∠8 運命
王たる者、慌てず騒がず襖を開け、無人の床の間に侵入する。闇の帳の中には掛け軸と、生花がもてなすように配置されている。ツクヨミはそれらには目もくれず、次の間へと急ぐ。
傲慢そのものだった表情は翳りを帯び、紫がかった唇を噛んだ。
「図ったな……! 翁」
恐らく夕食時の鰻丼か、お吸い物に毒が仕込まれていた。鰻丼は翁たちも口にしていたことから、ツクヨミの膳にしか置かれていなかったお吸い物が腹痛の原因である可能性が高い。
「とにかく厠を見つけなければ。輝夜よ、予を導いてくれ」
せっかく心を開きかけた輝夜の前で、醜態を晒すわけにはいかない。
苦しげに柱に寄りかかりながら、ツクヨミは襖に手をかける。
その背後で異変が起こっていた。
掛け軸のかかった壁の一辺が奥に滑るように引っ込み、その隙間から音もなく怪しい者が出現した。黒い頭巾で面を隠し、まるで忍者のように闇に紛れる黒装束の曲者だ。気配を断ち、ツクヨミから一メートル離れた背後から、吹矢を射った。直径一ミリにも満たない神経毒が塗られた矢が、ツクヨミの頚動脈に突き刺さる。
柱に縋り付いたまま、へなへなとツクヨミは畳に座り込む。
曲者は足音を殺したまま、ツクヨミに近づく。
「丁度いい時に来た。厠を知らんか?」
とっくに意識を失ったはずのツクヨミが首を巡らせたため、曲者は部屋の端まで一気に飛びのいた。
「無駄に広い上に隠し扉まであるか。まるで戦国の城屋敷だな。しかし、輝夜を守るには、当然の備えというものよ」
ゆらりと状態を起こし、呵々大笑して見せる。毒が効いていないらしい。
「無礼は許そう、ニンジャ。貴様の毒で腹痛を感じにくくなったわ。しかし、肛門が持たん時が来ているのも事実。厠へ、
見た目は子供なれど、その威風は刃の如く刺客を一歩退けさせた。
庭の鹿威しが、耳朶を打つ。
月光の影に紛れるように、刺客は闇に乗じて、ツクヨミに飛びかかる。
ツクヨミは顎に掌ていをもろに喰らい、襖ごと次の間に吹き飛んだ。
起き上がる暇もなく、クナイの連投。
真横に転がり避けるも、刺客に腹を蹴り上げられ、宙を舞う。
光源のない中、ツクヨミは、サーモグラフィーと、エコロケーションの能力を用い、敵の動きを予測しようとするも、反射神経が追いつかない。ツクヨミは神格を持っていると言っても、肉の器には限界が設けられている。元々は輝夜を(アーン♡)させるためだけに作られているため、本格的な戦闘には対応していない。
毒によるハンデがあるにせよ、それを差し引いてもこの刺客は強い。
受け身を取れず、畳に背中から叩きつけられる。マウントを取った刺客が、くぐもった声と共に右腕を振り上げた。
「
ツクヨミが数瞬前まで倒れていた畳に拳が深々とめり込んだ。い草が爆ぜる音が耳につく。避けなければ致命傷は確実だった。
「おい、小童」
ツクヨミを見失った刺客がおもむろに顎を上向かせる。
背中を天井に張り付かせたツクヨミが、静かな怒りを滲ませていた。
「貴様、よもや予の高貴な尊顔を傷つけようとしおったか? もし、潰れた予の顔を見て一番悲しむのは、誰と心得るか? 輝夜であろう? ああ……、嘆かわしい」
あり得もしない妄想で、涙が畳まで垂れてきた。
「小童、二度は言わぬぞ。予には輝夜を孕ませる権利がある。それを邪魔するのなら、容赦はせぬ」
刺客は王の独善に憤るかのように拳をきつく握りしめる。
「そんな権利など」
「むっ!?」
クナイが、天井に向け放たれた。ツクヨミはゴキブリのように素早く天井伝いに回避した。
「そんな権利など、俺は認めない。イルカは、お前を嫌っている」
感情を露わにした刺客に、ツクヨミは、困惑気味に尋ねる。
「一つ答えよ、貴様は輝夜の何だ?」
この刺客からは並ならぬ闘気が、初めから漂っていた。プロの刺客なら、機械のように淡々と任務を遂行する。それなのに、この刺客からは感情の動きがだだ漏れだった。反撃しようと思えばいくらでもできたが、その意気の理由が知りたくてツクヨミは、攻撃を受けていたに過ぎない。
「はっ、まさか貴様、間男という奴か? 輝夜は予に隠れて密通していたと申すか。心して答えよ」
ツクヨミは考える。もし、輝夜が他の男に靡いていたら、自分に対するあの冷たい態度も説明できるのではないか。
「だとしたら?」
刺客は挑発するように、語尾を上げる。
「この……、俗物が」
ツクヨミの深淵なる怒りは衝撃となって、屋敷を壊れんばかりに揺さぶる。柱は軋み、天災のような強風までも吹き込んでくる。
刺客は微動だにせず、頭巾の下で寂しげに呟く。
「なんてな。俺とあいつは友達さ。これからもずっと」
ツクヨミは、甚平の上を脱ぎ捨てる。金髪は逆立ち、瞳の色もより紅の濃さを増した。
「これが若さか……、しかしそうとわかれば捨て置けぬ。貴様には、塗炭の苦しみを味わってもらう」
ツクヨミは舌伸ばし、プロペラの如く回転させた。間抜けに見えるが、明らかに空気が厚みを増し、刺客は気圧される。
荒ぶる神のすることはただ一つ。
不埒者蹂躙すべし。
翁は、燭台の側で胡座を組みまんじりとせず夜を過ごしていた。無論、イルカのことについて、果てない思索を続けていたのである。
屋敷が異変により揺れ始めると、老体とは思えぬ身軽さで、廊下を滑るように走る。激しい衝撃音のする方向へ急いだ。
「やれやれ……」
翁は、薄くなった後頭部を撫でる。辿りついた母屋の西側の一角は、見るも無残なあり様だった。
瓦屋根が崩れ、畳はめくれ、ひしゃげた襖が庭に落ちている。
一層不可解だったのが、部屋の様子であった。まるで、糊でふやかしたように、壁や天井が白く湿っている。翁は手を伸ばそうとした。
「触れるのは、よすがいい」
庭から制止の声。
「これはこれは」
翁は、憂いの表情を一瞬で作る。
「なかなか生きのいい部下を飼っているな。予に本気を出させ、逃げ延びよったわ。褒めてつかわす」
ツクヨミは、半裸のままボサボサの髪を振る。すぐに元の直毛に戻った。
縁に足をかけ、翁の隣に立つ。
「はて、物音怪しみ馳せ参じてみれば、この有様は……、賊でございますか」
「この後に及んでとぼけるか。肝が座っておるのう、翁」
ツクヨミは、棘のある目つきで素面の翁をずいっと見上げる。
「滅相もございませぬ。代々、讃岐家は、貴方様に仕え、繁栄してきた家柄ですぞ。謀反などとてもとても」
翁の飾り物の忠義を見透かし、ツクヨミは、もうよいと大義そうに歩き出した。
「輝夜を養育し、情が湧くのは理解できる。皆そうであったからな。だが、翁よ、何が輝夜にとって幸せか、それを今一度考えてもらいたい。あやつは今、幸せか? どうにも予にはそう思えぬのだ」
ツクヨミは前かがみになり、次第に足音も遠のいた。
「ふん……」
一人になった翁は拳を柱に叩きつけた。眉間には波立つような皺が寄っている。
「″月影″は、失敗したみたいですねぇ」
嫗が合流する。彼女もまた、刺客の襲撃失敗に肩を落としていた。
「これも
翁の家は代々、輝夜姫を養育してきた。翁も俄かにそんなお伽噺は信じられなかった。
その運命を初めて知ったのは、翁の父親の臨終の間際であった。
「今まで黙っていたが、当家では、やんごとなき姫を養育する定めにある。丁度、お前の代にその姫は現れるだろう。心せよ」
そう言い残し、父親は息を引き取った。
翁、三十歳の冬である。
今わの際の迷いであろうと、翁は落ち着いて捉えた。既に妻帯していたし、僅かでも惑乱した自分を恥じた。
筍を掘り、生計を立てる。讃岐家所有の広大な山からは、美味なる筍が尽きぬことなく、生えてくる。生活には困らなかった。
しかし、筍を狙うのは翁だけではない。泥棒や、飢えた野生動物との格闘、癒えぬ傷、年々減退する体力、それでも粛々と筍を取り続ける。
夫婦の間には子供ができなかった。原因は不明。
嫗は、ひどく気落ちしたが、翁は二人で強く生きようと励ます。その間も、父の言葉が脳裏をよぎる。やんごとなき姫。
また己を恥じた。
そして月日は流れ、翁、齢五十歳。
運命の時が訪れる。
八月の十五日。
大山鳴動。
その数日、激しい雨が降り続いていたため、土砂崩れが起きたのかと思い夫婦は家を飛びだす。幸い、山は穏やかだったが、稲光が不気味に轟いていた。
翁の目には、稲光とは違う光が捉えられていた。光指す山肌のある一点だ。
傘もささず一目散にその場所を目指す。獣道を辿り雨に嬲られ、もはや目は役に立たずとも、その場所は頭にインプットされたかのように、翁を急かす。
竹林の真ん中で、それは産声を上げていた。
乳白色の光を放つ塊が、土から盛り上がっている。翁は一度嫗の所に戻り、スコップを持って共に竹林に戻る。
土はまるでスコップを飲み込むように柔らかく掘る作業を邪魔しない。
光の下、露わになったのは、高さ三メートル直径一メートルはあろうかという、異様な竹だった。
竹は通常、天に向かって伸びる。地下深く埋れたままここまで成長する例を翁は知らない。
竹の上半分の表面が、両開きの扉のように左右に割れる。溢れ出す強き光に、翁と嫗は目を覆う。
竹の中は綿のような白いものが詰められており、その中に生後間もない赤子が産着にくるまれた状態で発見された。
稲光がさっと、山肌を照らす。
赤子が突然泣き出した。翁は訳も分からず周囲を見渡す。どうすればいい。
「あらあらいけない」
嫗は赤子を抱き上げると、懐であやす。堂にいった手つきに、翁は正気を取り戻し、傘を嫗と赤子の上に掲げる。
「この子は私たちの子ですよ」
何を馬鹿なと、翁は咎めようとして口を閉ざす。そう考えた方がどれ程幸せだろう。
「神様が私たち夫婦に遣わした大切な子供ですよ、あなた」
その身元不明の女児は、綾瀬イルカと名付けられ、二人の養子となった。
それから十五年が過ぎ、今に至る。
「そう、あの娘は儂等夫婦の子供。あんな得体の知れない化け物になどくれてやるものか」
翁は家の蔵にあった古文書を見つけ、イルカの輝夜姫としての運命を知った。
心せよ、というのは、輝夜姫を養育することではなく、その最期にあることにも気づいてしまう。
八月十五日、輝夜姫は月の船団に攫われる。それは不可避の運命である。
「儂等は間違っているのかもしれん。ともすれば、地球は滅ぶじゃろう」
翁は縁側から、雲に覆われた月を偲ぶ。嫗はその隣に静かに寄り添った。
「子を思わない親がいますか。あの
娘がまっすぐに生きるのを邪魔するのだけは許せませんよ」
翁は、決然とした嫗の肩を抱く。
「儂等であの娘を守ろう。たとえ」
どれだけ手を汚そうとも。
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