∠34 禁断の愛

「やあ、困った困った」


イルカが帰ってみると、媼が板敷きの台所で右往左往している。


足下には、調味料の瓶がボーリングのピンのように整然と並べられていた。


「どうかなさいましたか、媼」


イルカが丁寧に問いかけると、媼は待ってましたとばかりに素早く振り返る。


「あ、おかえり。みりんを買うのを忘れてね。うっかり」


「あはは……」


媼の家事は完璧だが、時々穴がある。人間だから仕方ないこととはいえ、夫である翁は烈火の如く怒るから見ていて気の毒になる。先日も、


「砂糖と醤油の区別もつかんのか! お前は」


「昔はうまいうまいって食べてましたよ、おじいさん」


「昔っていつだ?」


「一昨日」


「うーむ、そうか。それはすまんな」


結局うやむやになって落ち着くのが、彼ら夫婦の処世術らしいのだが、はじめのころイルカは面食らうばかりであった。


「私が買ってきますよ、みりん」


「えー、悪いわよ。帰ったばかりでそんな」


イルカとしても、一日歩いた足の疲れは無視できない。ローファーを長時間はくと、靴擦れも気になる。それでも、全く疲れを見せない軽やかな身のこなしで、着替えに向かった。


「何か足りないような気がする」


部屋で制服を脱いでいる最中、イルカは不可思議な知覚に行き当たる。座敷は整頓されており、一見おかしな点は見あたらない。ところが人体模型に目を留めた瞬間、以前失神したことを思い出した。あの日、眼球が片方欠けていた。今日に至っても、その状態は改善していない。


「ツクヨミ殿? 人体模型の眼球を知りませんか」


返事は聞こえない。彼は門前で伸びているから仕様がない。


ウインドブレカーにスパッツ、ランニングシューズに着替えて家を出る。買い物ついでにマラソン特訓も兼ねていた。


「ツクヨミ殿、いつまで寝ているのですか。町に下りますよ」


「はい! すみません。もうぶたないで」


おびえるツクヨミの手を握り、階段に導く。夕暮れ時だ。家々から生活音が活発に聞こえる。


 「そんなに痛かったですか」


 「心が痛い」


ツクヨミのこれみよがしな傷心の申告は、たちまち効き目を及ぼす。イルカは申し訳なさそうに顔を赤くした。ツクヨミは内心で舌を出していることに気づかない。


(気丈に見えても、年相応の小娘よ。愛いのう)


笑いを押し殺していたが、イルカが問いつめるような暗い表情で見下ろしているのに気づいて、まごつく。


「な、何だ? 怖い顔をするでない」


「ツクヨミ殿、人体模型の眼球知りませんか?」


確信を含んだ厳しい声に、ツクヨミは逃れられないことを悟る。ここ数日の逃避行の釈明を始めた。


「あれは……、事故だったのだ」


「怒らないから、話してください」


人体模型をバラしてしまい、そのはずみで眼球のパーツをカラスに持ち去られたこと。その失敗を取り返すために、涼子の元に身を寄せていたことを訥々と語った。


「なるほど。貴殿が国木田殿と一緒にいたのはそのためでしたか。でもどうして国木田殿は眼球を持っていると言ったのでしょう。まさか彼女も私と同じ趣味が?」


「色々思い当たる節はあるが、貴様への嫉妬を強く感じたな」


「嫉妬? 私に? どうして」


イルカは他人の視線に鈍感な所もあり、それが原因でトラブルになっていることに気づかないらしい。輝夜姫は罪を糧に成長するため、因果のなせる業でもある。普通の人間ですら、己が何を食し、何を犠牲にしているか、容易に直視できるものではない。


「貴様が気にすることではない。優れたものが妬まれるのは当然の成り行きよ。そんなことより、クニキダの情報を知りたがっていたな、知りたいか」


「はい!」


イルカはしゃがみこみ、ツクヨミに目線を合わせた。


「あいつは漫画家を目指していてな、予をモデルにしようとしていた。しかも描いてるものがすごいのだ」


ここが話の肝だと言わんばかりに声をひそめる。イルカも無心で聞き入る。


「それでの、その前に訊きたいのだが、輝夜とクニキダは子をなせるのか? 女同士で」


イルカはツクヨミの顔から目をそらす。そのまま教え諭すように丁寧に答える。


「できませんよ。子作りは、雄しべと雌しべがないとできないのです」


「その通りだ。だが、やつの描いた話では男同士がまぐわっておった」


イルカはツクヨミの肩を掴んで、話を遮る。イルカもどう接していいかわからないのだった。


「ツクヨミ殿、その話は私たちの間だけで留めておきましょう」


「なあ! どうして子をなせぬのにまぐわうのだ。予はわからぬ。教えてくれ」


「私にもよくわかりません。一つ言えるのは、相手を愛おしいと思うからではありませんか」


ツクヨミは人間一般が語る愛とは遠い存在なのだろうか。ツクヨミにあるのは義務と責任だけなのだろうか。それを確認するために訊ねた。


「愛など、体を触れ合わずとも語れるではないか」


「どうやって?」


イルカは今や我を忘れて議論に熱中していた。


「今の貴様がまさにそうだ。貴様が腰の悪い媼のために買い物に出たのを知らぬと思うてか。それこそ愛であろう」


落胆と安堵が入り混じった感情に、イルカは翻弄される。愛とはあまりに広範な概念だということを思い知らせれた。


「ツクヨミ殿にもありますか? 私への愛が」


「愚問だ。余には貴様なしの世界が考えられぬ」


イルカはツクヨミを懐に抱え込んで、涙をこらえる。喜びと同時にそれを失う恐怖が迫ってくる。


イルカの想いも遠からず消えるのならば、愛など知らずにいたかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る