∠40 富嶽統一会

宇美がまず異変に気づいて大声を上げた。イルカと光太郎も合流する。


銀色の全身タイツを着た男が話しかけてきた。見知らぬ男だ。汗ばんだ顔だけがぬらぬらと光っている。


「私たちと一緒にヨガしませんか」


イルカには覚えがある。こういう手合いは変態と見て相違ない。


イルカが公園に到着する前から、離れた所でヨガをしている集団がいた。彼らは一様に銀色のタイツに身を包んでいた。思想信条に踏み込まないように見て見ぬ振りをしていたが、向こうから接触してきた以上、無視するわけにはいかなくなった。


「せっかくお誘い頂いたのにすみません。我々はマラソンの練習に来たので」


イルカは多少変態に免疫がある。一同の中では比較的冷静に対応できた。


「それは失礼しました。お騒がせするつもりはなかったのですが、ではまたの機会に」


男は紳士的に引き下がり、仲間の所に戻っていった。背中に大きな富士山が描かれているのが印象に残った。


「ねえ何あれ何あれ、ヤバくない?」


涼子が一人でいる所に声をかけてきたらしい。宇美は助けに入ったのに涙目になっている。


「新興宗教みたいね」


涼子がスマホ画面をイルカに見せる。富嶽統一会という団体らしい。日本各地に支部を持ち、富士山を信仰してそのエネルギーを社会に還元するのを目的としている。サイトには富士山の清掃をする写真がアップされていた。一見まともな団体に見えるが、富士山の聖なる水と称して高い値段でペットボトルの水を売っていたりする。


「触らぬ神に祟りなしだって。もう行こうよ」


宇美が催促しても、イルカは涼子のスマホをにらんだまま動けなくなっていた。昨夜、車に連れ込まれた時に男たちが、教祖がどうとか言っていたのを覚えている。繋げて考えるのは早計かもしれないが、警戒するに値する情報だ。


「……、すぐにこの場を離れましょう」


イルカたちは香具山城を離れた。

目的を達せられなかった後悔と、本丸を奪われたような敗北感を抱えて。


マラソンの後は、カフェに行く予定だったが、誰もそんな気分にならず解散となった。


一人になりたかったイルカは、ツクヨミを先に家に帰した。危険にあったばかりだが、一息入れないとどうしようもない。行き先は、旧知の貴教の店だ。


「うちはいつから姫の隠れ家になったんだか」


店の準備中だったにもかかわらず、貴教は嫌な顔一つせず相手をしてくれた。


「ごめんなさい。行くところがなくて」


「好きなだけいていいぞ。なんならうちに嫁に来るか」


貴教の冗談に笑いながら、イルカは座敷に横になった。昨夜のことを打ち明けるべきか迷ったが、話して楽になりたい気持ちが勝った。


「はー、物騒だな。イルカは可愛いから気をつけないとダメだぞ」


事情を聞いても、貴教は翁のように根ほり葉ほり聞いてこないので一緒にいて楽だ。イルカは話を聞いて欲しいだけであって、あれこれ詮索されたくないのだ。


「かといって萎縮していたら何にもできないですし。私にはもう時間が……」


最後の独白を聞かれたかと、イルカは焦るが貴教は静かにテーブルを拭いていた。


時間がないのは事実だが、周りに余計な心配をかけたくない。どうせ全て終われば皆忘れてしまうというし、幸せな記憶だけを抱いて消えたい。


話を聞いてもらって気が楽になった。これ以上、長居しても貴教に悪いので帰ることにした。


「お、帰るのか。車で送ってやるからちょっと待ってな」


貴教は車の鍵を取りに二階に上がった。イルカは体を起こし、伸びをする。その際、カウンター席に茶封筒があるのを見つけた。見てはいけないという道徳心と、好奇心がせめぎあったが、結局イルカは封筒を手に取っていた。


封筒はA4サイズで、厚みはほとんどない。中を改めた途端、体が硬直した。


「あー、それな」


いつの間にか貴教がイルカの背後にいた。つむじになま暖かい息がかかる。イルカは封筒の中身を床に落としてしまった。封筒の中身は富嶽三十六景の浮世絵のレプリカだった。


「客が置いていったんだよ。よかったらあげるけど」


イルカは浮世絵に見向きもせず、貴教に抱きついた。偶然が重なり過ぎて、恐ろしくなったのだ。


「どうした? イルカはいつまでたっても子供だなあ」


貴教はイルカの髪を執拗に撫でる。慰めるような仕草は昔と変わらなかったかどうか、イルカに判別する余裕はなかった。しがみつけるものなら何でも良いというほど追いつめられていたのである。


気づけば貴教の車の助手席に乗っていた。


「こんな時言うのもあれなんだけど」


信号待ちで車が止まると、貴教が言いにくそうに口を開いた。


「店の従業員が足りなくてさ。求人情報出しても全然集まらないんだ」


飲食店だけでなく、人手不足の企業は多いと聞く。イルカに助けを求めているのが理解できた。


「私に手伝って欲しいと?」


「うん、人が集まるまで。土日だけでも頼めないかな」


縋るような目で見つめられると、断り辛い。中学時代にも手伝ったことがあるので心理的障害も少なかった。


「いいですよ。バイト代が出るなら。欲しいものもありますし」


「やったー! ありがとう」


翁には、貴教の方から説得してくれるという。そちらの方が高い壁のように思えるが、貴教は同意が得られると確信しているようだった。


綾瀬家に近づいた所でイルカは車を降りる。


「なあ、欲しいものってなんなの」


「秘密です」


「ケチ。教えてくれたら買ってやったのに」


残された時間、与えられるより与える側になりたい。イルカは自分の手で欲しいものを手に入れたかった。 


「いつまでも子供扱いしないでください。私だって」


「そだな。綺麗になったよ、お前」


イルカは頬を紅潮させ、車のドアを乱暴に閉めた。貴教は時々デリカシーに欠ける。光太郎とは違う意味で感情のやり場に困る。


貴教は兄のような存在だ。これからもずっと。

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