∠36 誘拐(後編)

「ふざけてる。どかしてくる」


イルカを押さえていた男の一人が車外に飛び出した。勇をこしてというより、水中で酸欠状態を解消したいというようなせっぱ詰まった動きだった。


全裸の超人をどかそうとした男は、哀れ片手で持ち上げられ、アスファルトに投げ落とされた。


車内にいた男たちは殊更パニックになったり、叫び声を上げたりはしなかった。既に理解していたのだ。あれは自分たちの手に負える存在ではないといことを。


「予の妻がそこにいるだろう」


威厳のある男の声が、車内に行き渡る。スピーカーから流れていた音楽が男の声に取って代わられていたのだ。


「抵抗するならそれもよし。ただし相応の代償を覚悟してもらう」


車内は異様な熱気がこもっていた。エンジンはかからず、安手のホラー映画のような状況に寒い笑いが起きた。


最後通牒から一分も経たずに、イルカは車外に解放された。連れ込まれた時と同様に荒っぽく、まるでゴミを捨てるようにイルカを置いて走り去った。


イルカの体はアスファルトに触れる寸前に、巨人の腕に抱き止められた。


父性の塊のようなその巨人は、イルカの安全を確認し、小さく吐息をついた。



 二


「ん……?」


温もりを奪うような冷たい感触に、イルカは我に返る。


イルカはアスファルトに寝そべったまま重い瞼を上げる。夜天の空が寒々しい色に覆われている。少ない星々を数えている間に意識がはっきりしてきた。


コンビニの駐車場にいることに代わりはなかったが、イルカを連れ去ろうとした車は影も形もなかった。


傍らに全裸のツクヨミが座っており、衝撃を受ける。


「ツクヨミ殿!? 貴殿も被害に」


ツクヨミは体育座りをしたままままぼんやりと中空を見つめ、身動きしない。まばたきすらしておらず、イルカを不安の極地に陥れた。


コンビニガラスを透かして、人の視線を感じる。ツクヨミは服を着ていないし、イルカも衣服が乱れ平常の状態ではないのは明白だ。


痛んだ体を地面からひっぺがすようにして立ち上がる。頭をふらつかせながらツクヨミの手を取り、コンビニの光から遠ざかる。


「みりんを、何に使うのでしょうか」


暗闇に紛れた路地で、イルカがぽつりと言った。媼に頼まれて、外出したことを再確認しているようだった。


「うむ。楽しみだのう」


ツクヨミも何が楽しみかわかっていなかった。ただ、長い階段を上りきり、家の灯りが見えた時はどちらも倒れ込みそうなほど疲弊していた。


「ただいま……」


広間で新聞を読んでいた翁は目を上げ、イルカの異変にすぐに気づく。安心できるはずの我が家にいてもなお、居心地が悪そうに柱の陰にいるイルカは、一際か弱い存在に見えた。


翁は可愛い娘が傷ついた様子でいるのを見て取り、怒りで顔が青黒くなった。反射的に床の間の日本刀に手を伸ばそうとしていた。


「まあ、みりん買ってきてくれたのね。ありがとう」


翁の殺気をいなすように、タイミングよく媼がイルカに近づく。イルカの指先が震えていた。ほぐすように少女の細い指をさする。表情がなかったイルカの顔に少しだけ赤みが差したが、それも一瞬のことで効果はなかった。


ツクヨミは全裸で、イルカの側に寄り添っていた。彼もまた翁と負けず劣らず気むずかしい顔をしている。


「……、しょく、食事はいりません」


あまりに小さい声で誰も聞き取れなかった。イルカは詳しい説明をせずに廊下の奥に音もなく消えた。


「納得のいく説明をして頂きたい!」


翁がいよいよ激高しても、ツクヨミは夢でも見ているような顔つきで、ぼんやりと立っていた。


保護者二人はツクヨミが、イルカに狼藉を働いたと決めつけていたが、その認識を改める必要があると気づいた。


ツクヨミ自身、柱に体を寄せ、今にも倒れそうだ。そもそも二人の関係に決定的な亀裂が入ったなら、連れだって現れるわけがない。最初からツクヨミはイルカを支えている様子すらあった。


「貴様等の動揺、もっともである。輝夜に大事はないから安心せよ。ひとまず輝夜を慰めたい。よいか?」


要領を得たとは言いがたい説明だったにもかかわらず、翁は力を込めて顎を引いた。イルカに何もしてやれないことを悔やんでいる。


やがてツクヨミは、暗い廊下でうずくまるイルカを発見した。触れようか迷ったが、背後から手を回す。


イルカは恐慌に駆られ、その手を強くはねのけた。ツクヨミはたやすく後ろに転がった。思いの外、大きな音が床を鳴らした。


その激しい音に、イルカは動揺する。ツクヨミの手を握る。


「部屋まで歩けるか?」


「はい……」


お互いを支えながら、時間をかけて廊下を歩んだ。部屋の襖を開けた時、イルカは電気をつけるのを忘れ、濃い闇の中で息を吸い込んだ。普段使っている部屋ながら、何も匂いがしてこなかった。


「さ、休むか。予が自ら布団をひいてやるぞ」


ツクヨミは夜目がきくので、まっすぐ押入に迎い、寝支度を整えた。


イルカを寝かせ、ツクヨミも拳一つ分離れて寝そべった。


「私、何か悪いことしたんでしょうか」


「貴様に悪い所などない」


ツクヨミはイルカを肯定する。いつも通り率直に。


「では、どうして、彼らは、私を……」


涙の匂いが、ツクヨミの鼻に届く。イルカが声を詰まらすと、ツクヨミも屈辱にまみれた。


「理不尽は、どこにでもある。納得ゆかずとも、乗り越える他ない。こうなったのは予の責任でもある。同じことを繰り返すつもりはない。絶対に」


イルカの負った傷は、目に見えない分だけ長く尾を引きそうだった。ツクヨミも他人事のつもりで言ったのではなく、怒りを紛らわせるために心ないことを口にした。本音ではイルカを傷つけたものたちを皆殺しにしたいとさえ考えていた。


「ツクヨミ殿が、私を助けてくれたのですね?」


「はて? なんのことかの」


イルカは鼻をすすりながら笑みを浮かべる。


「あの大きな人はツクヨミ殿でしょう。驚きました」


ツクヨミの月の神だ。夜は最大の神性を得られる。反面、昼間の活動は不向きで、涼子の前で倒れたこともある。


「見られたのなら仕方ない。どうだ、予の真の姿は」


「……、カッコいい」


「んんふんっ!?」


イルカに耳元で囁かれ、悶絶する。月まで吹き飛びそうだった。男の本能をこれでもかと刺激するほめ殺しは続く。


 「男らしくて素敵です」


 「あああっん……!!!!!」


ツクヨミは布団内をのたうち回り、白目を剥いて痙攣する。興奮のあまり鼻血を出して気絶していた。


イルカはツクヨミの前髪をきれいにかきわける。それから顎を狭い肩幅に載せた。


「でも今の子供姿の方が私は好きです。安心できます」


イルカはひきがえるのように開いたツクヨミの股のつけねに触れる。当然あるはずの凹凸はそこになかった。


股の間をいくらくぐらせても、滑らかな肌が尻の割れ目にたどり着くだけだ。


「神様にはおしべはないのでしょうか……、不思議です」


ひとしきり、はんぺんのような感触を楽しむと、眠気が襲ってきた。空腹よりも、今は睡眠を優先させる。

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