∠50 嫉妬
光沢のある赤壁が、イルカの進入を阻む。スーパーの入り口には砦のように林檎が積み上げられていた。早々に現れた強敵を前に、イルカは立ちすくんだ。
「さっさと済ませて帰るぞ」
光太郎はイルカに目を瞑るように言ってから、腕を引いて誘導した。初めはどうなるかと思ったが、頼もしい味方になってくれた。
「楕円か。この間、ラグビー部の体験入部をしたが、それを思い出す」
光太郎が自分のことを話すのは珍しい。高校に入ってからは余計に寡黙になり、無理に聞き出さない限り知る機会のなかった情報だ。イルカは耳を澄ませ、一言も聞き漏らさないようにしていた。
彼は饒舌に続ける。
「そこの主将は野菜が嫌いだったそうだが、克服できた。何故かわかるか」
「いえ……」
店内に入っても、光太郎は誘導を続けている。イルカは人目を気にし、俯いた。
「大会で勝つという目標があったからだ。体作りにはバランスの良い食事が欠かせない。我を捨て、実を取ったわけだ」
説教のつもりか。イルカはムカムカしてきた。まるで自分の甘えを指摘されているようで、面白くない。
「私だって好んで今の境遇に甘んじているわけではありません」
「じゃあ頑張らないとな。俺にできるのはこのくらいだ」
光太郎は卵のパックをカゴに入れた。カゴが少し重くなる。
中途半端な励ましなんていらない。無関心なのかそうでないのか、はっきり態度で示して欲しい。イルカは威嚇するように光太郎を睨むのだった。
「貴兄にセクハラされてないか」
スーパーを出て踏切で待つ間に、光太郎が探りを入れてきた時には、イルカは驚いて卵の袋を落としそうになった。
地面に落ちそうになった袋を、光太郎とイルカは同時につかんだ。意図せずして指が絡み合う。お互い手を離さずに姿勢を戻す。
「貴教さんはそんなことしません」
「貴教さん、か」
他人行儀な呼び方に、光太郎は皮肉めいた笑みを浮かべる。
「私が何したって、八角殿には関係ないではありませんか!」
数日前の怒りがぶり返してきて、イルカは光太郎に噛みつく。本当は解けそうな絆を必死で繋ぎとめようとしているのだ。
「友達だからな。関係なくはないさ。皿とか割ってないのか」
「余裕ですよ」
本当は三枚割っている。悔しいので見栄を張った。光太郎は疑うつもりもないのか素直に受け取る。
「偉いな。俺なんか学校だけで手一杯だ」
光太郎にだって彼の生活がある。イルカはその領分を全て自分に捧げて欲しいと願っていた。これではツクヨミと同じではないか。相手に求めすぎても上手くいかない。恋愛以前の問題だ。
イルカは自分の非を認め、自然に話すように努めた。
「学校、楽しいですか」
「まあな。二階堂とか騒がしい気がするが」
「涼子殿はどうですか」
「時々何考えているがわからんが、良い奴だと思う」
「涼子殿とは気が合うのですね!?」
試すように言うと、光太郎は首を傾げた。
「……、どうだろうな。まだそんなに喋ったことはない」
些細な言動に一喜一憂しているうちに、踏切が開いた。二人は手を繋いだまま貴教の店に急いだ。
「遅いぞ。開店三十分前だ」
貴教は光太郎の顔を見るなり、棘のある口調でなじった。イルカは自分の要領の悪さが原因だと思い、小さくなる。
光太郎は店のカレンダーに目をやった。
「今日はイルカの出勤日なのか?」
「違いますけど」
「じゃあ手間賃はもらえるんだろうな?」
光太郎が庇うように牽制すると、貴教は渋々硬貨をテーブルに置いた。
「仲直りはしたのか、お前ら」
イルカは貴教の視線が、自分と光太郎の手に注がれていると気づいた。スーパーから店までずっと手を握っている。指摘されて、おずおずと指を離した。
「イルカ、手間かけさせたな。賄いでも食ってくか」
「いえ。暗くなりそうなので……」
光太郎が早く店を出たがっている素振りを見せたので、イルカは断った。
いつかのようにイルカを先に店から出し、光太郎は貴教と向き合う。
「こんな時期にバイトさせるなんてどうかしてる。あんたから辞めさせくれないか」
貴教は小馬鹿にするように笑い、一顧だにしない。光太郎は少し頭に来た。
「本人に直接言え」
「あいつは俺の言うことを聞かない。あんたも知ってるだろ」
光太郎はイルカから距離を置こうと考えていた。その方が彼女のためになるという結論を導き出していたのである。それでも、友達として口出しする権利くらいは残されていると、自分を騙す。
「それに、あいつと結婚するとか言ったらしいな。冗談でも笑えない。からかうのもやめてくれ」
「うるせえな。じゃあお前が守ってやれよ」
投げやりな態度に、光太郎はしばし言葉を失う。
「できないんだよな? 光太郎、お前はイルカの友達として側にいるしかないんだよ」
「あんた……、何を」
貴教はイルカの秘密をどこまで知っているのか。訊ねようとしたが、開店を理由に遮られた。
店の外ではイルカが待っていた。光太郎を見るなり、顔を綻ばせる。
イルカが働くことに反対したのは防犯上の理由だけではない。貴教とイルカが親しくするのを見ると、言いようのない焦りを覚える。
このひりつくような感情が嫉妬だと彼は知らない。
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