∠25 あんなこと
イルカの持参した重箱弁当には、いなり寿司、唐揚げ、サラダなどが彩り鮮やかに詰められている。
媼の料理の腕前は、一流割烹料理店を凌ぐと翁が以前イルカに教えてくれた。自慢の伴侶だとも。
宇美はおろかイルカに敵対していた涼子ですら黙々と箸をつけ、一言も口を利くことなく完食した。
「何か眠くなってきたねー」
宇美があくび混じりに言うと、イルカにも眠気がうつった。
「何しに来たのよ。あんたら!」
気の緩みきった二人に涼子の堪忍袋の緒が切れた。
「私は勝負をしに来たの! 雌雄を決するために」
「何を?」
イルカは涼子の勘所をついに突いた。涼子は戦わずして既に負けていたのだ。お泊まりは仲良しの間でしか行われない神聖な儀式である。それに参加したということは戦いを放棄したことに他ならないのだった。
涼子は精も根も尽きたように膝をついた。
「これが輝夜の姫の威光だとでも言うの……、負けました」
棋士のように潔く、涼子は負けを認めざるを得なかった。
負けを認めた涼子だったが、お泊まり会は続けると譲らない。イルカも宇美も異存はなかった。
名目はお泊まり会だが、単に遊んでいると見なされれば追い出されかねない。ポーズでも勉学に励む必要があった。本に囲まれているため答えは自然、限られる。
「ねえ、あんた文学に精通してるんでしょ。何かお勧めの本教えてよ」
「それなら……」
居丈高な宇美の注文に、涼子は嫌な顔一つせずに応じ、案内していた。気を許し始めているようだ。
イルカは三人のデメリットに気づいてしまう。三人のうち二人が組めば一人余る。当然だ。三人の息が合えばいいが、そう上手く運ばないこともあるようだ。体育の授業が脳裏をよぎる。
「三人寄れば文殊の知恵とはいかないのですね。はあ……、お友達って難しいです」
イルカは独り言を呟いて、口を覆った。私語は厳禁だ。
イルカも本を探して館内を歩く。洋書の棚を通過し、料理の棚の前で立ち止まる。
ツクヨミが帰って来た時のために料理を学んでおくのもいいかもしれない。イルカにできるのは平生の時間を大切に過ごすだけなのだ。
「ちょっと」
イルカは驚いて振り返る。宇美と本を探しに行ったはずの涼子が一人で立っていた。
「あ、国木田殿。本は見つかったのですか」
「うん。適当な奴を渡して置いてきた」
まるで厄介払いが済んだと言わんばかりに涼子は清々した顔をしている。
「輝夜姫と二人きりで話したいことがあって」
気が熟すのを待っていたかのように現れた涼子を前に、イルカは気を引き締める。
「奇遇ですね。私も貴殿とじっくりお話したいことが」
二人がいるのは袋小路のように奥まったスペースだ。声を落とし、秘密を語りあうにはもってこいだ。
「先ほど貴殿は、私に許嫁がいると仰いました。何故そのことを?」
ツクヨミを許嫁と認めたわけではないが、事情を知らないはずの涼子が知っているのは不自然だ。
「ある人が教えてくれた」
「ある人?」
イルカは半ば縋るように涼子の肩を掴んでいた。行方知れずのツクヨミの手がかりは予想外の所から現れた。
「ねえ、どうしてあんなひどいことしたの。あんな……」
涼子の声はか細くなり、聞き取れない程小さくなったが、暗にイルカを責めている。無意識に涼子の体を本棚に押しつけるほど力を込めていた。
「貴殿はツクヨミ殿とお知り合いなのですか? 教えてください、彼は今どこに」
涼子はうつむき、何も喋らなくなった。
それにしても、涼子の言う「あんなこと」というのはどういう意味なのだろうか。イルカに思い当たる節がない。むしろ迷惑をかけられたのはイルカの方だ。それでもここにいる涼子や宇美のように一度得た縁は容易に消えるものではないと信じている。地球の危機よりもまずツクヨミの身を案じてやまない。
「お願いします。貴殿だけが頼りなんです」
冷静さを欠いたイルカは無我夢中で声を張り上げていた。図書館で看過される声量を大幅に超えている。
声を聞きつけた宇美が何事かと走り寄る。二人の肩を抱き、緊張をほぐすように笑いかける。
「熱くなりなさんな。寝床を見に行こうぜ」
宇美の介入に助けられた。あのまま加熱していたら涼子を傷つけていたかもしれない。しかし涼子がツクヨミの手がかりを握っているとわかり、余計のことが考えられなくなっている。チャンスはいずれ巡ってくる。夜を待つ。
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