∠7 子作り or Die
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賢い女は、蜘蛛になる。縦糸と横糸、母なる慈愛を持って懐に迎え入れ、男を操る。末長く添い遂げることができよう。
男に好かれる女は、大蛇になる。冷たい肌で誘惑し、楽しんだら締め上げるも毒を注ぐのも思いのまま。太く短くが信条。
稀に、両方の資質を兼ね備えた女子が生まれる。
「判大納言大伴御行殿」
輝夜は、打ち解けた風情で訪問者の名を呼んだ。前日の和歌の返事がつれなかったのが嘘のように声が精彩を帯びている。
二人の間には、大陸伝来と思しき極楽と地獄を描いた絢爛な屏風が立てかけられている。真に迫る鬼の形相と、衆生の苦しみを救いたもうとする仏の柔和な表情の対比が見事で、これほどの一品は宮中でもまずお目にかかれない。
呼びかけられた直垂姿の男は、顔を上げることができず、畳に額を擦り付けていた。男は俗に言う貴族という奴で、滅多に頭を下げる生き物ではない。
まして相手は生まれながらの貴族でもない出自の怪しい女なのだが、神々しくて、返事もままならぬ。
輝夜は返事を催促するように、扇を強かに閉じた。無作法には違いないが、男を正気に立ち戻らせる効果はあった。真摯に取り繕った態度で誓約する。
「約束の品、必ずや持ち帰りまする。その暁には」
男の手のひらに、輝夜の扇がそっと載せられた。柑橘系の香がほのかに漂う。
「道草というのは、殿方にとっては楽しいものなのでしょうけど、どうかお早いご帰還を……、貴殿が他の殿方とは違う所を見せて下さいませ」
男の頬から汗が滴り、畳に染みた。彼と同じように、以前にも輝夜と約束を交わした男たちはいた。彼らの末路は……
「これにて、御免。準備があります故」
男は地虫が這うように、真新しい屋敷を後にした。退出の際、輝夜が軽蔑の眼差しを向けたように感じたが、気のせいであろうと思い込む。所詮は、世間知らずの小娘と腹の底では高を括っていたのである。
輝夜は屋敷の奥で一人嗤う。
「次は何して遊ぼう」
ふと縁側に出ると、野草の一種だろうか、白い釣鐘形の小さな花をつけた植物が無造作に放ってあった。先程の貴公子の仕業ではなかろう。貴族ならもっと気の利いた贈り物をする。
輝夜は、じれったそうに着ている赤い袴を引きずり、花を手にとって鼻に近づける。土くれと生命の匂いを胸いっぱいに吸い込む。
「道草もいいものね」
男を愛した女は、えもいわれぬ花となる。
二
綾瀬イルカは、空腹で目を覚ました。
気づけば布団に寝かされているし、宴会の進行は記憶にない。
枕元に灯篭を模した電気スタンドがあるが、夜も本気を出してきたと見え、十畳ある自室は薄暗い。人体模型のコータ君が笑っているのか怒っているのか微妙な陰翳でイルカを和ませる。
和式箪笥と机、ハンガーにかけた制服、机には公務員試験の過去問が部屋を出た時のまま残されていた。
イルカは麻の浴衣を着ていた。嫗が着替えさせてくれたのだろう。
ぬっと、少年の顔がイルカに覆いかぶさるように接近した。悲鳴はとうに枯れ、イルカは己の呪われた運命に再び対峙せざるを得なかった。
「良かった。意識が戻ったのだな。大事ないか?」
甚平姿の金髪美少年は、安堵の息をつく。
イルカを慮る口ぶりに、憎々しくはあれど、応えずにはいられない。
「誰かさんの顔を見たせいで、具合が一層悪くなりました。御免」
イルカは掛け布団を頭から被って蓋をする。模糊とした闇の中で、許嫁の話も目の前のツクヨミという変質者も全て幻にしてしまいたかった。
「食べたいものはあるか?」
取り繕うようにツクヨミは、枕元から囁く。
頑なに無視する。
すると、襖が短く閉じる音がした。一先ず危機は去ったと考えていいのだろうか。
それも束の間のことだった。五分もしないうちに板の床を蹴立てて、ツクヨミが戻ってきたのだ。
「嫗から聞いてきいたのだ。貴様は桃の缶詰が好きだそうだな。予が直々に持ってきたぞ。食して機嫌を直すがいい」
「いらないです」
イルカは、枕元の布団を少し持ち上げ、スペースを作る。そこからツクヨミの紅玉のような眩い視線と対面する。
ツクヨミは腹這いになって今にもイルカに食いつきそうだった。
「私を慰みものにしたいなら好きになさいませ」
抑揚のないイルカの言葉にツクヨミは、首をもたげる。
「貴様は思い違いをしておるぞ。子作りは互いの同意が必要なのだ。そうでなくては、畜生と何も変わらぬ。予が先走り、貴様を不安に陥れたのが、禍根となっておるのだな。その点は、予の過ちである。許せ」
ツクヨミは、畳に額をつけ上げようとはしなかった。
「頭をお上げください。一夜限りならお相手すると申したではありませんか。ただし」
イルカは、隠し持っていた二等辺三角形の定規の鋭角を自身の白い喉元に突きつける。
「夜が明けましたら、命絶つ所存」
「本気か」
混じり気のない決意に、ツクヨミは僅かにたじろぐ。
「撤回は致しません。私は公務員になるのです。貴殿の嫁になるくらいなら、死を選ばせて頂きます」
ツクヨミは、イルカの布団に蛇の如く潜り込んできた。逃げようともがくも、子供とは思えない腕力で力任せに組み敷かれる。
「輝夜よ、良い機会だから言うておくぞ」
狼のような荒い息遣いが耳元から迫る。
「輝夜姫は地上で産声を上げ、母の乳を吸うがごとく地球の穢れを吸い上げ成長する」
イルカは舌を噛み切ろうとしたが、その寸前でツクヨミの指が口中に滑り込む。
ツクヨミは激痛を堪えて、眉間に皺を寄せる。
「……、そして成長した輝夜は、次世代の輝夜を生み、月へと還る」
イルカは指を噛み切ろうとしたが、思い止まった。話に聞き入っている。
「そのサイクルは地球と月が生まれた時から定められた盟約だ。貴様の好む三角形が三角形であるように、定理が定理であるように自明なのだよ」
イルカの信奉する絶対的定理を持ち出されてはぐうの根も出ない。その心理を見抜いての説得であった。
「貴様は普段から、輝夜の姫を自称していたな? それはつまり己の運命を受け入れていたのだ。今日という日を予感していたのではないのか?」
「違います!」
思考を先読みされたようで、イルカは躍起になって否定する。
「貴様がいくら否定しても、予定は変わらぬ。今年の八月十五日の満月の晩、貴様の肉の器は消滅し、予と共に月へと昇天する」
冷徹な宣告に、イルカから血の気が引いて行った。
「貴様を知る者たちの記憶からも忘れ去られ、概念となった貴様は予と共に久遠を共にする」
死を連想させずにはおかないツクヨミの超常性に口を挟まずにはいられない。
「貴殿は何者なのですか? 本当に神様?」
「神というより、信仰だな。予も肉の器を持ってきたが、本来なら虚無を漂う芥に過ぎぬのよ。しかし、塵も積もれば山となるの言葉通り、予はこうして子作りのために馳せ参じた。それを汲んではくれぬか?」
イルカは自身の上に重なる保温体に腕を回す。華奢だが、確かな生体反応がある。この少年の存在自体は、幻とは思えない。
「子作りしないとどうなるのです?」
「地球は滅ぶ」
ツクヨミはイルカがその気になったと勘違いして、胸の丘陵にすりすりと頬ずりしてきた。
「順序としては逆だ。予が儀式失敗の罰として神格を外され、月のバランスが崩壊する。予がおらねば、引力と斥力のバランスも取れぬからな。貴様は知らんかもしれんが、月は地球から徐々に離れていっておるのだ。それを何とか引き止めておるのが、予の力なのだ」
興奮気味に鼻を鳴らし、イルカの足に自分の股間を擦り付けていた。浅ましい行いだったが、イルカはそれどろではない。
「それからどうなるのです?」
「月は太陽の引力に引っ張られた後、飲み込まれて消滅する。月が消滅すると、潮汐力が働かなくなり、地球の自転スピードが加速するのだ。そうなるとどうなるのか、想像する頭は持っているだろ?」
イルカは運命の重責に潰されそうである。つまり、
子作り or Die
「ちょっと考えさせてくださいませんか」
「八月までまだ時はある。貴様のしたいようにさせてやりたいがな。子作りは早めの方がいいと思うし」
イルカの気持ちが少し動いたことを察し、ツクヨミは態度を軟化させる。そこまで独善ではないようだ。
「翁たちは、このことを知っていたのですね」
「うむ。彼奴らにはそれ相応の恩寵を与え、貴様の養育を任せた。悪くはされなかったであろう」
彼らとは、血のつながりはなかったのだ。薄々感じていたものの、その事実が身を切られるより辛かった。
イルカの心痛を知らず、ツクヨミは布団に篭った匂いに発情しっぱなしである。
「積もる話はピロートークの後で良いではないか。予は準備万端だぞ。レッツ 子作り!」
ツクヨミは、布団の外に容赦無く蹴り出された。
「ツクヨミ殿、もう夜更けですし、私は明日も学校があるゆえ、先に休ませて頂きます」
イルカのすげない態度にも、ツクヨミは喜び勇んで畳を跳ねる。
「初めて名を呼んでくれたな! 予はとても嬉しいぞ」
「ツクヨミ殿は、聡明な殿方ですから就寝の邪魔という野暮は致しませんわね?」
「みくびるな! 予は貴様の好む所を知っておる」
「ではお休みなさい」
「うん! 良い夢見ろよ、お休み!」
障子を閉めたツクヨミは、我に返り地団駄を踏む。
「おのれ、図ったな! 今夜はお互い子作りに最適なコンディション。逃すわけには……」
ツクヨミの肌に赤みがさしたと思うと、それから青ざめ、黄色っぼくなる。
「ぬ、これはまずい……こんな大事な時に」
甚平の腹と尻を押さえ、月明かりさす渡り廊下をつま先立ちで進む。先を急ぎたいところだが、決壊は近し。
「これは腹下しと見た。輝夜の末裔よ、夜戦は持ち越しだ。それまで保て! 我が括約筋」
ツクヨミは一目散に厠を目指した。屋敷は広い。いつになる事やら心許なかった。
イルカは、輾転反側して考えを纏めようとしていた。予感は、あったのかもしれない。
悪魔の子。
それを否定することができれば、ツクヨミを迷いなく追い出すことができていたかもしれない。
輝夜の姫を否定することは、己の存在自体を危うくしてしまう。
人体模型のコータローを布団に招き入れる。
「私はまだ消えたくない」
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