∠33 邪魔者
光太郎は店の戸を軋ませ、外に出てきた。
彼と二人きりになったイルカは、頑なに口を閉ざし続ける。光太郎と距離を未だ測っているのだ。
光太郎からしてみれば、イルカの機微に敏感なようで疎い面があるので、何を話していいものかわからない。彼がこういう時に取る行動はシンプルだ。イルカを安全に家まで送り届けることだけに専心すればいい。
「八角殿、傘をこれへ」
イルカの指図はいつも通り玲瓏として曇りがない。
ところが電話を受けてすっとんできたものだから、光太郎は一本の傘しか持っていない。店に戻って借りることもあり得たが、イルカはそうはさせじと提案する。
「二人で入ればよいではないですか」
雨雲を払うような楚楚としたほほえみを、光太郎は真正面から受け止め、傘をまっすぐ突き出す。イルカを持ってしても、彼の苦悶は払えなかったようだった。
イルカ一人で傘を使えという意志表示に、あきれる。
「そうですね、雨もやんでまいりましたし、私一人でも帰れます。さようなら」
路地を早足で進むイルカの後を、光太郎は走って追いかけ、隣に並ぶ。透明なビニール傘を広げイルカの頭上へ掲げた。
「まあ、丸見え」
イルカは自身の境遇を鑑み、おかしそうに口に手をやった。光太郎は顔をしかめた。
「はしたない言い方をするなよ」
「八角殿こそ、翁みたいな言い方やめてください。息が詰まりそう」
イルカの機嫌が悪い時、どう改善するか経験上知らない彼ではない。無理に機嫌を取ろうとしてもかえって怒らせることがあったし、時間をおけば嘘のように態度が軟化することもあった。
女とはそういうものだと、光太郎は決めつけていた。果たしてそれがイルカに対する最善の対応かどうか自信が持てない。
考えながら通りを歩いていたが、傘に雨粒がほとんどついてない。傘を閉じようとしたが、イルカに止められる。
「もう少しこのままで歩きましょう。いいでしょう?」
あれほど離れたがっていたイルカが、望んで光太郎の隣にいたいと迫る。
女というのはつくづくよくわからない。
さぬき家の表札がついた竹製の門に着いた時、光太郎はすっと傘を引いた。
「お茶でも飲んでいきませんか……?」
イルカはやっと聞こえるような声で光太郎を家に招いた。勇気を奮ったのに、光太郎は無表情のまま傘を畳んで水気を払っている。
イルカは彼との分厚い壁を感じ取った。小学校高学年の頃までは光太郎と家で遊んだ記憶がある。どうして最近は遊んでくれないのか疑問でならない。それに髪を金髪にしてみたり、最近の奇行は目に余る。
「もう子供じゃないからな」
光太郎は大人ぶった態度で、イルカを突き放す。たまらず食らいついた。
「大人がお茶をするのがいけないことですか? 子供じゃないなら構わないはずです」
「口が上手くなったな。……、あの男の影響か」
イルカは光太郎が焼きもちをやいていることを見落としている。光太郎が単に機嫌が悪いだけなのだと誤解していた。
「ちょっとぐらいいいじゃないですかー、いいお饅頭があるんですよ。ね?」
イルカは丸い饅頭が食べられない。翁が仕事関係者から贈られたものだが、このままでは腐らせてしまう。せめて光太郎の腹に入れば供養になると思ったのだ。
光太郎は表面上は渋々招きに応じる。一見、不遜に見える彼だが、遠慮の産物であることをイルカは知っている。家に入れば借りてきた猫のように小さくなることも。
「わかったよ。上がらせてもらう」
「はーい、お茶淹れますね。翁はいませんからゆっくりしていってください」
交渉の成果にご満悦なイルカだったが、門の陰に二人を凝視する紅玉の目を発見する。血の気が引いた。
「おーっと! お月様が開眼! 八角殿、目の毒です」
イルカはとっさに光太郎の目を塞いで回れ右させた。機転をきかせたつもりだったが、若干不自然に見えなくもない。
「何も見えない……、それに俺は月が嫌いじゃないぞ」
イルカは片手でしっしっと、門から体を出すツクヨミを追い払おうとするが、邪魔者は石像のようにどっしりと動かない。
「俺も影みたいなものだから。共感を覚えることがある」
イルカは光太郎の話に耳を傾ける余裕はなかった。ツクヨミが家にいることを忘れていた。事情を説明するには込み入っているし、ツクヨミも黙っていないだろう。イルカは落胆し、光太郎の背中を家の反対方向に押した。
「……、やっぱり散らかってるから帰ってください」
勝手な翻意にも、光太郎は冷静だ。むしろイルカの稚気を好ましく思っている節さえある。
「わかった。また明日」
「はい、すみません」
全く未練なく帰っていく光太郎の背中を恨めしく見送った後、ツクヨミに向き直る。おどしつけるように言う。
「ツクヨミ殿、そこで何をしているのです」
ツクヨミは黒のTシャツハーフパンツとサンダル姿で、門の外に現れると、イルカに突進してきた。
「どこの誰だ、今の奴は。予の輝夜になれなれしい」
嫉妬心をむき出しにし、イルカを責め立てる。時と場合によっては微笑ましいとさえ思うイルカだが、今回は光太郎との逢瀬を邪魔され、気が立っていた。
「お尻を出してください」
「えっ!?」
一瞬、喜悦を浮かべるツクヨミだったが、イルカの怒気に後ずさる。冗談ではない。
「いいからお尻を向けなさい。ほら!」
イルカの目は、不当な者に罰を下す優越感に生き生きと輝いていた。
門に手をつかせ、二度鋭くツクヨミの尻を叩く。山中に快音が響き渡る。野鳥が群れを作り飛び立った。
「はあ……、お饅頭どうしましょう。食べてくれる方がいなくなってしまいました」
イルカは、乙女らしい繊細な寂しさに震えた。
無惨に尻を押さえ、うつ伏せで倒れるツクヨミを残し、イルカは家の敷居をまたいだ。
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