∠28 特別な存在

地下に不気味な鳴動が響きわたる。大木が切り倒されたような衝撃を、近くで感じた。


宇美は頭部を手で守り、身を縮めた。一人先行したイルカの身を案じながら、自分に何かできないか必死で考えていた。


「忠犬ハチ公ここに侍り」


宇美の背後から涼子がおもむろに現れた。宇美は涼子の声が耳に入らなかったかのように、書架の奥をじっと見つめている。


「あの子は本当に輝夜姫なの? 妄想狂の類ならここに閉じこめたままにした方がいいと思う」


涼子の放言に、宇美は矢も盾もたまらなくなりたちまち詰め寄る。


「本気で言ってんのかよ」


「私は嘘が嫌い。あの子は幸せになれるはずないじゃない。だって輝夜姫の最期は」


特別であることは、世間がもてはやすほど簡単ではない。涼子は祖父の背中を見て育ったのでそう信じている。


「リョコ、普通が一番だよ。後で気づいても遅いからね」


祖父は放浪癖が晩年になっても抜けず、祖母に迷惑をかけたことを悔いていた。


五年前、祖父がフランスの空を優雅に飛んでいる最中、祖母は脳卒中で亡くなった。


祖父は祖母が亡くなっても、無理に明るく振る舞っていた。思えば祖父はいつも無理をしていたのだと涼子は思っている。


若い頃からバックパッカーとして外国を飛び回り、自分探しをしていたのも、文学などという幻を生涯追ったのも、憧憬のなせるわざだ。


結局捜し物は見つからず、祖父は涼子を説いてきかせる。普通の子になれと。


だが涼子は祖父の言動は裏と表があると考えている。


涼子から見て、祖母は祖父を愛していた。結婚記念日は二人きりでレストランに出向いていたし、祖母は身なりに気を使わない祖父の洋服を選んであげていた。


つまり、祖父は諦念を口にしていたが、事実はそうではなかった。


祖父は祖母に受け入れられていた。たとえ世界を敵に回したとしてもその事実は揺らがない。祖父も本心ではそれを知っていたくせに、あえて否定するのは何故なのか。涼子にはまだその理由がわからない。


涼子の視界が突如、黒く塗りつぶされた。地下の電源が落ちたのだと気づくには時間を要した。


「停電!? ウソ、何で」


涼子は勝手知ったる庭とばかりに比較的落ち着いていたが、宇美は動転し、腕をがむしゃらに振り回していた。


荒い二つの息づかいと、せわしない足音が闇の中で交差する。


涼子はとっさに手を伸ばしたが、何も掴むことはできなかった。


書庫の扉が開閉され、一瞬だけ細い光が差し込む。照らされたのはイルカの可憐な後ろ姿と、もう一人。


「ツクヨミ君……」


扉が閉まる時間が、涼子にとって極端に長い時間に感じられた。伸ばした手は無情にも届かない。シルエットだけが目に焼き付けられた。


扉が完全に閉まり、書庫は再び完全な暗闇に包まれた。


エレベーターの稼働音が遠ざかる。涼子はようやく手を下ろし電気スイッチのある場所に向かった。毎日のように訪れるため、目をつむっていても室内の正確な位置が知れた。


さまよう間も、涼子は漠然とした不安に襲われた。自分の求めるものは永遠に手に入らないのではないか。


それを他人が易々とかっさらうというのは滑稽過ぎる。


「私はあきらめないから」


涼子は力強く明かりを点す。イルカに対する対抗心が再燃していた。



イルカとツクヨミは、まんまと逃げおおせたものの行き場を失い、途方に暮れた。部外者であるツクヨミは館内にいることを咎められる恐れがあった。一般客の訪問時間はとっくに過ぎている。


今いるエレベーター内は安全だったものの、上階に向かえば人の流れとぶつからずにいられない。ツクヨミの姿は目立つから、接触すれば確実に騒ぎになる。


「そもそもツクヨミ殿はどうやって図書館へ?」


入り口のセキュリティーは万全のはずだ。宝蔵院の生徒でもないのに、ツクヨミが単独で入るのは考えづらい。


イルカが疑問を口にすると、ツクヨミは例のごとく股間に手を置いて口を閉ざした。


「何ですか! またそうやって黙りこくって。トイレにでも行きたいんですか!」


イルカは感情的になって叫んだ。一階に近づいて焦りを感じ始めていたのだ。ツクヨミは何か言いたそうだが、その前にエレベーターが停止した。ツクヨミを逃がすにしても必ず一階エントランスを通る必要がある。一か八か、扉が開いたらツクヨミと一緒に突っ切るつもりでいた。


誤算があったとしたら、エレベーターの扉の前に人が立っていることを想定していなかったことだろうか。


扉が開いたと同時に、スーツ姿の長身の女性が目を見張っていた。イルカも外に出るのを忘れ、しばし見入ってしまう。


「フロイライン綾瀬。こんな時間までお勉強ですか」


校長マリアが柔和にほほえむ。髪をぴったりとなでつけ言葉一つ一つが折り目正しい。規律を体現したような姿は人に不要な緊張を強いる。


「あ、はい。校長先生。こんばんは」


「こんばんは、感心ですね。私は会議が今終わったので帰る所です。貴女は? 帰らなくていいの?」


矢継ぎ早に質問され、イルカは気が気ではない。ツクヨミは背後に姿を隠しているようだが、目聡そうな校長にはいつ看破されてもおかしくなかった。


「あ、明日の授業の予習がありまして。缶詰です」


イルカはやっとのことで校長の質問に答えたが、校長の顔は憂愁を帯びる。


「私も若い頃、よく一夜づけをしたものです。貴女と違ってテスト前に慌ててね」


「はあ……」


厳格そうな校長にしては平凡なエピソードにイルカは何と返していいかわからない。


「でも若いからって頑張り過ぎはよくないわ。しっかり休息も取るようにね」


「はい! 失礼します」 


マリアが道を開けてくれようとしたので、イルカは体を自然に横にし、ゆっくり移動を開始した。ツクヨミもその動きに合わせて身を隠している。


エレベーター内から降り立ち、数歩進んだ所でマリアに呼び止められる。


「お爺さまによろしくお伝えください。我が校に多額の寄付をして頂き助かっています」


イルカは初耳だったので驚いた。校長が自分に目をかけてくれているのもそのせいなのかもしれない。


「勘違いしないでね。寄付の多寡で生徒の扱いを変えるわけではないから。一生徒として公平に接しているつもりよ」


イルカは飾り気のないマリアの言葉を聞き、浅はかな考えを恥じいった。同時に校長への尊敬を一層深くした。


そんな彼女にどうしても訊ねたいことがあった。


「あの、校長先生。一つお訊してもよろしいでしょうか」


「ええ、もちろん。私に答えられることなら」


イルカはここぞともばかりに自分の決意を試した。


「特別であるということは、意味のあることなのでしょうか」


校長は興味深そうにイルカに顔を寄せた。


「それは、貴女個人に関わること? それとも」


「私個人の問題です。恐縮ですが」


マリアはしばし考えこむように、黙った。背後から他の生徒に挨拶されても全く耳に入らないほど没頭している。


「私から言わせれば、それは考える必要のない問題です」


マリアから出された答えは簡潔にして、イルカの望んだ答えとは異なっていた。


「フロイライン綾瀬。貴女は恵まれている。容姿、学力、財力、この学校で敵う生徒はそう見あたらない。ねえ、どうして? 答えて」


マリアはイルカのジャージのジッパーを上げ下げした。上手く答えられずしどろもどろになるイルカをからかうような動きだ。


「それは……」


「高級ブランドの制服を着て、最高クラスの教育を受けられる。恵まれすぎててちょっと嫉妬しちゃうわ」


イルカの自信は危うく灰燼と帰すと所だ。何故マリアはイルカを揺さぶることを言うのだろうか。


「なーんて。意地悪だったかしら。ごめんなさい。でも貴女がここの生徒らしくないことを言うものだから」


マリアの瞳が寂しそうに細められる。


「この学校の卒業生の中には官僚や医師や企業の重役。つまりこの国の要諦になったつもりの人間がゴロゴロいるわ。彼らは考えない。自分は特別かなんて。当たり前になっちゃうの。大人になると考えるのが面倒になるから」


マリアはイルカのファスナーを一番上まで上げぴったりと閉じる。


「その顔、貴女の望んだ答えじゃないみたいね。でもそういうものよ、大人って狡いから」


マリアは優雅に微笑むと、背筋を伸ばしイルカに背を向け歩きだした。


イルカは心を込めて一礼し、その場を離れる。


マリアは入り口で一度立ち止まり、以前と同じようにイルカの背中を意味ありげに眺め回し、図書館を出た。ここ数日拝めなかった月明かりがマリアの足下を照らしてくれた。


歓喜で体を震わせながらマリアは明るい夜道を歩んだ。


「貴女は自分の月を見つけようと必死なのね。その調子よ、輝夜姫」



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る