∠ 41 クラウザー涼子


宝蔵院高校部室棟にあるサッカー部部室は茜色に染まっている。中からはロッカーが開閉する音がひっそりと聞こえた。後ろめたさなのか低い男女の声が合間に挟まる。


菱川諸矢は、運動着の上部を脱ごうとした。鍛えられた背筋が露わになる。首と腕は日に焼けているが、背中はやけに生白い。


「俺、苦手。体育会系とか。もう古いやろ」


走り込みと、用具の手入れだけで五月が終わろうとしていた。自分は何しにこの学校に来たのか惑う時間が増えた。


「仕方ないんだよ」


影が、肯定するように諸矢を背後から抱きしめる。


「義務だから法だから。でもそれを守れば何をしても許されるの」


声の主の手をさらうように取り、諸矢は体を反転させる。


「せやな。ルールを守ってほどほどに学校生活を楽しむ。そんくらいが俺にはお似合いや」


「本当はそうは思ってない癖に」


自分の中にある未来という不確実性を信じろと、この学校の教師は臆面なく口にする。諸矢は自分の器がたかがしれていると思っている。過去にプロチームにスカウトされた経験があっても、その考えは変わらない。


「信用ないなあ。どっかの姫さんみたいなこと思ってないから」


意中のイルカに言及すると、手の甲に爪を立てられた。まっさらな肌に血がにじむ。


「いってー、何すんねん。ヤキモチこわ」


加害者はぴちゃぴちゃと、猫のように傷口をなめてくる。諸矢は辟易して顔を背ける。それでもかしずかれるのは悪い気分ではない。諸矢は不遜に口の端を曲げた。



宇美は疑問が解消に至らず、悶々としている。練習を邪魔した宗教団体もそうだったが、もっと身近な存在が気になる。国木田涼子のことだ。


「クラウザー涼子って何だろうね」


昼食時に宇美にそう言われたイルカは飲んでいたお茶でむせた。午前の間、宇美が精彩を欠いていたのは、涼子のことが気になっていたからだ。


「ツクヨミ殿がつけたあだ名か何かではないでしょうか」


イルカもツクヨミが公園で涼子をそう呼んだのを聞いている。深く考えなかったが、由来が気にならないこともない。肝心の涼子は学食にまだ現れていなかった。授業の後に教師に質問をして遅れていると宇美のスマホにメッセージが届いた。


「調べてみたんだけど」


宇美は前置きをして、イルカにスマホを画面を見せる。アニメ調の雑誌のようなものの表紙が現れた。著者名にクラウザー涼子とある。国木田涼子のペンネームだとイルカは直感した。


「何ですか、これ」


「同人誌よ」


宇美は人目をはばかるように声を落として、スマホをホーム画面に戻した。


イルカは同人誌の知識に疎い。千葉の幕張メッセで売っているのだけは知っていたが、アングラな世界に足を踏み入れる勇気がなかったし、翁に情報を制限されていたせいでもある。


「平たく言えば、エロ本よ!」


宇美の声はイルカの心臓を激しく揺さぶった。毛細血管を激しく血が流れ、首から上を紅潮させる。それでも口調だけは凛々しく体裁を保とうとしていた。


「宇美殿お静かに。この話題は我々の手に余ります」


「そうはいっても、うちらも良い年なんだし徐々になれていかないと」


二人は運動の後のように激しい息づかいになった。イルカは涼子の趣味思考を既にかいま見ている。どこまで情報を開示していいのか迷う所だ。まして本人がいないとなれば慎重にならざるを得ない。


「何に慣れるの?」


噂をすれば影、涼子が軽い足取りでテーブルにやってきた。宇美はスマホを落としそうになってあわてふためいた。イルカは誤魔化すようにお茶を口に含む。内心では鋭い涼子に悟られはしないか気が気ではない。


「マラソンの話? 今日も走るの?」


涼子は、話題に追いつこうとイルカと宇美の顔を交互にのぞき込む。その屈託ない様子に、宇美は胸をなで下ろす。


「あんたも何だかんだ染まってきたね」


「それは聞き捨てならない。私はお前と同格のつもりはないのだけれど。二階堂」


いつもの喧嘩モードに突入した。イルカは静観しつつ、魚介定食をつまんでいる。その傍らで家来たちの舌戦は加熱した。


「それな。お前さ、人のこと見下してっけどさ、壁作って自分を守りたいだけなんじゃないの?」


「雑魚に臆する私じゃない。訂正してよ」


いがみ合う二人だが、確実に距離は縮まっている。公園で涼子が絡まれた時、真っ先に助けに行ったのは宇美だったのだ。


「じゃあさ、名字じゃなくて名前で呼び会おう」


宇美の提案に、イルカは心打たれる。涼子だけはイルカたちを下の名前で呼んだことがこれまでなかった。


「いやよ。友達みたいだし」


涼子は案の定、手で顔を隠してバカバカしいというポーズを取るが、まんざらではないのが二人にはわかっている。


「涼子」


「……、やめてよ。なれなれしい」


「涼子殿」


イルカも便乗すると、涼子は進退窮まった様子で縮こまる。眼鏡がくもっていた。


涼子を困らせるつもりはない。相手のことを知りたいと欲すれば踏み込まざるを得ないのだ。イルカと宇美は熱心に涼子を囲い込み、同化を計る。あわよくば消化してしまいたいという集団の暴力性が芽生えつつあるのを彼女たちは自覚していない。


「やっぱり無理。悪いけど」


開きかけたドアがさっと閉じられると、宇美は無理にこじ開けようと躍起になる。


「水くさいじゃん。あたしたちあんたの秘密知ってるんだからね」


したり顔で語りかける宇美に、涼子の顔が凍り付いたように固まる。イルカは止めようとしたが勢いづいた宇美は止まらない。


「マンガ描いてるんでしょ? 絵が上手いの納得だわ。今度描いたの見せ……」


食器を床にたたき落とし、涼子は食堂を走り去った。イルカには呼び止める勇気が出なかった。


去り際のまなざしに裏切り者と名指さしされ、とっさに動けなかったのだ。

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