∠39 未練
イルカは、未練を断ち切るように山の階段を勢いよくかけ下りる。振り返ると、ツクヨミが手すりに掴まりながら下りているのがうっすら見えた。まるで病人のような弱々しい足取りだ。
いつもなら急かすところだが、昨夜のツクヨミの功労に鑑みると、強い口調は避けるべきである。
「無理はしなくていいですからねー!」
「バカにするな! 予がいなければ誰が貴様を守るのだ」
無理をするなと言えば男は意地になる。イルカはその気持ちを利用しようとしている。どのくらいのワガママなら許されるのか計っている所だ。
香具山城まで路面電車を利用したが、約束の時間には大幅に遅れてしまった。昨日のこともあったし、携帯がないと連絡できず不便だ。
(不思議。ツクヨミ殿が現れてから輝夜の自覚をより強く感じたのに、私は普通の女の子になっていくみたい)
宇美や涼子と同じ普通の女子高生として生きる人生もあったのだと思うと、今を大切にしたいという気持ちも強くなるのだった。
光太郎、宇美、涼子は既に香具山城公園で練習を始めていた。公園はクラスで花見をした場所だが、花は散り葉桜になっている。新緑の気配に、深く息を吸い込みながら歩く。
「お待たせしましたー」
三人はイルカの顔を見るなり、目を見張った。大方ツクヨミに驚いていると思ってイルカは悠然と構えていたが、宇美は血相を変えて肩を掴んできた。
「ちょっと姫、誘拐されそうになったんだって!?」
イルカはツクヨミを横目で確認したが、情報漏洩の主は彼ではなかった。とりあえず皆に心配をかけまいと笑顔を作る。
「大丈夫ですから。怪我はないですし」
「体はともかく心に傷を負っているのではないの」
涼子に鋭く心中を言い当てられ、イルカは俯く。
「ちょっとあんた、今そういうこと言わなくてもいいでしょうよ」
宇美が涼子の肩を咎めるように強く押す。剣呑な空気が流れるが涼子はいなすように息を吐いた。
「ごめん、訊かないとわからなくて。経験のないシチュエーションは苦手なの」
涼子なりに不器用な方法で、イルカをおんばかってくれたと思うと笑いがこみ上げてくる。自分は大切な人たちに囲まれている。失うのが惜しくなる。涼子と宇美を抱き寄せしばらくじっとしていた。
光太郎は少し離れた場所にいて、あさっての方向を向いている。走り込みをしたばかりなのか汗を拭っていた。
「あ、八角殿、いたのですか」
イルカはわざと冷たく光太郎に当たる。約束したのだからこの場にいたのは当前なのだが、無関心に見えたのが気に障ったのだ。
「お前ら、そんなにくっついて暑くないのか」
加えて頓珍漢なことを言うものだから、三人は笑いが止まらなくなる。めったに笑わない涼子ですら歯を見せて笑っていた。
「およ?」
笑いがひと段落すると、宇美がツクヨミに気づいた。
「さっきから気になってたんだけど、その子、姫の知り合い?」
ツクヨミはイルカの服の裾を握って静観していたが、頃合いと見るや前に進み出た。
「予は……」
堂々と名乗ろうとした矢先、涼子がツクヨミの手を握り、言葉を遮った。
「ツクヨミ君、久しぶり」
熱を込めた涼子の様子に、ツクヨミはたじたじとなりイルカに助けを求めるが、見て見ぬ振りをされる。
「お、おう……、久しいなクラウザー涼子」
「うん。目玉は見つかった?」
二人にしかわからない会話に置いてきぼりを食った宇美は、早口でまくし立てる。
「何? オレオとも知り合いなの。紹介してよ」
ツクヨミは数歩下がって宇美の全身をくまなく視野に収めた。それから何を思ったか、宇美の胸に飛び込んだ。
「ファッ! アメリカンスタイル!」
宇美の体に直接触れることでツクヨミは確信を得た。
(こやつ女だ)
視覚だけでは自信がなかったので触ってみたまでのこと。宇美を傷つけないために口には出さなかった。
「すごーい大胆。お姉さんがきれいだからってエッチなこと考えたらダメだぞ」
何も知らない宇美は顔を上気させて、ツクヨミの頭を撫でてている。知らぬが仏だ。
「この子はツクヨミ殿。私の親戚なんですよ」
イルカが無難な説明をすると、宇美は自然と受け入れた。他の二人は事実と異なると知っていたが、ポーカーフェイスなので素知らぬ振りを通した。
だが、ツクヨミは納得がいかず合意形成を崩しにかかる。
「予は輝夜の許嫁である!」
ツクヨミを連れてきた以上、秘密の暴露は避けられない。イルカは冷静だった。ツクヨミを石垣の裏に連れていく。
「許嫁殿、一つ約束しましょう」
イルカはツクヨミに顔を近づける。
「来るべき日が来るまで、我々のことは皆に内密に」
「何故だ! 願掛けも表明せねば意味がない」
「みんなを驚かせるんです。それに二人だけの秘密ってドキドキしませんか」
ツクヨミを言いくるめてしまった。操縦方法がわかってきた所でみんなの所に戻る。
いつもより血色の良い涼子が、ツクヨミに走ろうと誘う。宇美がイルカに近寄ってきた。
「ねえ、さっきの許嫁ってマジ?」
「ふふ、どうでしょうね」
宇美はイルカの余裕のある言葉に違和感を持った。イルカの内なる覚悟は、彼女を一段大人に引き上げていたのだ。輝夜姫は日夜進化している。宇美の中でまた少し劣等感がうずいた。
「ま、あたしは姫がいいならどうでもいいけど。しょせん家来ですからね」
自分だけが取り残されたことに対する軽い嫌みだったが、イルカは素直に受け取る。
「ありがとう。宇美殿に出会えて本当によかった」
宇美はイルカとの距離を感じ、逃げるように公園を走り始めた。奇声を上げるのは青春の苦しみを紛らわすためだ。
木の根本に座っている光太郎の元に、イルカは歩み寄る。
「もう練習はお休みですか? 八角殿」
光太郎は感情の読めない目でイルカを見上げた。
「お前を待っていた」
イルカはドキッとするが、光太郎はついと視線を外した。
「おんぶするのかと思ってな」
「しませんよ、子供じゃあるまいし」
「しないのか」
光太郎は少し寂しそうである。イルカは悪いことをしたと思ったが、みんなの手前恥ずかしいので遠慮したい。
光太郎としてはついこの間までイルカを運んでいたのに、拒否されるとは思わなかった。光太郎の心象では香具山城で一緒に走り回った頃のイルカのままで止まっている。
「昔この辺で遊んだよな、覚えてるか」
「覚えてません。昔のことなんか」
イルカは今の自分を見て欲しかった。だが光太郎はそう受け取らない。ツクヨミの妻になることを選んだイルカを応援しようと密かに決めた。
「悪かったな、昨日は助けられなくて。どこにいても駆けつけるって言ったのに……、それも覚えてないか」
「それは覚えてないというか……、八角殿はそんなの言ってないじゃないですか」
そうだったかと、光太郎は首を傾げる。イルカは自分を置いてどんどん先に行ってしまう。女はよくわからないという方便は、役に立たなくなりつつある。
内心、イルカはこの場に留まっていたかった。光太郎と寄り添って永遠を生きられたらと考え、それが無理だと思い知らされるのだった。
二人は木の根本でしんみりしていたが、離れた所にいた涼子たちの間ではある騒動が持ち上がっていた。
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