贋作竹取物語〜輝夜の姫は直角を愛でる〜

濱野乱

∠1 輝夜の愛する直角


月は古来から信仰の対象とされることもあれば、忌み嫌われることもあった。どちらが本当の顔なのだろう。彼女だけが、その答えを知っている。


綾瀬イルカは、地面を睨んで信号待ちをしていた。


定規で計ったようにまっすぐに切りそろえられた前髪と、輪郭を隠すように内向きに巻いた姫カット。これから通うことになる高校の紺色のブレザーに袖を通してまだ日が浅い。


身長は百六十cm、体重四十kg前半。月光を思わせる白く透き通る肌に、二重まぶた。その整った容姿は、幼い頃から耳目を集めるのに事欠かなかった。


やがて、幼稚園児の列が信号待ちの一団に加わった。


イルカは自慢の姫カットを指でこねながら、隣にいた園児の一人に話しかける。


「どうしてここの信号は丸いのでしょう? 四角でも三角でもない。君は答えられる?」


園児は肩をすくめ、大人びた答えを返す。


「わがまま言っちゃだめだ。信号はお姉さん一人のものじゃないからだよ」


イルカはしゃがんで園児の丸い眼球を覗き込み、舌を突き出してぺろっと舐めた。


「ひぎいーっ!?」


火がついたように泣き出す子どもに対し、イルカは陶然と語りかける。


「円というだけで、それは罪に値するのです。大人になれば理解が及ぶでしょうね、玉のような男児君」


このような暴挙が見過ごされるはずもなく、イルカは豪腕保育士にラリアットではね飛ばされ、点字ブロックに手をついた。


「ちょっと、何してるんですか? 子どもが泣いているじゃありませんか。警察呼びますよ」


「無礼はおよしなさい。私は姫ですよ。輝夜の姫」


和歌をさえずるようなイルカとは対照的に、周りの反応は冷ややかだった。おぞましいものを見たという体で、素早く大移動を開始した。信号が青に変わったのだ。


一人取り残されたイルカは、再び俯いた。


「私は怖い。円滑なこの社会が怖い。円という概念を生み出した人間が怖い。いっそ、動物に生まれていたら……」


綾瀬イルカは、円形恐怖症である。丸いものに、過剰な嫌悪を抱いている。


原因は定かではないが、彼女の母親は、月を忌み嫌っていた。その胎教は、少なからずイルカに影響を及ぼしていると思われる。


母は、かつてイルカをこう評した。


「この娘は、輝夜の姫。月と地球を滅ぼす悪魔の子ぞ」


蔑称ともとれるその呼び名にもかかわらず、イルカは、輝夜の姫を自称してやめない。それが母からの唯一のギフトだからである。


「……、こんなところにいたのか」


信号を挟んで向かいの道路に、金髪に目つきの悪い少年が、息を切らせて立っている。その額に玉の汗が光る。


「ひいいー、こっちに来ないでええ!? 汗が飛んで来ますわー」


イルカは悲鳴を上げ、首を掻き毟る。


少年は、行き交う車の騒音に負けないほどの声を張る。


「落ち着け! イルカ」


ハンカチで汗を拭き取り、爽やかに笑う。


「汗は拭き取った。そっちへ行ってもいいか?」


イルカは頬を赤らめ、身をよじった。


「これはこれは八角殿。恥ずかしいところをお見せしてしまいました」


幼馴染の八角光太郎が青信号を渡る。彼もイルカと同じ高校に通うのだ。


「八角殿、そのボタン素敵ですね」


光太郎のブレザーのボタンは正方形だ。イルカに心理的負担をかけないように、特注したのである。


「お前の髪形も大概だな。美容院に行ったのか?」


「はい! 週一ペースです」


手慣れた様子でイルカを背負うと、光太郎は信号を渡った。


「目、つむってろ」


「はい」


イルカは素直に目を閉じ、振動に身を任せる。


「八角殿」


「なんだ」


粗野ではあるものの、彼の愛情の細やかなこと疑いようがない。すぐに返事を返した。


「八角殿は本当に八角殿ですか?」


そんな彼に対してイルカは残酷であった。無邪気に訊ねて来る。


光太郎は眉間に皺を寄せ、立ち止まった。そこはスクランブル交差点の真っ只中だった。


「お前はいつもそうだな。人の顔を見ようとしない。円い目玉が恐ろしいんだろ」


イルカと光太郎は、幼稚園からの幼なじみである。それでも二人の間には、常に見えない壁が立ちはだかっている。


イルカが、光太郎を光太郎として識別するのは、ボタンが他の人間と違うという些細な一点に過ぎないのではないか。恐らく、光太郎のジャケットを他人が着ても、イルカは、その人間を光太郎と認識するだろう。


「俺は思うんだ。お前がいつか人の目を見て話せないかなって。お前だって、本当は人と手を取り合って、輪に入りたいんじゃないのか」


信号が赤に変わり、エンジンの胎動が始まる。


イルカは両手に直角二等辺三角形の定規を携えていた。


輝夜の最も愛する直角。直角とは支配そのものである。何人も、その角度を無視できない。ぶつかれば憤死、避ければ死角。絶対の王者なのだ。


二人を轢き殺すような目をしたドライバーが乗る車両がアクセル全開、不協和音を噴出する。


イルカは、うっすら笑みを浮かべると、定規を扇のように振るった。


たちまち先頭車両が、彼女の真横を流れていった。さながら激流の渦中にいるのと同じだ様相だ。


「今日も本当は学校に行くのが怖かったくせに。輪の中に入るのが怖かったんだろ」


イルカは舞うが如く交通誘導を続けていた。通り過ぎるバスの窓に、目を丸くした子供が張り付いていた。


「直角の何が悪いんです?」


バス側面が、イルカな髪に触れそうなほど近くを通り過ぎていく。


「貴殿たちの描く円は、歪です。それならいっそ、私が直角という秩序をもたらしてさしあげます」


三角形が竹のようにしなる、車は我先にと勢いを増し、闘牛のように突っ込んでくる。


一直線に決められたレールを走るクルマたち。それも輝夜の姫に支配を受ければ、円滑にはなり立たなくなっていた。


脱力し、二等辺三角形を持つ手を下ろすイルカ。頬を紅潮させつぶやく。


「快・感」


光太郎の周囲では、大渋滞が起こっていた。飛び交う怒号とクラクション。光太郎はその時になってようやく、イルカの仕業だと気付く。


「な、何をした……」


「私たちを囲むように正方形を作りました。一辺が五十メートルの、正方形ですわ」


車の車種を問わず、平行する直線と垂線が一組ずつ、道路を間断なく埋めている。


交点は、言わずもがなの直角。差配を少しでも誤れば大事故に繋がりかねないにもかかわらず、イルカの指は指揮者のように流麗な調べを奏でていた。


これはもはやテロであった。円滑な社会への反逆であった。


「はー、疲れた。きゅーけー」


イルカは、光太郎の肩にちょこんと顎を載せた。ほのかな汗の匂いが混じった髪の香りに、光太郎はしばし、我を忘れた。


「八角殿、さっきはごめんなさい。意地悪をしてしまいました」


光太郎は、前を向いたまま固まる。イルカの声はもはや聞こえていなかった。


バールのようなものを持ったスキンヘッドの兄ちゃんが、車から飛び降りて来たのだ。殺られる。逃げねばと、脳が下知する。


「私は、八角殿を間違えたりしません。匂いも、声も、肩幅も、目をつむっていても、貴殿のことは何から何までわかります。だって八角殿は」


その時、地獄のラッパのようなクラクションが辺りに轟いた。


光太郎は、それを契機に走りだした。まるで在原業平のように、女を担いで逃げるのみ。


「さっき何て言ったんだ」


「ナイショです」


騒動から逃げおおせた二人は、お城の堀の周りを、並んで歩いた。


安土桃山時代に築城されたというその城は、名無しの城と呼ばれている。天守閣の屋根には、三日月の金細工が陽光を跳ね返すように光っていた。


大手門の前で、光太郎は立ち止まった。咳払いをする。


「イルカ、輪を乱すのはよくないことだ。罪深いことだ。もうやめてくれ」


少年の純粋な想いは、イルカに届かないかに思えた。輝夜の姫は頑固なのだ。昔から。


「八角殿と会えて少し張り切り過ぎてしまいました」


そう言って、イルカは八角の正方形ボタンを愛おしそうに撫でた。


「大切なボタン。友情の証のボタンですもの。忘れるものですか」


光太郎は、冷や汗を浮かべ表情を硬くした。


「そうだ。俺と、お前は友達だ」


「そうです、ずっと、ずっと、友達ですよね?」


光太郎は眉間に皺を刻む。彼が心から望んでいた答えは得られなかった。


桜舞う、春の始め。問わず語りの始まり始まり。


輝夜の死まで、残り四ヶ月。

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