237/ブルーウォーター

 個人経営の翻訳業ともなると、夜型で仕事していることも多い。


 ジョーの母・宮澤カンナが「その時」を迎えたのは、深夜、ちょうどこの夏に取り掛かっていた文芸作品の最後の一文を訳し終えた時だった。


 「世界」に、あの人の記憶が再び蘇っている。


 カンナが仕事部屋を出て廊下を居間に向かって歩いていくと、扉の向こうから灯りが漏れている。


 扉を開けると、夫がリビングとキッチンスペースとの境界に置かれたテーブルにカンナのためにホットコーヒーを、自分のために白湯さゆを用意して待っていた。和風の湯呑と、洋風のコーヒーカップがコントラストを成している。


 あまりにもタイミングがいい。カンナは、夫にも「その時」が訪れたのだと直覚した。彼はジョーの父であり、あの人の義理の息子でもある。不思議ではない。


「お義父さんという『存在』にかかっていた、不思議な力が解けたんだ」


 椅子に腰を下ろしてコーヒーに口をつけると、夫が語り始めた。分かってる。昨夕。ここ数日家に帰って来なかったジョーに、カレンが鍵を渡したと言っていた。ジョーが「紫の館」の扉を開けたのだろう。


「ジョーにも不思議な力が宿っていることに気づいた時、君は恐れたね」

「お父さんは私とお母さんを置いていったんだもの」

「君の恐れの原因は、たぶん、それとは少し違うよ」


 目の前にいるのは優しさに関して、底なしの垂直性のようなものを持っている人間だ。上限にも下限にもいっさいの制限がなく、土台を持たない深みの中で、全ての人間・事象を温かく捉えていく。そういうところに惹かれて夫に選んだ。そんな、自分に欠けているあり方を自分の代わりに体現し続けてくれている人に、思わず言い返す。


「お父さんだけじゃない。お母さんのような立場の人を、誰が見てるの?」


 母を。アンナを。社会セカイから零れ落ちた人間を、経済的に支え続けてきた自負がカンナにはあった。それは多くの他人が想像する以上に、大変なことでもあった。


「君の恐れの原因は、結局、お父さんが帰ってこなかったことさ。温かかった日常が、急に壊れてしまう。今でも、君はそれを恐れているんだ」


 分かってる。どんなに丁寧に積み重ねても、ある日暴力的な何かが襲ってきて、全てを奪っていく。それが、怖い。


「ジョーは戻ってくる気がするな」


 夫は白湯を一口すすると。


「ジョーは弱い人間の気持ちを知っている子だ。自分自身もまた弱い存在であることを知っている子だ。今では一笑にフされるようになってしまった『繋がりを求める気持ち』を、ジョーはバカにしない子だ」

「まずは、自分を大事にしなくっちゃ!」


 思わず大きい声を出してしまう。一方で、夫はカンナのその返答に満足したように。


「その通り。僕は、バランスの問題だと思ってる。お義父さんも。君も。ジョーも。カンナ、お守りを、届けに行った方がいい。僕の分は、もう渡してしまったんだ」


 夫は、父が最後に使った「奇跡」の影響下にある「世界」でも、どこかで認識し続けていたらしい。父の事。カンナの事。ジョーの事。


「いつかこんな日が来る時のために、君は『呪文』の英訳を手掛けていたのだから」


 そうだ。日本語の呪文は昨夕カレンが渡したらしい。でも、一つだけの「輪」ではまだ弱い。相補い合うもう一つの「輪」を渡して、二つの「輪」が補い合う「和」のお守りに至らなければ、これからその身に降りかかる破綻的な出来事を前に、挫けてしまうかもしれない。


(ジョー、どうしても、行くというのなら)


 カンナは外出の準備をするために、立ち上がった。


「アリカさんとの、約束でもあったから」


 友人だった。アスミの母の名前を告げる。「奇跡」が解かれたために、彼女のことも鮮明に思い出せるようになっている。


 夫――ジョーの父は、静かに目を瞑って湯呑を置くと、カンナ――ジョーの母を送り出す言葉をかけてくれた。


「ま、愛は宝石ジュエルより、全てを輝かせる、らしいよ?」

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