∠3 清く正しく美しく


「それでは、フロイライン綾瀬。清く正しい学園生活を」


私立宝蔵院学園校長、マリア=シュルツ=野々村に歓迎された事を、イルカは生涯忘れないだろう。


木造の学び舎に足を踏み入れた綾瀬イルカは、未知の空間に尻込みしていた。


宝蔵院の歴史は古く、明治時代に建てられた私立校である。四階建ての校舎が三棟、縦一列に並んでいる。各校舎の連絡通路として、空中回廊が敷設され、軸のように校舎を繋げていた。敷地と、外界を隔てる塀を含め、俯瞰すれば、国という字が浮かび上がる。


玉を象る

、が欠けている。


と、口さがないものは言う。

画竜点睛を欠くとは、このことであるとして、その位置に二宮金次郎像が設置されたのは、五年ほど前のことである。


イルカは、高校生活第一日目を盛大に遅刻した。


校門前では、マリア校長自らが険しい顔で待ち受けていた。


マリアはドイツ人クオーターにして、四十代の若さで、校長の任についたやり手である。濃い色の金髪をショートヘアーにし、ジャケットにタイトスカート、青い目を釣り上げ、常に時間を気にしてキビキビ歩くその姿は、教育者というより、経営者に見える。


「今朝はよく眠れて? フロイライン綾瀬」


遅刻に対する皮肉に、イルカはひたすら縮こまる。


「返事!」


マリアの叱責は人目もはばからず、容赦ない。イルカは泣きそうになった。


「ごめんなさい……」


「全く困った子ね」


一転、いたずらを叱るような、くだけた口調でイルカを抱きしめる。マリアからは高尚な香水の香りがした。


「ご自宅に電話しても、既に出た後ということでしたし、事件に巻き込まれたんじゃないかと気が気ではありませんでしたよ」


マリアの心配は、最もである。

さぬき市ではここ一ヶ月ほど、イルカと同じ年代の婦女子の誘拐事件が後を立たない。


被害者全員が、今のところ無傷で生還しているが皆、口を揃えて不可解な説明を繰り返した。


「光る円盤に招待されたが、それ以外何も覚えていない」


狂言

宇宙人

催眠術


数多の可能性が浮上しているものの、今のところ真相は解明されていない。


校長の後に従い、桜並木を歩く。イルカは、自然と零れる笑みを隠すことが出来なかった。


「フロイライン綾瀬」


黙々と歩いていたマリアが急に立ち止まり、イルカの名を呼んだ。


浮ついた気分を叱咤されるのかと、イルカは萎縮する。


「そんなに、固くならないで。怒っているわけではないの」


マリアは馴れ馴れしく、イルカの腰に手を置いた。


「あなたの事情は聞いています。不安に思うのも無理はありません。ですが、入校した以上特別扱いもできないの。お分かり?」


この人も、やはり他の大人と大差ない。イルカに、均質化を迫るのではないかと思われた。ところが、マリアの思惑は違った。


「でも校外では別です。貴女、良かったわね、狼男に食べられなくて」


「へっ!?」


素っ頓狂な声が出てしまう。聞き間違いか、意図が飲み込めない。


「狼男は、満月の夜に覚醒します。貴女は出歩かないでしょう? そんな日に」


マリアはイルカの耳に、ルージュの唇を寄せる。


「攫われたりしなくて本当に良かった。大事な体ですもの。男は狼。気をつけて」


イルカはマリアの言葉を深読みせず、小さく笑った。


「私、狼男さん好きです。普段とのギャップに惹かれるんでしょうか。でも、狼男さんも、望んで狼男になるわけではないのです。だから……」


独特のシンパシーは、イルカだけのもの。マリアに理解されなくても構わないと思って説明したのが、功を奏した。


「素晴らしい」


マリアは、うっとりとイルカの手を握りしめた。


「他者への共感。貴女、この学校の校訓は知っているわね?」


「和を以て貴しとなせ」


厩戸皇子が残したとされる言葉。今のイルカには叶えられなくても、胸に刻みたい言葉だ。


「フロイライン綾瀬。貴女は、この学校に相応しい人間だわ。ようこそ、宝蔵院へ」


イルカは居場所を得たことに、喜びを禁じ得なかった。


一年生の校舎は、敷地一番奥の木造校舎だ。明治時代に建てられた西洋建築からは、机と椅子の擦れる音と、小人のささやきのような喧騒が届く。

校舎の一階と二階は吹き抜けになっており、一階には談笑用の白い瀟酒なテーブルと椅子がいくつか置かれていた。


「それでは、フロイライン綾瀬。清く正しい学校生活を」


遠ざかるマリアの屹立した背中に、直角のお辞儀をし、自分の教室に向かった。


一方、マリアはイルカが階段を上る姿を背後から観察していた。値踏みするようにじっと。


「あれが、輝夜の末裔……、とっても美味しそう」


マリアは、三日月の聖痕が刻まれた舌で唇を舐めた。


「清く正しく美しく〜♪」


イルカが口ずさむのは、宝蔵院の校歌の一節だ。ちなみに歌は三番まである。


角を曲がる時は、一度立ち止まり、体の向きが直角になるように折目正しく移動する。これはイルカの幼い頃からの癖である。


歩きスマホを警告するポスターが壁にあるにもかかわらず、前方不注意の女子が、イルカの進行方向から悠々とやって来た。イルカもまた歌に夢中で、気づくのが遅れた。


あにはからんや、正面衝突が起こる。反対方向に鞠のように転がる二人。そればかりか事故の際、イルカの膝頭にスマホの画面が当たり、液晶パネルに亀裂が生じた。


「いてて……」


イルカとぶつかったのは、鼻の低い肌の浅黒い少女だ。ショートの黒髪はイルカと同じく、まだ切って間もないと見える。


「大丈夫? 悪いね、スマホ見てたからさ」


率先して謝る気概を表した少女だったが、次の瞬間、表情が凍りつく。


「あたしのスマホが、何でこんなことになってるの……」


イルカの側に落ちている携帯を指差し、きゃんきゃん喚く。


「ねえ、何とか言いなよ。黙ってないでさあ。壊れたの誰のせい?」


少女の食ってかかるような態度に、イルカは疑わしそうに目を細めた。


「何だ、その目。あたしがわざとぶつかったって言いたいの?」


弱い犬ほどよく吠える。

不本意だが言い争いになりそうな気配だ。イルカは、校長との会話を思い出し、自分を戒めた。


「……、申し訳ありませんでした。弁償いたします」


イルカの二つ折りの財布には、一万円札が窮屈そうに収められていた。ざっと見積もっても、二十万はある。


それを見て、スマホ少女は泡を食った。何も本当に弁償させる気などない。少し脅かしてやろうとしただけだ。スマホは買ったばかりで、保証期間中なら修理も無料になる。


「おいくらですか? 当方、世情に疎いものですから、相場に検討もつきません」


「えっと……」


イルカの断固とした態度に、引っ込みがつかなくなる。ふと苦し紛れに手の中のスマホに触れてみると、液晶パネルは滑らかな平面を残していた。


「あれ……?」


ホームボタンを押すと問題なく起動するし、ネット接続環境も良好だ。見間違えたとは今更言い出せなかった。


「あら、壊れていませんね」


イルカが、スマホを覗き込むと、少女は手で包むように隠した。それでも怒りは収まらなかったのだろう。顔を真っ赤にして声を荒らげた。


「お金はもういいから、しまいなさいって!」


イルカが素直に従うと、隙を縫うように少女は逃走した。


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