∠26 輝夜の条件(前編)
「姫、何か変わったよね」
白い仕切り板で分けられたブースの隣から、宇美が懸案を口にした。
イルカから見えないが、宇美の語尾が上がっているので、あまり深刻そうに聞こえない。
イルカは顎をわずかに持ち上げ、頭上から温水を浴びている。髪を伝い、輪郭から鎖骨に流れ落ち、控えめな起伏と華奢な腰から水を滴らせる。そして姫の体を洗い流した水は役目を終え、丸い奈落へと吸い込まれた。
「変わった?」
イルカはとっさに聞き返すも、刺々しく響いた。宇美は意外な反応に口を利くのをためらう。
「いや、前はもっと電波っていうか。今の方がとっきやすくていいよ……、多分」
宇美からタオルを受け取っても、釈然としないイルカである。もうもうと湯気をたてながらシャワー室を後にしようとしていた。
「あー、もう! ちゃんと拭かないと駄目だって。拭いてあげる」
友人に格上げされたにもかかわらず、相変わらず侍従のように振る舞う宇美だった。涼子がこの場にいたら冷笑の格好の的になっていたことだろう。涼子は一人調べものがあるといってシャワーを浴びるのを断っていた。
宇美は乱暴にイルカの髪にタオルを当てる。頭皮をもみ込むように力を入れきて少し痛い。
じっと我慢していると、タオルを頭からはなしてくれた。ほっとしたのも束の間、今度はドライヤーの乾燥地獄が髪を襲う。
「あのー、宇美殿ー、髪が痛むのでもっと丁寧に」
「えー? 何聞こえない?」
鏡に映る宇美は必死の形相だ。イルカはそれ以上要求できなかった。泣く泣くキューティクルが剥がれるのを見守ることしかできない。
図書館といえども学校の敷地であることに変わりはない。館内でも制服か、学校指定のジャージを着ることを義務づけられている。
二人は藍色の上下のジャージを着て、寝床のある三階にエレベーターで向かった。
暖色系の壁づたいに歩くと受付があり、学生証を見せることで奥の女子仮眠室に入ることができる。連泊はできず、保護者の同意も必要だ。
自販機の前を通ると、カプセルホテル形式の個室がずらりと並んでいる。入り口にカーテンを仕切ることで人目を避ける仕組みになっていた。
「足伸ばせるだけましかー。天下の宝蔵院ならベッドの一つや二つ容易しろっての」
宇美はうなぎの寝床のような細長い作りに不満のようだ。
「私たちは生徒の身分なのですから仕方ないのでは?」
イルカが正論を述べると、宇美がイルカの額に手を当てて唸った。
「宇美殿?」
「いやー、あんた本当に姫なのかなって。だってそんな当たり前のこと言うなんて」
イルカが休憩室の一つにもぐりこむと、宇美が後を追ってきた。一人用なので、肌と肌が触れあうほど狭い。息が詰まりそうだ。
「な、何事ですか。無礼ですよ」
「固いこと言うなって。ねえ恋バナとかしちゃう?」
お泊まり会を満喫するつもりの宇美は、不躾なほど興奮していた。
イルカは明日の中国語の授業の予習があるからといって、追い返した。時刻は九時を回った所だった。
宇美が出払ってから、横になっていると眠気が襲ってきた。
室の外ではアヴェマリアが低音で流れている。寝落ちしては来た意味がないのだが、まこと心地良い子守歌であった。
眠気と戦っていると、何者かがイルカの毛布をめくった。むさ苦しい体温が傍らにもぐりこみ、荒い息づかいがイルカの眠りを妨げる。
「……、宇美殿?」
目をこすり、侵入者の正体を確かめる。毛布の中に宇美よりさらに小柄な体が丸まっていた。
「ツクヨミ殿。女性の体を断りもなく触らないようにと言いませんでしたか?」
ツクヨミの蛮行に手を焼いていたが、今回に限りイルカは彼の頭をやさしく抱きしめ、その温もりを確かめた。
一週間も行方をくらましてどこにいたのだろうか。詮索したい意欲は治まりそうにない。
ツクヨミもイルカを恋しがっていたのは間違いなかったが、突如イルカの体を押し退け、距離を空けた。ふてくされたように唇を尖らせる。
「……、ツクヨミ殿?」
「学校に来て何をやっているかと思えば、友達とやらにうつつをぬかしておる。やはり輝夜に勉学など必要ないわ。それにここは子作りには適しておらぬ」
ツクヨミの否定的な発言はイルカにとって衝撃だった。ムキになって反論する。
「私は貴殿のために生きてきたわけではありません。学校に行くことも承諾したではありませんか」
「ふーんだ! どうせ予のことも忘れておったのだろう。貴様などに用などないわ。どけい」
乱暴にイルカを払いのけ、ツクヨミは室から飛び出した。
イルカも後を追うが、足がもつれて倒れてしまう。
意識を集中するが、肝心な時に母の声は聞こえてこないのだった。
代わりに興奮した様子の宇美が走ってきた。
「ねえ、姫! 大変。幽霊がいた」
耳もとでがなられ、それでも何とか反発したい気持ちを堪えた。
「毛布被ったちっちゃい子。チョー、可愛い」
イルカの室からは毛布が消えている。ツクヨミが持ち去ったとしたら、宇美が見た幽霊の特徴と合致する。
イルカの太股に堅いものが触れた。肌身離さず持っている三角定規の感触だ。ズボンから取り出してみるとやけに薄っぺらい。それでも手放すのはこんなにも惜しい。
三角定規を大事そうに胸に抱え、イルカは重責に思いを馳せる。はじかれたように顔を上げ、宇美を見据える。
「宇美殿!」
「ひゃい!」
一度染み込んだ家臣の習慣は容易に消えがたい。宇美は条件反射で返事をした。
「幽霊を追いますよ。馬になりなさい」
「かしこまり~」
盲目的にイルカを背負い動き出す宇美。この瞬間、二人の呼吸は合一した。
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