238/過去編――一九七八年~言葉の力
過去編――一九七八年/
私のお父さんは不思議な人だった。
◇◇◇
新和が見つけた「S市」の時空の狭間にある空間。そこに建造したフランスのパリ天文台を模造した館、それが「紫の館」である。新和は両親と妻子との生活を営みながら、時折この館を訪れては、「世界」とは断絶した空間で一人の時間を持っていた。
目的は、「世界」の謎の究明である。とりわけ、「たましい」について。新和の関心は、かつて進展の意志に基づいて目指した時とはまた別の気持ちで、「宇宙の果て」に再び向かっていた。
じっと、館の最上階に設置された望遠鏡を覗き込む。
新和には、あの日松が浜の波打ち際で得た一つの着想があった。この時間軸がある「線」の「世界」の他に、より広大な「外」の「世界」が存在している。「線」の「世界」と「外」の「世界」はループ状に関係し合っている。
だとするならば、「外」の「世界」とは何処に存在しているのだ。新和は、その場所こそが「宇宙の果て」であるという仮説を立てていた。「たましい」も、おそらく、その場所と関係しているのだろう、と。
「ふむ」
今日も目立った成果は得られない。
仮に「宇宙の果て」が存在しているとして、一九七八年の現在、日本の最新技術で造られた望遠鏡でも、その断片すら捉えることはできないのだ。
(たとえば、「
とはいえ、研究が現在の新和の全てではない。
(少しずつ、進めていくことにしよう)
一旦、狭間の場所での研究の時間を終えることにする。現在の新和には、S市の「日常」で、待っていてくれる人達がいるからだ。
◇◇◇
お父さんは、私をまだ子供だと思っている。
◇◇◇
親の目から見た贔屓もあるだろうか。カンナは同年代の子供と比べても、利発な子供であった。
幼少期の新和のように存在変動者として特別な知性を持っているわけではない。それでも普通の人間の範疇で、良く本を読む子で、同年代の子供達と比べても賢いように思われた。小学校に通っている頃は、中学年の頃には校内の図書館にある本を全て読破していた。現在、よわい十三歳にして硬質な本を読んでは、大人でもハっとするような質問を新和に投げかけてくる。
「どうして、私は私で、フランツェ・プレシェーレンではないの?」
「それはね……」
カンナから受ける質問は、アイデンティティについて。つまり彼女の「存在」にまつわる質問が多いことに新和は気づいていた。この一九六五年から一九七八年という時代を、日本人とアメリカ人のハーフとして、日本で生きるということに、彼女が葛藤を重ねたことも、分かっているつもりだ。
彼女の質問に対して、ある種の「正しい」見解を新和が返しても、カンナはそう簡単には納得しないことが多かった。
首を左右に振って、母親譲りの金色の髪を揺らすと、頬を膨らませて、ギロっと新和の目を真正面から
そんなカンナの親への、あるいは「正論」と呼ばれるものへの反抗心は、新和にとってはとても好ましく、また可愛いものに感じられた。グーをつくって、彼女なりに反論を構築して、殴りかからんという勢いで親和に挑んでくる様子はとてもキュートなのだ。
またカンナは良く食べる子でもあった。新和に全力で言葉の炎を浴びせ、その全てをいなされる頃には、思考することでエネルギーを消費したのか、使った分を補うように、むしゃむしゃと食事を十分に食べてくれた。子が好き嫌いなく、丁寧に食べ物を咀嚼してくれるということが、親としては嬉しいという感情も知った。
娘と過ごす「日常」は、新和にとって大事なものであった。
だが一方で、新和はかつて「特別」を志向した人間であるからこそ、この「日常」の成立が脅かされ始めていることに、日本国で暮らす者としては、いち早く気づき始めてもいた。
◇◇◇
お父さんとお母さんが、難しい話をしている。
◇◇◇
「責任って、何だと思う」
新和は問いかけた。
薄暗い部屋の中で、ブラウン管が明滅している。テレビの向こう側の報道者は、とある地域の紛争のニュースを伝えている。
「自分の本徒を、まっとうすることかな」
アンナが答えた。この十三年間で、アンナは随分と、難しい日本語も覚えた。
戦後間もなくの幼少期は、ラジオと闇市で手に入る本から得られる情報から、世界情勢への理解を組み立てるということをやっていた新和である。テレビに新聞、加えて胎動し始めている電子的な通信手段。よりメディアが発達した現在では、それらの情報源から世界の動きを深部まで理解することが、新和にはさらに容易になっていた。
「昔、一緒にギリシャで見た花火を覚えてるかい?」
「もちろん。とても、綺麗だった」
「なくなってしまったら。途絶えてしまったら、寂しいよなぁ」
「うん。そうだね。寂しいね」
S市での「日常」に幸せを感じながら、たとえば東南アジアの小国で起きていた大国同士の代理戦争に、意識を向け続けていた。
そして、新和が幸福でいる今も、世界は争いに満ちている。
二つ、目を背けられないことがあった。
一つ。世界中の紛争・戦争について。表面的な資源獲得競争のより深淵には、オントロジカの獲得競争がある。いくつかの悲劇の裏側に、存在変動者の暗躍が親和には見て取れてしまうのだ。
特に。
あの黄金の髪の、獅子を連想させる男。一九六三年に一度欧州の南の砂漠で交戦した男。
二つ。あの男の「正しく」「強い」様式に世界の全てが覆われてしまうとしたら。その前に、あの同じ年にアンナと見て回ったこの世界を彩る小さな様式たちを前もって保存しておく必要があるように思われた。
地球全てのオントロジカが奪われてしまう前に、片隅の様式にまで宿るオントロジカを回収して回れる人間となると、現行の世界では限られている。あるいは、ただ一人なのかもしれない。新和だ。
この世界に生まれて、他ならぬ自分にしかできないことがある。その点に、目をそらすことができない真実性を感じていた。
ありのまま、新和が考え続けてきたことを話すと、アンナは。
「そうだね」
ここにいるアンナは、新和とカンナとずっと穏やかな「日常」を過ごせたならと。そんな気持ちがまず先んじたのだけれど。同時に、自分のもっと深いところに、別な強い気持ちがあることにもアンナは気づいていた。実際に言葉にしたのは、深いところにある方の気持ちだ。
「自分の幸せを手放すことになるとしても、大事な誰かのために、あるいは大事な世界のために、自分がその『使命』を全うする者として名乗りをあげなくてはならない。どうしてだろう。その気持ちは、私も知っているの」
それは一度だけ繋がることができた。過去の世界の橋姫という女の子と。未来の世界のリコという女の子と。その二人と共有した気持ちでもある。
「いきなよ」
結局突き詰めていくと、自分の心が、「どうしてそう思うのか?」その理由・源泉なんて、よく分からない。だとするならば、今の自分の気持ちというのは、実は種明かしをしてみたら、遠い過去の誰かの気持ちだったり、遥か先の未来の誰かの気持ちだったりする、そんなことがあってもいい。自分が、自分だけじゃなくてもイイ。特に一九六三年に一度だけその身に
橋姫とリコは、アンナ自身でもあったから。彼女たちの気持ちを、なかったことにはしたくない。どんどん自分をアピールして、自分に都合が悪い人や物は切り捨てていった者から栄えていくなんて、最近の世界では、とても分が悪い気持ちだったけれど。
「私たちは夫婦だから」
新和はうなずいた。
「この世界で大事な二つのことを、二人で分担しよう」
アンナは少し涙ぐんでしまったけれど。でも温かく言葉をこぼした。
「私は『日常』を。家族を。カンナを守るために、ここにいるから」
親和は胸の奥に変わらずにいてくれたその存在に呼びかけるように。
「僕は『使命』を。世界を。他者を守るために、あちらへ行く」
新和は十五年ぶりに、その言葉を口にした。
「『
あの頃と変わらない紫色の微光が、新和とアンナの間に現れる。小さな光はやがて球体の立体魔法陣へと発展する。
中から浮かび上がるように姿を見せたのは、サラファンを纏った、紫の髪の少女である。
「久しぶりだな。ヴォーちゃん」
ヴォーちゃんは、淡く瞳に涙を浮かべていた。彼女もまた、橋姫と、リコと、アンナと「たましい」を共にする存在である。
「新和は、バカです。私は、ずっと新和とアンナの幸せな『日常』が続いてもイイって思っていたのに。私の出番なんて、もうない方が良いって。そう思っていたのに」
「ありがとう。その気持ちだけで嬉しいよ。でも、僕がこの
ヴォーちゃんは、瞳に浮かんでいた涙を人差し指でぬぐって。
「どこまでも。あなたの命の終わりが来るその時まで、共に参ります」
「深刻に、なりすぎないようにしよう。今度は時々は、S市にも帰ってくるつもりなんだ」
一九五八年に旅立った時と比べると、一つの道の頂点のみを渇望するような瞳のギラつきを今の新和は手放していて、ほどよい余裕が伺えた。
「自分の『使命』を尊ぶあまり、世界の方も己の『使命』にそって変わってゆくべきだという気持ちが強くなり過ぎると、今度はたちまち僕自身がヴァルケニオンと同じように、自分に間違いがないと信じ始めてしまうからね。バランスが大事だと思ってる。『使命』にも、『日常』の風通しを行うこと。なんだか、中途半端な気もするけれどね」
ヴォーちゃんには、新和が身につけたその軽やかさは、同時にある種の頼もしさでもあると思われた。
◇◇◇
お父さんとお母さんの話が、私には分からない。
◇◇◇
再びの旅立ちの日。
相変わらず新和の言葉をそのままは納得しない娘のカンナの様子が、愛しく感じられた。これからは、彼女が疲れ果てるまで相手をしてあげるということが、難しくなってしまう。
「どうして? お父さんがそんな遠くの国の人達のことまで、守らないといけないの?」
この年の六月にS市があるM県沖であった大きな地震で、カンナは不安を感じてもいた。父はずっと、私とお母さんを守ってくれるのではないのか、と。
その年齢の時にしか感じられない感情を、そのまま受け止めてあげることはもちろん大事なのだけれど、新和は、いつか娘が大きくなった時に、分かる類のことを伝えていくということ。そんなことも大事だと思った。
だから、カンナのその問いには直接答えないで。
「カンナ、本を読みなさい。お前は『言葉』の力を持っている。それは、お前の才能だ。この世界全てを一冊の本が覆えばいい、あるいは一つの言葉が覆えばいい、そんな力がこの地までやってきてしまった時に。立ち向かえるように。自分の大事な世界を守れるように」
そんな言葉を残した。
再び異国の地へと歩み始めた父の背中が、その後のカンナの人生でも印象に残り続けた。「どうして?」という納得のいかなさと共に。
今度は進展を目指すためではなくて、進展の力の猛威の前に、淘汰される側の存在を、守るために。新和は進み始める。振り返らずに、片手だけあげて、「またね」とカンナに伝えた。
その掲げた左手首に、黒い昇竜のアザが浮かび始めていたことに、気づいていた者はまだいなかった。
後に、娘のカレンや息子のジョーにまで残響する、宮澤カンナという女の心の傷にまつわる物語。
◇◇◇
お父さんは、私とお母さんよりも大事なもののために、去って行ってしまったんだ。
/過去編――一九七八年
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