∠6 罪な女



茜指す公園、綾瀬イルカは変態と対峙する。


兎の面の男の身長は、イルカの胸の高さにも届いていない。声も少年のような澄んだ音程を保っている。


不思議な光彩を帯びた金髪に、細い骨格はマントの上からでも判別できた。面は割れずとも、中性的な美貌を匂わすに十分な材料がある。


しかしこの場合、変質者の美醜はイルカになんの影響も及ぼさない。


鼠蹊部に憎悪の対象がわだかまっている。イルカは恐怖から吐き気を催したが、それを上回る強烈な怒りに身を任せた。


「いやああーっ!?」


イルカの激情に呼応するように、彼女の右膝が乳白色の光を帯び始める。


「ほう……、見せてもらおうか。輝夜の末裔の性能とやらを」


男は筋肉の少ない細腕を組んで、余裕を振りまいていたが、その余裕は長くは続かなかった。


イルカ、肉薄する。物腰、低きを維持し振り上げるは、ようよう白くなりゆく膝頭。曲げる角度は九十度厳守。


「ちょ」


男は棒立ちのまま、自身の自身が粉骨砕身身崩れする絶望の瞬間に立ちあうことになった。天を衝くような悪寒が走る。


血眼になったイルカは、男の鼠蹊部を狙い打ちにする。腰を引こうとする男の両肩を掴み、無慈悲な直角膝蹴りを執拗に繰り返した。


「醜いものを見せないでくださいッ! 汚らわしい……、潰れろ、潰れちゃえ!」


男は蹴られるたび、人形のように上下に跳ねた。小さい呻きと共に痙攣していたが、その動きも徐々に弱くなると、首がだらりと折れ、イルカの肩にもたれてきた。


「ひっ!?」


イルカは男をとっさに突き飛ばした。男は滑り台に背中からぶつかり、安っぽい仮面が外れて地面に落下した。


うつ伏せのまま死んだように動かない男を見下ろし、イルカは紅潮した頬に張り付いた髪を払った。


膝と太ももが生温かい。触れてみると、粘度のある白い液体が糸を引いた。不如意にも、鼻に恐る恐る指を近づける。


「イカ臭い……」


男のマントで膝と太ももと指を赤くなるまで丹念に拭き、その場を離れた。





地蔵居並ぶ細道は、竹林に囲まれていた。風吹けば、輝夜の姫を歓待するように竹がしなる。薄暗いが、さりとて陰鬱にあらず清涼な風が通る。


三百十四段の急な石段を、イルカはリズミカルに跳ね登って行く。階段は苔むしていたものの、金属の手すりがついており、足腰の弱い者にも配慮がなされていた。

階段中腹から見下ろす小高い山が、夕日で紫色に翳っていた。


階段で丸眼鏡をかけた男とすれ違う。

年は二十代半ば、背は高いが、面長で柔和な印象を与えた。イルカに気づくと、眼鏡の奥の瞳孔が広がる。


「おっ、JK」


「リンゴお一つどうですか? 買いすぎてしまいました」


男はイルカから、四角い形をしたリンゴを受け取り、物珍しそうに眺めながら階段を下りて行った。


階段を登り切れば、竹で制作された門。表札に讃岐とある。イルカの生家であるが、地元では讃岐というと有名なため、トラブルに巻き込まれやすい。そのためイルカは、嫗の旧姓、綾瀬を名乗っている。


門を抜けると石畳、数奇屋作りの本宅に続いている。


「ただいま帰りました」


間口の広い玄関には明かりがついている。四角い顔に団子鼻の老婦人が上がり框で正座していた。


「あれま、イルカちゃん。遅かったねえ。お帰り」


この老婦人は、イルカの保護者の嫗である。浅葱色の着物を着て、穏やかな気性そのままに目を細めていた。


「貴教さんと、すれ違わなかったかい? お祝いにお酒を持ってきてくれて、今帰った所なんだよ」


「はい。ご挨拶しました」


イルカは、ぼんやり返事をした。


「そうかい、学校どうだった? 疲れたかね。さあ、お上がり。おじいさんも直に戻って来るだろ」


「もう戻ってきておる」


イルカの背後に、シャツにデニム姿の厳めしい老人が立っていた。鷲鼻に尖った輪郭をしており、長身をちょっと屈めてイルカの目を覗き込む。


「この不良娘が。一体今何時だと心得ておる」


容赦無い詰問にイルカは、おろおろと視線を泳がせる。


「友達と、球遊びをしていましたの」


「ふん、今度門限を破ったら、敷居はまたがせんからな。心しておけ」


イルカを押しのけようとする翁に、縋るように手を伸ばす。


「あの、リンゴを買ってきたので食べませんか。形は不恰好ですが」

翁は目尻を少し和らげたが、咳払いで誤魔化した。

「まあ、良いわねぇ。それじゃあ台所で剥いてきましょうね」

嫗が横から口を出すと、


「儂のだ! 儂が貰ったんじゃ」


真っ赤な顔で声を荒らげる。女二人は笑いを堪えることができなかった。


制服から何故か松竹梅の振袖に着替えることを指示されたイルカは、深く考えることなく従った。髪を簪でアップにし、枯山水の庭に面した二十畳の座敷に向かう。渡り廊下も含め建物は総檜でできている。


座敷には、漆塗りのお膳が既に用意されていた。お酒も用意されているし、お祝いごとかしらと、心は一瞬活気づくが、部屋の敷居で首を傾げる。お膳が四つあることに気づいたのだ。


この屋敷に暮らすのはイルカを含めて三人。これから来客の予定があるとも聞いていない。


「いやー、良い湯だった」


廊下を伝う大きな足音がイルカの耳に入る。能天気な声にどことなく覚えがある。


振り向いた先にいたのは、光沢ある金髪の毛先から滴を垂らす、一人の少年だった。白い歯を見せ、イルカに笑いかける。


「また会ったな、輝夜の末裔」


上半身は何も着ておらず、下半身は一枚のタオルで覆うのみ。それも計ったようにずり落ちた。


「いやああー!」


イルカの悲鳴を聞きつけ、翁と嫗が座敷に飛び込んできた。

翁は猟銃を構え、嫗は出刃包丁を片手に臨戦体制を取る。


それも束の間、


「何じゃ、イルカ。騒々しくするものではないぞ。はしたない」


翁は緊張を解き、猟銃を下げた。


「た、助けて下さい……、この人、

変質者です。公園でも襲われました」


柱にしがみつくイルカの元に、嫗が駆け寄り背中をさする。


「ごめんね、イルカちゃん、ごめんね……」


憐れを誘うような声で謝罪した。

嫗に非は全くない。イルカにも理不尽な悲しみが伝播して、涙を止めることが出来なくなってしまった。


「困りますな、大事な孫娘を泣かすような真似をされては」


翁が渋面を作り、少年と向き合う。それは確かに作られた表情であった。普段の彼であれば、イルカを泣かせた者は誰であれ、激しい折檻で応酬する。この会食は彼にとって苦渋の決断だった。嫗もまた同じく鼻をすすりながらこの時を迎えた。


イルカは庭を背にし、翁、嫗と対面する。変質者は甚平を着てイルカのすぐ脇でヤンキー座りしている。無理矢理服を着させられ、不服そうだった。


「これまで黙っていて済まぬとは思うが聞いてくれ、イルカよ」


翁は、泣きはらしたイルカの目をまっすぐ見据えた。


「此方におわす方は……」


少年は翁の話に割って入るように、イルカの正面に四つ足で飛んできた。


イルカはその時、ようやく少年の美貌に目を奪われた。


真紅の瞳に、深雪のようにくすみのない白い肌、中性的な色気に加え、無邪気さを醸す口元。まるでイルカの心を覗き込むように、顔を寄せてくる。

これまでなかったことだが、イルカは少年と至近距離で顔を付き合わせても、苦ではなかった。目玉の丸さに萎縮してしまい、近しい光太郎ですら避けているというのに。


「やはり思うた通りだ」


少年は感激したようにイルカの手を取って握りしめた。


「仮面を通して見るより遥かに美しい。貴様は予の妻に相応しい女子だと確信した。誇るがいい、予の子孫を孕めることをな」


握られている指の辺りから蕁麻疹が出て、イルカは危うく卒倒しそうになった。


翁が睨むと、少年は瑞々しい手を離した。


「ああ、そうであった。自己紹介が必要なのだ。つい、貴様と対していると、子作りしか頭になくなってしまう。全く罪な女子よ」


少年はくっくっと、低く笑う。


嫗が笑顔のまま、箸をへし折っていた。それでも、少年は怯むどころかますます増長する。


「予の名は、ツクヨミ。月の王である」


イルカはぽかんと口を開け、ツクヨミと名乗った変質者の口上に嬲られ続ける。


「そして綾瀬イルカ。貴様の許婚でもある。これから沢山子作りしような!」


爽やかに言ったつもりだろうが、イルカからしたら、精神的なレイプに他らない。


耐え切れず、失神。


意識の川で溺れ死にたい。イルカはそう願った。





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