∠43 ミカ
イルカは、貴教と約束したその週のうちから働き始めた。翁は不思議と反対しなかった。貴教はどんな説得をしたのか気になったが、翁は貴教の店の常連だし、自分には預かり知らぬ信頼関係があるのだと考える他ない。
五時になると店の前に提灯を灯し、暖簾をかける。イルカが初めて従事した労働だった。
「常連がぼちぼち来るくらいでそんなに混まないから。その辺で座ってていいよ」
商売っ気のない貴教の言葉とは裏腹に、その日は戦場のように忙しくなった。別の店への道を聞きに来た外国人の応対をしているうちに、彼らはイルカを気に入り、店の客となった。さらに遅れて仲間が五人合流し、酒盛りを始める。貴教だけでは料理の手が足りず、イルカも媼仕込みの腕を振る舞った。徳利の縁、ビールジョッキ、イルカを害する円の刺客は至る所にあったが、笑顔で耐えた。
イルカは午後九時までの約束だったが、お客様達はまだ酒宴を続けていた。遅くなるといけないからと貴教は、イルカを半ば強引に外に出した。
かつて花街のあった路地は薄暗く、人気が途絶えると何かが潜んでいそうな湿った空気が漂っている。
ツクヨミが迎えに来るはずだが姿が見えない。一人で帰るのは心細い。店の電話を借りて翁に迎えに来てもらおう。そう思った矢先、背後から足音が聞こえた。ヒールのような甲高い音に、ひとまず安堵する。しかし、振り返った時に早合点だと悟る。
「はあい、こんばんは」
ヘソ出し黒のボンテージに、目元だけを覆った赤いマスクの女が、イルカの前に立ちはだかった。
「ど、ドロ○ジョ様……」
往年のアニメキャラに酷似した相手を、イルカそう呼称した。
「あら、若いのに懐かしいの知ってるのね」
赤いヒールが一歩近づいてくるたびイルカは戦慄し、後退するが、すぐ後ろは板塀だ。
不審な女はルージュ色の唇を舐める。イルカは目を瞑って恐怖に耐えるが、女が取った行動は意外だった。その場でひざまずき、イルカの手の甲に口づけたのだ。
「我が名は三日月。私は、陛下の剣にして盾。陛下の后は私の主君も同じ。忠誠を誓わせて頂きます」
彼女は胡散臭い姿に違わず、ツクヨミの手足のような存在だった。ツクヨミの光子から作られた月の船団という高度情報生命体だという。イルカは彼女と初対面だと思ったが、以前学校の保健室で会っている。その時イルカは眠っており、光太郎は事情を知らずに三日月を撃退した。
「今は肉の器にお世話になってますけどね」
三日月は、意味ありげに豊かな胸元を撫でる。ツクヨミに代わりイルカの送り迎えをしてくれるそうだ。
「ツクヨミ殿は何処に」
「陛下は滝に打たれております」
滝業で、力を蓄えているらしい。真偽は定かではないが、ツクヨミの力を目の当たりにした今となっては否定の余地もない。
「そういえば、月影という方をご存じですか? 以前、定規を拾って頂いたのです」
三日月は、異質の空気を纏ったあの黒装束の男と近い存在に感じたが、当ては外れた。
「……、いいえ、知らないわね。お役に立てなくて申し訳ないけど」
三日月の先導で、路地を進む。護衛としてだけでなく、灯明のような安心感がある。
「こちらこそ余計な手間をかけさせてしまって」
「それこそ余計な気遣いよ。そんなことより人がよすぎるんじゃなくて? 人さらいにあったばかりというのに、アルバイトするなんて。男は狼って忠告したのに」
イルカは三日月の口調に違和感を持った。どこかで似た話をした覚えがあったが、その場で思い出すことができなかった。
「貴殿と以前どこかでお会いしましたか?」
「他人の空似よぉ! ジロジロ見ない!」
イルカは目を眇めてみたが、暗夜で三日月の正体は判然としなかった。
「それよりどうしてアルバイトしようと思ったの。お金に不自由してないでしょうに」
「携帯電話を買いたいんです。変でしょうか」
今の翁に頼めば即決だろうが、自分の時間を使って、自分で稼いだお金で携帯を買いたい。護身のためもあったが、記録媒体が欲しかった。自分が生きてきた証が残らないとまだ決まったわけではない。万が一の希望にかけたいのだった。
「口が過ぎたわ。年寄りの戯れ言だと思って忘れて頂戴」
「ミカ殿は、その、ツクヨミ殿のように長生きなのですか」
砕けた呼び方になったのは、ミカに信頼を寄せ始めたからだ。ミカもその想いに応えようと踏み込んだ発言をする。
「私も陛下も、時間の概念はないわ。時の牢獄に捕らわれるのはそう」
イルカは軽率な質問を後悔することになる。
「人間くらいのものね」
押し殺していた恐怖が、手の震えになって現れる。ミカは、それを見て腕を組む。
「私にはその気持ち理解できないわ。陛下も多分同じだと思う。でも貴女にもいつか……、おっと、この話はまだ早いわね」
三日月はウインクをして場を和ませる。腰回りの体型から若くないと察せられたが、チャーミングな女性だ。イルカは好感を持った。
「相手の懐に入り込むには信頼関係が重要よ。あとはタイミング」
悩みを言い当てられた気がして、冷や汗が出る。
「できるでしょうか。私に」
「この世に貴女の思い通りにならないものはないのよ。輝夜様。自信を持って」
新しい家来に背中を押され、イルカは涼子との関係修復に乗り出す。
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