∠ 42 偽物


「真正面から向き合う勇気のない臆病者だとでも言いたいんでしょう」


イルカは女子トイレの扉越しに、涼子の恨み言を聞く。宇美には廊下で待って貰っていた。


涼子は、イルカ経由で宇美に情報が漏れたと疑っている。イルカはツクヨミから涼子の趣味を伝え聞いているが、誰にも話していない。それどころではなかったし、本人を無視して軽軽にできる話題ではないと知っていた。


「私は貴女が嫌い」


涼子の嗚咽混じりの声がイルカの胸に突き刺さる。


「自分が正統だと疑わないその姿勢が、周りを傷つけているのに気づいてない? 家来家来ってまがい物認定してんじゃねえよ」


どこかで涼子と真剣な対話をしなければならないという予感があった。いざそうなってみると肩の荷が下りるのを感じる。


「涼子殿の言うとおりです。私の家来は私の寂しさが生んだまがい物かもしれません」


今の家来制度はあくまで便宜的なものに過ぎない。

家来を自称する宇美も知らないことだが、運命を共にする本物の家来は膝の光を当てる必要がある。


もし、家来にしてしまえば、光太郎のように危険な目に合わせてしまうかもしれない。大切な人に、そんな重荷を背負わせたいと誰が思うだろう。


物問いたげな涼子の沈黙を受け、イルカは続ける。


「私と貴女たちの絆は一時の幻かもしれない。でも涼子殿も、宇美殿も偽物などでは断じてない。私はあなた達を忘れません」


涼子が静かに扉を開いた。


「もしかして……、輝夜姫の運命を受け入れたというの? ツクヨミ君の妻になるって?」


イルカは、驚愕に見開かれた涼子の目を見つめたまま頷く。


「それってつまり、おとぎ話みたいになるってこと? わからない。説明して」


「私にもよくわからないんです。ごめんなさい」


自分の存在が消えること、誰の記憶からも忘れ去られることなどは言い出せなかった。それでも涼子は不吉な展開を予期したに違いない。イルカにつかみかかる手の力はますばかりだ。


「貴女はそれでいいの?」


イルカは困ったように笑うしかない。決意を改めて確認されても足が震えなかったのが救いだった。


「らしくない。私が知ってる綾瀬イルカはもういないのね」


涼子はイルカを押し退けるようにして、トイレから出ていってしまった。宇美と言い争う声がしたが、イルカは壁にもたれて動けなかった。


「とはいえ今は私のことはどうでもいいんです」


世界史の授業の後、イルカはお調子者の菱川諸矢に相談していた。


花見で打ち解けて以来、頻繁に会話をするようになった。といっても、主に諸矢の方から近づいてくるのだが。


輝夜の件と同人誌は伏せて、涼子と喧嘩したことを話した。選択授業では諸矢と教室が重なることが多い。教室には二人以外の生徒はいなかった。


「どうでもよくないで。俺が気にする」


臆面のない好意を受ける機会が少なかったイルカはどぎまぎした。諸矢も貴教と同じく軽薄な部類に属するが、出会って間もないこともあって緊張を強いられた。


「もうっ! 話をややこしくしないでください。菱川殿」


「イルカちゃんこそ複雑やで。ごめん仲直りしよで済むと思うけど」


普通の友達間ならそうなるだろう。普通なら。


「うぐうう!?」


イルカは突然机に伏せた。諸矢に赤面した顔を見られたくなかったのだ。冷静に考えれば、家来(仮)など必要ない。初めから皆友達にすれば良かったはずだ。八角光太郎を特別なものとしたくて友達枠を作ったが、その理由は誰にも打ち明けたくなかった。


諸矢はイルカの細い肩に手を触れようか悩んだ。女慣れしている彼ですら、彼女は高嶺の花に該当するのだ。


顔を上げたイルカは、ひとまず礼を述べる。


「とはいえ参考になりました。菱川殿もたまには役立ちますね」


「その言い方地味に傷つくなあ。こう見えて俺すごいんだけど。スポーツ推薦で入った未来のサッカー部エースやで。将来プロになるかも。サインもろとく?」


イルカはきょとんとした顔で、プリントの切れ端にサインをねだった。イルカなりに気を遣ったつもりだが、諸矢は手を叩いて笑い転げる。


「あはは、ほんとイルカちゃんとおると退屈せえへんわ」


「なんだか誉められてる気がしません」


「なんか俺信用ない? なんで」


諸矢の周りには常に女子の姿が絶えない。イルカはそれほど自惚れておらず、自分もそのうちの一人だと受け取っている。


「菱川殿はなんだか嘘つきの臭いがします」


「ははっ、そうか」


思ったまま口にすると、諸矢は寂しげに眉根を寄せる。


「一つ良いこと教えたる。本当の嘘つきは嘘つきに見えないもんや。一見善人面してやる奴が一番ヤバい」


暗に自分は人畜無害だと言いたいのだろうか。イルカは疑わしい目で諸矢を見つめる。


「あちゃー、だめか。どないしよ」


「それなら普段の行動をですね……、あっ」


気づけば諸矢の真剣な顔がイルカのすぐ近くにあった。鼻と鼻がぶつかりそうな距離だ。


「どうないしたら信じてもらえる? 教えて。何でもするから」


鼻の頭に息がぼそぼそとかかってこそばゆい、イルカはたまらず目を閉じた。昨夜の光景がフラッシュバックし、息苦しい。


ツクヨミは学校にいないし、光太郎の居所も知らない。自分で振り払うしかない。


「ちょっ……、いい加減にしてください!」


渾身の力を込め、諸矢を払いのけた。諸矢はイルカに指一本触れていない。過剰な反応だったかもしれない。諸矢を伺うと、茶化すような瞳とぶつかった。


「ごめん。俺、イルカちゃん困らせたくなる病気になったみたいや」


「変な病気作らないでください。何でもというなら不用意な接触は禁止ですから」


怒り心頭のイルカのお触れに、諸矢は渋々従うと約束した。嫌と言えばきちんと引き下がるし、話を聞いてもらっている立場上、強くは出られない。それにイルカは諸矢をどうしても憎めないのだ。目を見て話せるからだろうか。他の人間ではこうはいかない。


諸矢と路面電車に揺られる。送ってくれるという言葉に甘えたのだ。


「そういや、俺は下の名前で呼んでもらえんのやろか」


心配そうに何を言い出すかと思えば、子供じみたことにこだわる。自分も同じ悩みを抱えていたと突きつけられ、イルカは気恥ずかしくなった。


「呼んで欲しいんですか?」


「ぜひ!」


また近寄られても困るので、イルカは腹を括った。


「諸矢殿、これでよろしいですか」


「やった! これで一歩前進」


身体的な距離だけでなく心理的な距離まで縮まった気がする。してやられた感が否めないが、諸矢の方が一枚上手だったのだ。

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