∠2 ようこそリンゴの世界へ


名無しの城の正式名称は、香具山城という。


背後を傾斜のある山に守られ、本丸は二十メートルにも満たない小規模の城ではあるが、謎が多い。


文献によれば、築城当時、日向師宣ひなたもろのぶという小大名がこの、さぬき一帯を支配していた。肖像画が残されており、一件落着と、思いきや、


「この絵の人物は、日向師宣ではありません。ただの足軽」


専門家の指摘により、日向師宣とされた肖像画は、永遠に日の目を見ることはなくなった。


そもそも、日向師宣自体の存在を疑問視する声が近年とみに高まり、証拠が着々と集まる。危うし、師宣。


さて、この城、一見何の変哲もない城である。入口で観覧料の三百円を払い、中に入ると後光を背負ったお釈迦様の像がお出迎え。


階段を上り、二階の窓を透かして、勾配を見下ろせる。


天守閣に出ると、さぬき一帯を見張らす大パノラマが広がる。低い軒、町の間を血管のように広がる川、この地は実り多く、常に外敵の侵攻にあっていたことを想起させる。


気持ちを洗われ、城を後にする。

司馬遼太郎なら、この城をどう評するだろう。結果は何も書かなかった。

この城は見るべきところが、何もない。

城とは、そもそも住居である。人が呼吸し、垢を撒き散らすことで成り立つのである。


香具山城は小綺麗すぎた。石垣、建物は経年劣化があるものの、痛みは全くと言っていいほどない。


明治四年、作田虎之助という地元の有力者が補修を行った記録が残されている。そのひ孫の話によると、


「あの城は、いつの頃からかあそこにあったそうです。直した言うても、ツバメの巣とか、蜂の巣を撤去したんでしょうな。無人ですよ、いつも。それなのに、なんでか埃一つ落ちていたことがない。それに夜光るんですわ、屋根の部分がね。蛍が、いっぱい群がったみたいな。私は一度子供のころに、見たが、おっかないのなんのって」


不思議な光については、複数の目撃証言が上がっている。が、噂の域を出ることはなかった。


床の木目は遊びざかりの童子のような荒い呼吸を繰り返す。屏風や、家具、食器類はいつでも元の主を迎え入れる用意がある。


日向師宣を待っているのか、それとも……、真の主の帰りを今も待っているのかもしれない。



さぬき市の中心部は、景観を壊さなぬように電線は地下を通り、看板も高い位置には設置してはいけない決まりになっていた。


市の観光の目玉となっている香具山城の配慮というか、遠慮である。


「ところで八角殿。私、気づいてしまったのですが」


綾瀬イルカは控え目に、幼なじみの変化を指摘する。


「髪の色がなんか変です」


ほんの数日前まで八角光太郎の髪は、生え際まで漆黒であった。ところが今ではくすんだ金色へと変貌を遂げている。


「お前には関係ない。これは男の問題だ」


光太郎は、奥歯にものの挟まった言い方をした。


「ずるいです。私が同じようなことをすれば、八角殿は心配するでしょうに」


「くっ……、イルカ、すまん」


哀れむような視線に耐えきれなかったのか、光太郎は城下町の石畳を早足で駆け抜けていった。


イルカは遠ざかる背中に向かって大声で叫ぶ。


「不良! もう遊んであげませんからね」


イルカは嘆息して、歩き出した。光太郎の奇行には、何か理由があるに違いない。後で問いただすことにした。


路上では、外国人観光客が写真を撮っていた。地元民のイルカにとっては慣れた光景だ。


その先にある店舗を一瞬だけ横目でうかがう。


青果店だ。軒先には、旬の野菜が所狭しと並べてある。


(見ないようにしないと……)


野菜の中には、丸い形状のものが必ず含まれている。トマトや、ピーマンですら油断ならない。子供の頃、不注意で何度倒れたか知れない。


「リンゴオオ安いよ!」


店員のダミ声につい足を止めてしまった。ついで視線が吸い寄せられる。


毛むくじゃらの店員の手に握られていたのは、リンゴ。紅玉のような光を放つ果物だ。


イルカは、反射的にリンゴをひっ掴むと、迷わず歯を立てた。滴る果汁。酸味が強い、コクがある。美味しい、美味しいよ。丸いのに。


「リンゴを食べたね」


ニコっと、店主が笑った。頬に皺の後が残る。


「正解だ。美味いリンゴがあれば食べたくなる。本能でそれがわかっちゃうなんて、君の人生correct間違いなし」


イルカは、自分の分別のなさに驚きながらも、リンゴに夢中になりつつあった。


「手前勝手で申し訳ないのですが、リンゴを三つ頂けますか。家族にも食べさせたいのです」


「ありがとう。一個おまけしておくよ。ようこそ、リンゴの世界へ」


一万円札で支払うと、紙袋を受け取り、イルカは青果店を後にした。


しばらくすると、リンゴが気になってくる。丸いものがそばにあるだけで、蕁麻疹の兆候が出てきた。


妙案を思いついた。紙袋から、リンゴを取り出し、宙に放る。


あられもない春風で、スカートが翻る。イルカの膝は淡雪のように光彩を放っていた。


膝に目がけて落ちてきたリンゴの軸を正確に捉える。


とんとかとん。


また一個。

とんとかとん。


膝に当たったリンゴは、中心に引っ張られるようにしぼんだ。かと思えば、ゴム鞠のように伸縮を繰り返し、それがひと段落すると、重箱のような立方体が完成した。それらを袋に大事そうにしまう。


「これでよし」


意義ある変形を見届けてから意気揚々と、イルカは歩き出す。


その姿を、民家の瓦屋根の上で監視するものがいた。白兎の面に、唐草模様のマントを羽織る不審な人物だ。


「見つけた……、光る膝を持つ女。輝夜の血統……!」


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