∠32 二人のお兄ちゃん(後編)


イルカは唇を結び、胸を押さえるようにして立っていた。髪は未だ濡れていたものの櫛で整えられていたので、惨めな思いをせずに済んだ。


「何してんだ。風邪引くぞ」


光太郎はいつも通り、気遣っているのか非難しているのか判然としない口調だ。


「傘、忘れたんです」


イルカは怒ったように返事をした。


「災難だったな。もうやんだから」


お互い間合いを計るように口を閉じる。相手の動きを察知して機敏に動こうという積極的な沈黙である。とはいえ第三者から見れば埒があかないので、貴教が助け船を出す。本人にはその気はなく、二人の仲に茶々を入れるのが好きなのである。


「おい、でかくなったな。酒飲むか」


光太郎は貴教の顔も見ずに断る。


「は? 未成年す」


「でかくなったら飲んでいいんだよ。みんなで飲めば怖くない」


「すみません。意味わからないんすけど」


光太郎はイルカが倒れて動けないと聞かされていたので、吹っ飛んできたのだ。貴教の悪ふざけに振り回され気が立っていた。


イルカは表面上不満を露わにしたが、電話を受けてすぐ店に馳せ参じた光太郎の忠義心に胸打たれていた。


貴教はそんな二人の駆け引きをおもしろがっていた。二人からすると貴教の介入は迷惑七割、感謝三割といった所か。


「今度こんな真似したら怒りますからね」


イルカが先に店の外に出て、男二人になった時、光太郎が貴教を見据える。貴教は純粋な少年の目を捉え、にやにやしていた。


「もう怒ってんじゃないか。やけるね、光太郎にそこまで愛されてるイルカに」


「はあ?」


ようやく感情の猛りが収まりかけた所で、光太郎は素っ頓狂な声を上げる。言い返そうとしたところ、写真が目に入る。小さい光太郎と今より少し若い貴教が写っている。白と黒の野球のユニフォームを着ている。


「……、店の方大丈夫ですか」


「子供に心配される筋合いはねえ」


上機嫌だった貴教が、顔を赤くし唇を震わせる。


貴教は二年前に父親から店を引き継いだものの、軌道に乗せるのに苦労しているともっぱらの噂だった。元々貴教は大学院に進みたかったが、父親が脳溢血で倒れ地元に帰ってきたのだ。にもかかわらず、慣れない商売に彼が飛び込んだことを父親は歓迎していない。高い学費を払って大学まで進ませたのだから、それを生かす仕事に就いて欲しいというのが本音だろう。


彼は昔から自分の意見を上手く表現できずにいたが、孤立することはなかった。生来の気性の穏やかさがそうさせていると周りは思っているが、光太郎は違うと見ている。


「あんたは何も興味がなさそうだったよな、昔から。野球の肝心な試合で俺がエラー出した時も、あんたは笑ってた。他の奴らは罵声を浴びせてきたのに」


「一人くらい味方してやらんと可哀想だろ。監督だし」


「そうかな。だったらなおさらおかしい。同情する相手を笑うかな」


相手の目を見つめあったまま沈黙した。光太郎は貴教と幾度も顔を合わせているが、印象が一致しない。ある時は子供、ある時は、大人。その度に別人と会っている気分にさせられる。


「笑ってても笑ってなくても、俺はお前の味方だよ。あとイルカも」


イルカに近づくなと言いかけてやめる。神経質になりすぎているのかもしれない。光太郎の日常は、すべてが敵に取り囲まれる幻像を抱かせる。行きすぎた言動を恥じ、言葉を改め謝罪する。


「すんません……、生、言いました」


「俺のことを思って言ってくれてんだろ。嬉しかったよ。もう少し頼りになる大人にならないとなあ」


光太郎が出ていくと、貴教は焼酎の瓶を開け、グラスに並々と注いだ。


グラスに口をつけると、舌先に触れる前に極力喉に流し込む。冷水が喉を過ぎれば灼熱のごとく熱くなる。酒の状態の変化が彼を痺れさせた。


「あー、まっじい……」


口直しに、以前イルカから貰った四角いリンゴを皮ごと頰張る。


『こーたろーは、けらい。貴にいは、にいにいだね!』


幼い頃のイルカの思い出に浸っていると、 店に備え付けの電話が鳴る。


貴教は険しい表情で、受話器を取った。

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