待ちですよ」
バスで学校まで運んでくれるという。言われるがままイルカは男の後についていこうとした。
「綾瀬さん!」
小町の鋭い声が、イルカの浅慮を救った。
「何してるの? コースから外れてるよ」
「え? でも中止じゃ」
小町は黙ってイルカの腕を引き、連れ戻そうとする。バスの男は後を追いかけてきた。
「待ってください! 霧が濃くて危険です」
「危険なのは霧だけですか? あなた、バス会社っておっしゃいましたけど、どこの会社ですか」
小町の指摘に、男は即答できない。人を疑う経験の少ないイルカにはできない芸当だ。さらに小町は追求の手を強める。
「バスが止まっているのはどこですか? この辺、道幅が狭いから停められる場所は限られる。あなたは香具山城の駐車場の反対側から現れた。信用しろというのは無理な話です」
男は釈明もせず怖い顔で、イルカに迫ってくる。さすがに危機感を覚え、小町と共に走り出した。
「すごい! 名推理です」
「話は後。走るよ」
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