∠35 誘拐(前編)
二人は家から最寄りのコンビニに足を運んだ。徒歩で五分程度の距離にあり、利便性は抜群だ。今日に限っては、ツクヨミの歩幅に合わせていたため、移動に長い時間を要した。
白を基調とした清潔な店内に入った途端、ツクヨミはイルカの手を離れ、お菓子の棚に直行した。
「みりん以外は買いませんからねー」
イルカが通告したにもかかわらず、ツクヨミがスナック菓子を運んでくる。哀願するような目をされ、仕方なく一つだけ会計に含めた。
「帰りはダッシュです。もたもたしていたら置いてきますから」
「望む所だ。子作りには適度な運動が欠かせぬ」
会計の最中にツクヨミから不適切な発言が飛び出し、イルカは蒼白。店員の顔が見られなくなった。
「しっ! 声が大きい。何てこと言うんですか。やっぱり一緒に来るんじゃなかった」
落胆の色を隠せないイルカはとぼとぼと店を出た。
「子作りせんのか。せんのか! 予と」
「しません。もう話しかけないでください、色情狂」
やはりツクヨミと愛を育むのは不可能に近いと悟る。下心を隠そうとすらしないし、人間の体裁に配慮もない。
これが自分に課せられた運命だというのが悲しくてならない。
イルカを感傷から立ち返らせたのは、不測の事態だった。
二人が現れる以前から、コンビニの駐車場に黒のワンボックスカーが止まっていた。エンジンはかけっぱなし、窓にはスモークがかけられている。
イルカが車の脇を通り過ぎようとした際、ゆっくりと後部座席のドアが開いた。
素早く車内から出てきた二人組にイルカは口と手足を掴まれ、車中に引きずり込まれた。
「んんんっ!?」
男たちは目鼻以外を覆った黒いマスクをしており、人相はわからない。二人の他にも運転席にもう一人マスク姿の男がいた。後部座席にはロープが置いてあり、イルカの腕を押さえている片割れの怒号が響きわたる。
「おい、早く縛れ」
「もう一人はどうする。見られたぞ」
「そんなのどうでもいい。早く車を出せよ」
「おい……、本当に連れていくのか?」
それまで黙っていた運転席の男が重たげに口を開いた。
「決まってるだろ、教祖がお待ちだ。やっと見つけた本物の輝夜姫。喜ばれるだろう」
イルカは煙草の臭いと、男たちの体臭の混ざった狭い空間に息がつまりそうだった。しかも男の汗ばんだ手が口を覆っており、不快この上ない。車内では洋楽のデスメタルが大音量でかけられ、彼らは怒鳴り返すように会話せざるを得ないのだった。
(この人たちは一体誰? 私が輝夜だと知っている。誘拐? どこに連れて行かれるの)
暴れなかったのは、冷静からではなく無力感からだ。体格差がありすぎる。車の薄い扉を隔ててすぐそこに人がいるのに、助けを呼ぼうにも声も出せないほどおびえていた。味わったことのない理不尽な境遇はあらがう術をやすやすと奪っていた。恐らく手足を押さえられずとも逃げ出せなかったに違いない。
(……、助けて、誰か)
運命に見放され固く目を閉じるイルカ。絶体絶命か。
その時、目を覆うようなすさまじい光が車内を貫いた。
「うわっ、まぶし」
真昼のような明るさだった光が減じると、男等は揃って信じられないものを目撃した。
車の正面に男が立っていた。それだけならともかく不思議ではない。
車外にいる男はとんでもなく長身で、三メートル近くあると思われた。少なくとも車内の男たちからは、それほど巨大に見えた。
肩まで伸びる金髪、盛り上がった胸筋、上腕、割れた腹筋、大腿部、どれもが平均以上に最高の発達をし、雄々しいマスラオの鎧をかたどっていた。
にもかかわらず、男からは威圧するような雰囲気は一切ない。穏やかな目元をし、頬の筋肉は緊張しておらず、今にも親しげに話しかけてきそうなやわらかそうな唇をしている。男が男だと特定できたのは現実離れした筋肉のおかげであり、そうでなかったら女性と見間違えたかもしれない。
それほど男の全容は完成されていた。一つの芸術、一つの神の降臨の瞬間に彼らは立ち会うことになったのである。
「美しい……、だが何故裸なんだ」
運手席の男が疑問を口にするのも無理はない。ここはタカマガハラでもヴァルハラでもない。法治国家日本である。猥褻は厳しく罰せられる。
そも猥褻とは何ぞや?
と、逆に俗人に問いかけるような偉大なる仁王立ち。股間だけには、見れるものなら見てごらんと言わんばかりに強烈な光に覆われ、御仏を守っていた。
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