∠5 君の名を呼べば


「確か、小説家みたいな名前だったと思う」


二階堂宇美は、気合を入れ直すように腹の底から声を発した。


その背中にしがみつく綾瀬イルカは満悦そうに、宇美の首筋の匂いを嗅いでいる。単なる嗅覚記憶の最中だったが、周りからは、


「えっ……、あの娘たち(///o///)」


と、その筋のお姉様方からの熱視線に事欠くことがなかった。


宇美は敏感なので(首筋が性感帯という意味ではない)できるだけ、人目を避けて移動をしようとしていたが、不慣れな場所ではそれもままならず、人通りの多い噴水前広場を通過する。


一号館と二号館の間にある憩いの広場には、円形の噴水を囲んでベンチが点在している。

外からフランクフルトの販売車がやって来て営業していた。


「さっきの話の続きなんだけど」

噴水前を横切る間、イルカは宇美の肩に隙間なく額をつける。

「あんたが喧嘩売ったお菓子の子」

「オレオです」

「何でもいいけど、あいつに仕返ししてやろうよ」

イルカは気乗りなさそうに目を滑らせた。鮮やかなフランクフルトの看板に意識が奪われている。もう教室でオレオを食べていた少女の存在も忘れかけていた。

「やられたらやり返さなくちゃ。舐められたら仕舞いだよ」

「はふ……」

イルカは平和賞をもらえそうなあくびで喉を鳴らした。反対に宇美は余裕なく息をゼイゼイと吐きながら、広場を抜ける。

「あたしの記憶が確かなら、あのちっこい奴の名字は小説家みたいだった。小説といえば、本だ。とりま、図書館に行けばあいつの名前が思い出せるかも」


教室で待っていれば、いずれ会えるのだから焦る必要はない。この急拵えの家来のおつむの出来を怪しみながら、イルカは背負われていた。


(フランクフルトが食べたい)


こんな時、光太郎ならそれとなくイルカの機微を察してくれるのだが、家来になりたての宇美は移動するだけで精一杯である。


噴水側に、八角光太郎がもの寂しい様子で一佇んでいた。イルカの世話を焼けないことが歯がゆかったのだが、どうやら彼女は友人に恵まれたらしい。女子同士の間に割って入るのは野暮だと介入はあきらめた。


光太郎の右手側から、突如飛来物が風を切ってきた。危うげなく片手で掴む。

「ナイス」

隆々とした筋肉を持つラガーマンが、白い歯を見せる。彼の仕業らしい。

「元気が有り余っていそうだな、一年。ラグビー、やらないか」

光太郎は、自身の持つ楕円形のラグビーボールがイルカの脅威になると考え、とっさに両手で抱える姿勢を取った。それは肯定の仕草と捉えられたのだろう。肩を抱かれ、連行される。

「いいぞお、その意気だあ!」

「……、ウス」


たっぷりしごかれた。




フジツボ。

イルカが、その建物を見て真っ先に抱いた感想である。

道路を挟んで校舎の向かいにある図書館の外観、台形で建物の上部に行くほど若干細くなる螺旋構造となっている。

「円形チェック! 参りまあす」

イルカは誰に言うでもなく宣言した後、地面に腹ばいになり三角定規で建物の傾斜を測る。

「あんた、公務員より測量士の方が向いてるわよ」

家来Aが、イルカの脇に考えなしに踏み入った。

「二階堂殿ッ! 影が邪魔で正確な測定が出来ませぬ! おどきなすって!」

往年の岩下志麻のようなイルカの剣幕に慄き、宇美は涙目になって飛び退いた。

「な、何よぉ……、マジになっちゃって馬鹿じゃないの……」

その後二人は図書館のエントランスで学生証を改札機のゲートにタッチし、図書館内部に入った。

天窓から自然光が取り入れられ、極力電気は使わず、夜はソーラーパネルに取り入れた太陽光で賄う使用になっている。

建物はイルカのチェックを無事通過した。曲線を含んでいたが、円柱であるとは認められなかった。

螺旋状に並べられた本棚からは、紙の臭気が漂い、宇美は鼻を摘まんだ。

「ここの書庫には、価値ある資料も収められてるって話だよ。あたしはあんま古いものには興味ないけどね」

「お嫌いですか? 香具山城も」

宇美は、備えつけのパソコンからデータベースにアクセスを始めた。 イルカはその肩に顎を載せ、画面を楽しげに覗き込んでいる。

「ピンとこないな。あの城やけに真新しいから、舞台のセットみたいじゃん」

「お姫さまのために綺麗にしておくのは当然です。輝夜姫は、綺麗好きなのです」

太宰、三島、志賀、菊池、どれも違う。

宇美はオレオ少女のヒントが見つからず煮詰まっていた。小説家という、ざっくばらんなヒントだけでは、候補が絞り切れない。自分の薄弱な記憶力を呪いたくなった。

「あれ? あの城に姫さまなんていたっけ」

宇美の肩にもたれて、イルカは立ったまま舟を漕いでいた。

「変な奴。でも面白いよ、あんた」

宇美はイルカを寝かせたまま、検索を再開した。ここまで来た以上、必ず見つけてみせると意地になる。

「手こずってるの。何なら協力してあげてもいい。ここの蔵書なら四分の一は読破したから」

「いいって、自分で見つけるよ。あいつの名前、絶対」

イルカの穏やかな喋り方とは一風違う静謐な口調に違和感を覚える。

宇美の脇に、小柄な少女がいつの間にか立っていた。小脇に難解そうなタイトルの哲学書を抱え、不機嫌そうに宇美に話しかけてきたのだ。

「で、出たな。オレオ」

「勝手に仇名つけるの禁止。それより、あなたたち他人に迷惑かけてる自覚ある?」

恐る恐る振り向くと、宇美たちの後ろに長蛇の列が出来ていた。

「もう少し社会性を養うべき。そこのお姫さまも」

眠っていたイルカにも苦言を呈し、少女は貸し出しカウンターへ悠々と歩いて行った。


さぬき市では、路面電車が運行している。市民の貴重な足となっており、宝蔵院の生徒も少なくない人数が、この電車の世話になっていた。それを見越してなのか小豆色の車体には、大手予備校の広告が当然のように張り付いていた。

「あー、ムカつく!」

宇美は煮えたぎる激情をうまく言葉にできず、和やかに揺れる車内で無闇に喚き散らしていた。

ふと我に返ると手すりに掴まり、左右を見回す。

長椅子の真ん中に陣取る姫カットと、金髪ヤンキーの取り合わせが目に付いた。

「ああっ……、八角殿!? 私、そんなものを見せつけられたら、おかしくなってしまいますわ」

イルカが艶めくと、光太郎も熱を帯びた声で嘯く。

「目を逸らすな。俺を信じろ、イルカ」

光太郎の武骨な両手の指に絡まる赤いあや取りが、正八角形を形作っていた。

「Wannnnabeeee!!!」

宇美は精緻な図形を象ったあや取りを真上から粉砕した。光太郎が、非難の眼差しを向ける。

「何をするんだ。リハビリの最中だっていうのに」

どうやら図形を徐々に円に近づけ、イルカの恐怖を克服せんとする企みらしい。

「ねえ、あんたらどういう関係?」

宇美がイルカと授業を終え帰ろうとすると、顔中土塗れの光太郎が校門で待ち伏せていた。

イルカが、異性の光太郎の腕にさりげなく触ったりするので、邪推が捗ったのである。

「俺たちは」

「友達です」

より体を前傾にし、イルカは宇美の疑問に素早く答えた。

電車がゆるりと速度を落とす。信号待ちに入ったようだ。

「何か普通じゃないとは思ってたけど、本当にそれだけ?」

イルカは光太郎のがっしりした肩に安心して体を預け、目を閉じた。慣れない生活に疲れが表出したと思われる。

「幼馴染みだから」

言葉少ない光太郎に、宇美は戸惑いを隠せない。幼馴染みにしても、気を許し過ぎなのではないか。イルカは一通りの女子ではないから、その限りではないのかもしれない。会ったばかりの光太郎の真意は読めなかった。

「イルカが呼んだら、俺はどこに居ても駆けつけなきゃならない」

俯きがちに彼はそう言葉を結んだ。

宇美と光太郎は学園から、二つ先の停車場で降りる。

別れ間際イルカは一目も憚らず、光太郎の胸に甘えていた。

「やっぱり送ろうか」

「いえ、二階堂殿をお願いします」

しおらしいことを言って、イルカは手を振り二人と別れた。それでも名残りをしそうに見つめ合う二人に、宇美の嫉妬は捗る。Twitterを開き、リア充爆発しろと、つぶやく。

終点で下車したイルカは、古い軒の目立つ路地を歩き、翁と嫗の待つ家を目指す。

電車を降りると既に十六時を回っていた。手元のフランクミュラーが教えてくれる。この時計、本体が四角いのは良いが数字が若干丸みを帯びており曲者であった。それでも翁からの入学祝いである。大切に使うと決めている。

錆び付いた遊具のある公園を通り過ぎようとした所、サッカーボールがコロコロと風に吹かれていた。

円いものは、敵。

イルカは条件反射的に公園に踏み込むとサッカーボールを蹴り上げ、瓦屋根の御宅の庭先に飛ばしてしまった。

「良い蹴りをしてるじゃあないか。キャプテン翼かと思ったぞ」

滑り台の上で気配を現したのは、兎の面で素顔を隠し、唐草模様の風呂敷で体を覆った不審者である。風が吹くと、風呂敷がチラチラ捲れる。


は い て な い


イルカは、その下半身を食い入るように見つめる。

「やっと会えたな、輝夜の末裔」

体育座りで滑り台を降り、イルカの眼前に降り立つ。興奮も露わにこう言った。

「子作り、しようや」


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