∠51 裏返しの心臓
「また明日ですね」
「ああ」
イルカが明日を強調するのは、彼女にとって一日一日が貴重だからだ。光太郎にその機微が伝わるとは思えないが、遠くない将来、理解してくれるものと信じている。できるなら、人体模型のように自分の心臓を取り出して光太郎に見せつけてやりたい。
夢想していたイルカは自分の部屋の襖を開け、現実に立ち返る。
ツクヨミと対面するように座っていたのは、彼の従者ミカである。白日の下にあっても、ボンテージ姿の怪しい女とツクヨミは奇妙な組み合わせだ。
「お帰りなさいませ、輝夜様」
畏まった口調のミカが立ち上がり、場所を空けた。ツクヨミは鷹揚に頷き、イルカに座るように促した。
近頃、ツクヨミは家を空けていることが多い。バイト帰りの護衛はミカがしてくれるが、ツクヨミが目に付かない所で危険にあっていないか不安でならなかった。
「ミカ殿、今日はどういった御用向きで?」
「調査の報告で参りました」
ミカは事務的に応えてから、先を続けるべきかツクヨミに目で確認を求めた。承諾を得られると、ややためらいがちに口を開く。
「富嶽統一会についてです」
富嶽統一会。公園で遭遇した新興宗教だ。ミカが調査をしていたということは、何か尻尾を掴んだのだろうか。
「調査によると、富嶽統一会は平成初期に発足。神道系の流れを汲む団体で、神主などの神社関係者も名を連ねているようです」
道場では、特に怪しいことは行っておらず、公民館のような和やかな雰囲気だったという。
「道場に潜入すると、子連れの母親向けのヨガ講座、料理教室、有名講談師を招いての講演などが行われていました」
「なんだか楽しそう」
うっかり口を滑らせたイルカを咎めるように、ツクヨミは厳しい目を向けた。
「輝夜も知っていると思うが、富士山の名は不死に由来している。山頂で不死の薬を焚いたためだ」
「あるんですか。不死の薬」
イルカはこれまで半信半疑だったが、妙に引きつけられた。膝を前に進ませる。
「あるわけなかろう。人間には手に余る代物だ」
「だって、富士山が由来って……」
「それは後世の人間が付け足した願望だ。物語と現実は違うのだぞ」
物語の約束を実現させようとしているのは他ならぬツクヨミだ。てっきりツクヨミが竹取物語を書いたと思いこんでいたが、違うのだろうか。では一体誰が……
「虚構と現実の区別がつかぬ輩はいつの世も現れる。彼奴らもその一派の可能性がある以上、警戒するにこしたことはあるまい」
大胆不敵なツクヨミにしては、慎重な意見だ。それだけ富嶽統一会を脅威に感じていると思いきや、最後はいつもの所に落ち着く。
「でなくば円滑な小作りも望めぬ! 後顧の憂いを絶ってこそ、男子は立てるのだ」
カエルのように飛びつこうとしてきたツクヨミを、イルカは冷静に避ける。襖に頭が突き刺さったツクヨミを放置して、ミカと話し始めた。
「ミカ殿はこれからも富嶽統一会の調査を続けるのですか?」
「それが陛下の望みですので」
ミカに実体はないそうだが、肉の器に乗り移って動かしていると聞く。全く無関係の第三者が傷つく恐れもあるわけだ。
「危ないことがあるかもしれませんから、無理はしないで下さいね」
「ありがとう。貴女も学校の行事頑張って」
ミカの励ましは、教師の訓育に似てこそばゆい。学校にいるようで背筋が伸びる。
「やはりミカ殿とどこかで会っていませんか」
「き、気のせいじゃない? 世界には似ている人が三人とか四人いるっていうし」
上擦った声で誤魔化すミカは、やはり人間臭かった。イルカは彼女の正体をいつか突き止めたいと思った。それは好奇心というより、ミカが身近な人間だという直感が働いたからだった。
「あ! イルカちゃん、携帯買ったんや」
教室で宇美と涼子に使い方を習っていたイルカに、諸矢が話しかけてきた。痛々しそうに足を引きずっているが、松葉杖は持っていない。
「姫、こいつに連絡先教えちゃダメだよ」
宇美が耳打ちするまでもなく、イルカも気が進まない。だが、諸矢はこちらの事情にお構いなしに話に入ってくる。
「機械とか弱そうやけど、大丈夫か?」
「円以外なら平気です」
胸を張るイルカをからかうように、諸矢は携帯の表面に指をはわせた。
「ズームって知ってるか? くるくるーってな」
諸矢の指の動きに翻弄され、イルカは蜻蛉のように目が回ってしまった。
「ちょっと菱川君! 姫の弱点わかっててやってるでしょ。最低」
宇美が声高に非難しても、諸矢はイルカのスマホをいじるのをやめない。狙いは明らかだ。イルカの連絡先を知ろうとしている。
「ほな、後で連絡するなー」
諸矢は目的を果たすと、そそくさと離れていった。
「図々しい。これだから陽キャは」
涼子が毒づくと、宇美も同意を示した。二人揃って諸矢に敵愾心を持っている。諸矢が二人に関心を示さないのが気に食わないのだ。
「あ、そうだ。ついでに国木田さんの連絡先も聞いてええ?」
「はえ?」
突然戻ってきた諸矢に、涼子はしどろもどろになる。自分は関係ないと油断していた。
「べ、別に……、私の連絡先なんて聞いたって仕方ないし」
「二階堂さんとは前に交換してるし。これも何かのご縁てことで」
上手く言いくるめられ、涼子も連絡先を交換した。それを脇で見ていた宇美は嫌みな笑みを浮かべる。
「今の見ました? イルカさん」
「ええ、しかとこの目で」
二人は涼子の挙動を怪しむことしきり。涼子は顔を赤くしてスマホを握っていた。
「なーに、赤くなってんだよ! イケメンにほだされやがって。今、こいつの胸絶対ドキドキしてるぞ」
宇美が涼子の胸に耳を当てた。イルカも入れ替わりで同じ行動を取る。
涼子の鼓動は確かに早かった。自分も似た状況になるかもしれないと、イルカは気を引き締める。本当の気持ちを悟られてはならない。特にツクヨミにだけは。心臓が取り出せなくて本当に良かった。
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