∠29 家来にすっぞ


イルカは校長への宣誓通り、図書館で徹夜を敢行することにした。


「良い子にしててくださいね」


ツクヨミを休憩室に残し、イルカは勉強道具を手に取った。中国語初級のテキストは薄いが内容は濃い。手強いが、語学を学ぶことは確実に今後のプラスになると信じて疑わなかった。


ツクヨミが一人では家に戻らないと主張したので、次善の措置で図書室の仮眠室に置いておく。


一旦、合意したものの、ツクヨミはイルカのズボンの裾を引っ張って些細な抵抗を試みる。


「のう、輝夜、球が」


不穏な台詞に、イルカは顔の前に腕を振り上げ防御の構えを見せた。


「球が? 球がどうしたというのです」


イルカの大げさな防衛反応に臆したのか、ツクヨミは手を離してしまう。


イルカは自身の過敏な反応を詫びようとしたが、ツクヨミは穴熊よろしく室の奥にうずくまり毛布を被った。


「……、ツクヨミ殿、おやすみなさい」


再会したはいいもののツクヨミは別人のように引っ込み思案になってしまい、イルカは扱いかねている。これでは勉強も手につかない。


「そういえば何か忘れているような」


地下に宇美と涼子を置き去りにしていることを思い出したのは一時間ほど経ってからのことだった。



 二


雨粒が規則正しく窓を叩いていた。自然は時に雄弁な音楽を奏でる。


イルカは薄い膜のようなまどろみから目を開けた。膝の上に木版があり、白紙のままの画用紙が載っている。


イルカの周りでは、二十人ほどの生徒が熱心にキャンバスに向かい合っている。美術の時間だ。教室の中央でモデルの生徒が肩肘を張って姿勢を留めて座っているのが目に入ると、たちまち眠気が吹き飛んだ。



隣で座っていた涼子はすかさず、不注意をなじる。イルカだけに聞こえるように小さく、けれどはっきりと。


「授業中に寝るのは感心しない」


もう眠っていませんよと、イルカは手振りで示したかったが、集中している場の空気を乱すのを避けた。非は自分にある。


昨夜の徹夜が尾を曳いている。同じく図書館に泊まり込んだ涼子が全く疲れを見せずに筆を握っているのを羨ましく思う。


「ちょっとオレオ、姫と話すのやめてくれる?」


授業が終わるとすぐ、宇美が割って入ってくる。お決まりの流れに、イルカは辟易していたが、予想と違う話し合いが行われる。


「金輪際、私を無視して姫と話したら駄目だからね」


「はいはい。家来を通せば問題ないんでしょ。気をつけるわ」


お泊まり会は三人の関係に影響を与えていた。


宇美は昨日の一件以来、家来であることを受け入れている。イルカとしては扱いを変えているわけではないのだが、わがままな自分をそのまま受け入れてくれることを感謝していた。


「ねえ、宇美殿、さっき気づいたのですが」


イルカは二人ともっと仲良くなりたかったので、宇美にある事を耳打ちした。それを聞いた宇美は鬼の首を取ったかのように笑い転げた。


「えー、そうなのー?」


「はい。確認してみましょう」


イルカと宇美は素早く涼子を取り囲み、部屋の隅へと追いやる。涼子は退路を絶たれた羊のように弱々しくなった。


「……、卑怯よ。二人がかりで」


「問答無用!」


宇美は背後に回り込み、涼子が胸に抱えていた画用紙を奪い取る。そしてくるくるともてあそびながら室内を一周した。笑いの種にすることなく神妙な顔で画用紙を食い入るように見つめていた。口から出たのは賞賛だ。


「すご……、これあんたが描いたの?」


涼子はモデルの繊細な手の造形を筆致していた。限定されたテーマであるからこそ、その技量は明らかだ。まるで血管が今にも波打ち、指が動き出してもおかしくないと思わせるクオリティーだった。


「別にどこを描けとは言われてないから」


照れ隠しのように早口で言いながら宇美から絵を取り返す。


 「でもすごいですよ。私、絵心ないから」


イルカの絵は謙遜ではなく、奥行きもなく平坦で稚拙と言えそうだ。


涼子は、けなすでもなく素早く目を走らせると、線を何本か足して、見栄えをよくした。


「すげー! 棒人間が人間に進化したよ」


「宇美殿、それは言い過ぎです」


イルカとしてはそこまで酷い出来だとは思っていなかったが、改めて言われると黙っていられないだけのプライドを持ち合わせている。定規で宇美をつついた。


これらの絵は課題として提出することになっていた。涼子はそのことを配慮し、それ以上手を加えなかった。


洗い場には絵の具のくすんだ臭いがわだかまっている。


生徒たちはイルカたちを除き、残らず掃けていた。


「描けば上手くなるよ、産めよ増やせよ」


イルカは、涼子が何を言いたいのか知りたがるように顔を近づける。


「教えてくれるんですか?」


イルカに質問を振られた涼子は顔を背ける。それを好機と見たイルカは抜け目なく作戦を実行する。猫のように体を涼子の背中にこすりつけ始めたのだ。


その光景を見た宇美が狂ったようにはやし立てる。


「出た! 家来にする儀式だ」


説明しよう。イルカは円形恐怖症のため人の目を見ることができない。背格好でだいたいの他者を見分けているが、万全を期すために家来の体の骨格を記憶しようとしているのだ。


「ちょ、やめなさい。痛い、痛いって、いたーい!」


骨と骨がこすれ合うたび、激痛が火花散る。姫と家来の契りは苦痛を伴うものなのだ。


経験者の宇美は、儀式を少し離れた位置から暖かく見守る。


悲鳴が絶叫に変わり、すすり泣きに変わる。凄惨な儀式は数十分続いた。


「お前等……、覚えてろ。後で地獄を見せてやるからな」


自分の体をさすりながら、涼子は泣きはらした目でイルカをにらみつけた。頬にまで赤い痕が残っており痛々しい。


傘を広げ、二号館のドアを飛び出した涼子は、瀕死であった。有り体に言えば落ち武者か。


「いけませんね」


イルカは走り去る涼子の傘の動きが弧を描いているように見えて、不本意な結果を知る。


「と、いいますと」


宇美が傍らに立ってピンクの傘を差し、イルカの頭上に掲げる。


「まだ国木田殿は私の家来ではありません。もっと国木田殿を知る必要があるようです」


姫と家来は意味ありげに顔を見合わせると、涼子を追いかけ、捕まえた。この時、涼子は拉致されて拷問にかけられると本気で思いこんでおり、恐怖のあまり気絶しかけた。

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