∠44 虎の穴
翌週、イルカは教室で涼子と接触を試みる。だが折悪く、諸矢が話しかけてきた。しかもなかなか離してくれない。かくなる上は、フリスビー作戦。
「諸矢殿、ドローンが回転周期を増して校舎に迫っています。撃退してきてください」
イルカの目的はあくまで涼子だ。適当な理由をでっち上げて諸矢を追い払うと、涼子の席に近づいた。
「何? 今忙しい」
涼子は席でカバー付きの文庫本を読んでいた。イルカは本の内容を言い当てる。
「風っぴきボクサーですか」
涼子は短く目を上げた。
「へえ……、覚えてたの」
「貴殿と、もっと仲良くなりたいですから」
明らかに不興気に眉を持ち上げる涼子。
「ふぅん、それならこちらにも考えがある」
放課後、イルカは廊下で光太郎とばったり出くわした。彼は朝から眠そうだった。授業中もうとうとしていたし、今も目に青黒い隈をこさえて立っている。
「よお……、今帰りか」
「はあ」
上の空のイルカを、光太郎は訝しむ。
「授業終わった。一緒に帰るか」
奥手な光太郎からの誘いに、イルカは我に返る。千載一遇の機会だが、今は間が悪い。
「お気持ちはありがたいですが、私はこれから穴に向かわなければなりません」
いよいよ光太郎の顔は深刻の度合いを増し、イルカを慮る。
「地獄に向かう気か」
穴といえば、円であることが伺い知れる。イルカにとってはそれこそ清水の舞台から飛び降りるより度胸がいるはずだ。
「かもしれません。ですがこれは必要な事です。御免!」
「待て。俺も行く」
「いやいや女同士のことゆえ」
押し問答になり、光太郎を振り切るのに時間を要した。彼なりの使命感の現れと焦りから来るものだったが、イルカは知る由もない。
「これから虎の穴に向かう」
校門で待ち合わせた涼子の口から飛び出たのは、摩訶不思議な異名である。
「虎の……、穴、ですか」
イルカは復唱して、唾を飲み込んだ。光太郎の言うとおり、まるで地獄への入り口のようだ。虎穴いらば虎児を得ずとはそういうことだと自分に言い聞かせる。
町外れの商業施設にバスで向かう。イルカはそこまで足を伸ばしたことがないので、遠足気分に近い。見知らぬ風景を味わうだけで、最近の閉塞感が薄れる。
涼子に連れて行かれたのは、漫画専門店だ。虎の穴というだけあって、ライトなものからコアなものまで取り揃えている。涼子は自分の世界を、イルカに見せたかったのだろう。
「あ、こーたろー!」
イルカは、平積みされていた本に目を留めた。涼子は後ろからのぞき込んで顔をしかめた。意志を持つ人体模型を扱った内容らしいが、多くの人間にとっては理解に苦しむ。
「直腸受けって……、危険な匂いしかしない。意外と攻めるのね」
涼子は畏敬の念を抱いた後、先ほどのイルカの言葉を思い返す。情報を精査し、統合するのは得意だ。
「こーたろー……、へえ」
イルカは失言に気づいた。
誰にも知られてはいけない秘密を涼子に悟られてしまった可能性がある。
「えっとですね、こーたろー、というのはリハビリ用の人体模型でして」
「人体模型に友達の名前をつけるの? しかも異性の」
涼子の的外れでもない推量に、イルカは卒倒しそうになる。否定の言葉も忘れ、激しく首を振る。
「成る程。だから友達をつくりたがらないんだ。特別だから。いいんじゃない。秘めたる思いがあったって」
肯定。イルカがこれまで押し殺していた思いへの肯定。
涼子は、イルカの隣に並んで適当に本を選ぶ振りをする。その手つきは熱のこもらない口調とは反対にいたくやさしい。
「ほっとした。貴女が運命に塗りつぶされたんじゃないかってずっと怖かった」
「涼子殿……」
イルカが暴漢に襲われた時も、涼子は心配してくれた。本音を表すのが苦手な癖に、噴き出す時は鮮烈なマグマのように溢れてくる。
イルカは店内にいることも忘れて涼子に抱きつき、滂沱と泣いた。
「これでおあいこ。互いの秘密を知ったのだから」
ミカの言った通りになった。信頼とタイミング、それが成功の鍵だ。
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