∠27 輝夜の条件(後編)


イルカが逸る気持ちを抑え、エレベーターの前で待っていると、階下から涼子が上がってきた。フードが猫耳デザインのパーカーを着ている。


「ちょうどよかった、国木田殿。一緒に幽霊を追いませんか」


「遠慮しとく。眠い」


涼子はすげなく断わったものの、黒一色のカードキーをイルカに託した。


「幽霊は書庫にいるって言ったでしょ。これを使わないと入れないから」


「あ、ありがとうございます」


意外な助力に顔を綻ばせるイルカ。カードキーをエレベーター内のパネルに差し込むことで、通常入れないフロアに向かうことができるようだ。


「何でお前がそんなもん持ってるんだよ。くすねたのか」


宇美の不当な決めつけを、涼子は軽くあしらう。


「司書さんと仲良くなったから借りてるだけ。それよりいいの? 幽霊を追わなくて」


涼子に急かされ、イルカは昇降パネルの隙間にカードをくぐらせる。扉が閉まると同時に天変地異にも似た激しい揺れが、エレベーターを揺さぶる。


「だ、大丈夫かな、これ」


「国木田殿を信じましょう」


二人は不安がりながら、刻々と変化する昇降パネルの数字をじっと追う。


B4という表示が点滅を繰り返し、扉が重々しく開くと、二人は唾を飲み込んだ。互いの喉の音が克明に聞き取れるほどの静寂は、上階の比ではなかった。


人がやっとすれ違うことができる細い通路が十メートルほど続き、道を折れるとすぐ扉があった。鍵は開いており、難なく体を滑り込ませることができた。


扉の向こうは整然と本棚が屹立する空間だった。紙の臭いが籠もらないのは空調が機能しているためだろう。蛍光灯が部分的に消えているのは節電のためか、交換を渋っているのか判断しかねた。 


約五メートル先にブランケットが落ちている。人肌があることからイルカのものであることが伺い知れた。


「宇美殿。ここで待っていてもらえますか」


「何でー? せっかくここまで来たのに」


宇美にツクヨミのこと知られるのは避けたい。イルカは説得を試みる。否、命令した。


「ここで待ちなさい。家来は上の者の言うことに従うものですよ」


「え? 私、友達なんじゃ、ないの?」


宇美は絶句し、とっさにイルカに背を向けた。イルカはその背に寄り添う。


「貴殿は先ほど私を裏切りましたよね。ですから家来に降格です」


「ぎくぎく」


宇美はとっくに許されていると思ったので、油断していた。後ろめたさから反論は難しかった。


「許してください。宇美殿。私はこんな生き方しかできない不器用な女。去ってくれても構いません」


宇美を失う覚悟だったが、その心配は杞憂だった。


「今更遅いよ。あんたが変な子だって初めから知ってたし。家来でも友達でも側にいてあげないとね。それに今のあんたの方が、姫らしい。輝夜姫! 待っててあげるから行ってきなさい」


宇美に気持ちよく送り出され、イルカはツクヨミを追いかけた。



書架を駆け抜けたイルカは、程なくしてツクヨミに追いついた。離れている間も、お互いがお互いの気配を皮一枚隔てたように近くに感じていた。そのためか、ツクヨミは身を隠そうとせずあえて速度を落とし、迎え撃つように真正面から向き合った。


イルカは何と声かけしていいか迷っている。ツクヨミが憤るのも少しは理解できる。輝夜の責任を忘れ、還俗しようとしていると映ったのだ。ツクヨミからしたら裏切られたように感じられたのだろう。


「私、公務員になりたいんです」


イルカは唐突に将来の抱負を語り始めた。


「どうしてそう思ったかというと、香具山城が好きだから。あの城を管理するのは市ですから、市の職員になればずっとあそこにいられると思ったんでよね」


ツクヨミは一言も聞き漏らすまいと耳を傾けた。


「子供の頃からの夢ですが、それも私の一部です。そして、今こうして宇美殿たちと過ごす時間も否定したくありません」


輝夜に課せられた運命はあまりに重い。ツクヨミが現れ、その重みは否応なく増大した。それでもイルカのアイデンティティは揺るがなかった。


「では輝夜の地位を捨てるつもりか? 普通の女子として生きるつもりか?」


ツクヨミにしては物わかりがよさげで、イルカを退路に誘うかに見えた。


「いいえ。私は生まれてから死ぬまで輝夜の姫。その宿命から逃げるつもりはありません」


イルカはその退路を潔しとせず、ついに運命を受け入れた。その上で人の身の幸せも掴もうとしているのだ。今世紀の輝夜はかつてない欲張りかもしれない。


ツクヨミは納得したように頷き、イルカににじりよる。嫌な予感がしたが、逃げるには遅すぎた。


「その意気やよし! では子作りを」


猛獣のようなツクヨミに怯え、その勢いを手で押しとどめる。彼には空気を読む力がないのだろう。イルカのせっかくの決意も水泡に帰すところだった。


「その件に関しては考えさせてください。貴殿も私を無理矢理襲うよりも、同意があった方がいいのではありませんか」


ツクヨミは伸ばした手を一端引っ込めるものの、再び伸ばそうとして、イルカの視線とかち合う。どちらに理があるか明らかである。


「まあ……、予にも準備が必要だしな」


ツクヨミは股間に手を置いていたが、いじるというより隠そうとして手の平を広げているようだった。


「ツクヨミ殿、そろそろ教えてください。今までどこにいたのですか。皆心配したんですよ」


ツクヨミは、パーカーの余った袖を指でもてあそんでいる。イルカはツクヨミの着ている大きめのパーカーに見覚えがあった。フードに猫耳のような飾りがついている。フードのデザインが特徴的で、一度見ると忘れない形だ。


「今は詳しいことは話せぬが、金輪際、予は貴様の側を離れぬ。伴侶とはそういうものだ」


伴侶扱いされ、イルカは顔から火がでる程恥ずかしくなった。


「まだ伴侶になるとは……」


「ずるいぞ! 自分のことは棚に上げて予のことは責めたくせに」


イルカの選択に、地球の命運がかかっている。輝夜を自認する以上、いつまでも誤魔化すわけにもいかない。その時、脳裏をよぎったのは、光太郎の顔だ。イルカの行動を煙たそうに見守る彼の目が忘れられない。


(彼は私のことを友達としてしか見ていない。それでいい。それが私を輝夜たらしめる本当の理由なのだから)


秘めたる思いを胸のうちにしまい、目の前のツクヨミと向き合う。少女のように色素の薄い肌に円らで大きな瞳、たぐいまれな美貌の少年がイルカの手を愛おしそうに手繰り寄せようとしている。


「でもやっぱり子作りは嫌なんです!」


情に流される寸前で、イルカはツクヨミを突き飛ばし本棚に激突させた。ツクヨミは頭を打って目を回し、意識を失った。



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