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230/過去編――一九六二年~ドナウに架かる橋の上でアメリカ人の少女に和製のナイフで斬りかかられた件

 過去編――一九六二年/


「きっと、また何か悪いことが起こる気がするの」


 小さな女の子は、心から笑った後に、フイに顔を曇らせた。


 スヴャトは優しく、女の子の頭に手を乗せた。


「大丈夫、だよ。再びそんな気持ちが湧いて来たら、恐れよりも、穏やかさを自覚的に選ぶとイイ。それに」


 ある搾取から、弱い立場の人達を解放した。ミッションは完遂されて、少なくとも、あと五年はこの子も大丈夫だと思う。それでも、物心がついた時から希望を見せられては取り上げられて、やがて支配者に従順であることだけを求められた女の子は、急にその心までは自由になれないのだ。


「また困ったことがあったら、僕を呼ぶとイイ」

「スヴャトは、王子様なの?」

「フッフ。僕はね、通りすがりのニンジャさ。それじゃあ、これから先の君たちの幸せを願い続けているよ」


 スヴャトはローブを翻して、歩き始めた。


 ここは一九六二年のオーストリア。ドナウ川の河川敷を、西へ向かって歩き始める。


「ヴォーちゃん」


 スヴャトが虚空に向かって言葉を発すると、スヴャトと寄り添うように小さな紫色の球体が現れた。


「今回のミッションは戦闘が少なくて済んで良かったよ」


 スヴャトが話しかけると、まず手が、そして頭と首、やがて胸、胴体までがぬらりと球体からせり出してきた。赤い刺繍ししゅうが施されたサラファンが微風になびく。


 「ヴォーちゃん」と呼ばれているのは、あの日、シル・ダリヤの河岸で初めて出会った、「構築物コンストラクテッド・歴史図書館ヒストリア」の物知りな紫の髪の少女である。一年間旅を共にしているうちに、ニックネームで呼ぶような関係性が彼女とは出来上がっていた。


「スヴャトの戦う力も、地球の平均から見たら相当『優れた』部類に入るのですけどね。ただ、あなたは頭を使って、色々と絡まっているものを紐解いたり、歪な状態に陥っている様々を調整したりすることの方が、より得意なようです」


 今回のミッションに関して言えば、この国の富が非常に余っている箇所から、貧窮している場所へと豊かさが継続的に流れていくように、「経路」を作るということをやった。確かに、殴り合ったりするよりは、こういう仕事の方が自分に向いている気がする。


「ヴォーちゃん、見てごらん」


 穏やかに流れる河の深層から、薄いピンクの光の粒子が立ち昇ってくる。


「今度は、薄桃色か」

「この地のオントロジカが応えてくれています。今回もあなたが行った徳行は、歓迎されたようです」


 橋と泉の国。チョコレートケーキも美味しかったりするけれど。そんな場所が自分を受け入れてくれたことが嬉しい。


「今回も、少しだけ分けてもらおう」

「はい」


 ヴォーちゃんが、か弱い人を抱きとめようとするように両腕を開くと、幾ばくかの光が、その胸に流れ込んでくる。


 いつになるかは分からないけれど、「宇宙の果て」に行けるようになるまで、こうやって旅路の過程でオントロジカを分けて貰うことをやっていこうと思っている。


「さて」


 間もなくドナウには古くから架かっている小さな橋に辿り着こうという頃、スヴャトの表情が引き締まった。


「つけられてるな」

「そのようです」

「能力を使わないで済む相手だったらイイのだけど。念のためヴォーちゃんも待機していてくれ」


 ヴォーちゃんは紫の球体に一旦引っ込むと、中から眼差しだけを外の世界に向けるという体勢を取った。


 橋の途中まで進んだスヴャトは、ゆっくりと振り返る。


「御嬢さん、僕に何の用だい?」


 向こうも、最早姿を隠すつもりはないらしい。スヴャトをつけてきたのは、十四、五歳といった所の少女だった。


 紺色のショートパンツに二重のベルトが巻かれている。のぞいている健康的な脚線に、左右非対称のニ―ソックス。旅人が履く丈夫な茶系のブーツ。ジャケットの下に、「USA」と印字された自己主張が強いシャツを着ていて、首にはマフラーをなびかせている。自然な黄金色の髪はセミロングで、額にゴーグルを身に付けている。パッチリとした瞳は惹きこまれそうな蒼穹そうきゅうだ。


「見つけた」


 金髪の少女は、腰の二重ベルトに備え付けてあったホルダーから銀色に輝くナイフを抜き放つと、先端をスヴャトに向ける。


 僅かな観察からスヴャトが得た情報は、英語の発音から少女はアメリカ人であろう点。加えて、握っているナイフは。


(日本製だ)


 思いがけず故国の鋼と、刀匠の技巧に再会する運びになった。少女がかざしたナイフは冷たくも美しく、蠱惑こわく的な霊気のようなものを放っている。


 少女は、十字を切るように、ナイフで空を切った。


「返して、貰うから」


 その言葉が始まりの合図だった。少女が駆け足で向かってくる。


 勢いのまま、右袈裟斬りでこちらを切り裂こうとする少女を、冷静に分析したスヴャトは。


(手練れではある)


 少女の右手首に自分の右手首を合わせる。


(だが、我流だな。隙も多い)


 そのまま空手の「回し受け」の要領で少女の右手を絡め取ると、相手の突進してきた勢いを利用して、投げを放った。


 少女は見事に宙を一回転すると、石橋の上に背中から叩きつけられた。


「うぐぅ」


 スヴャトは交差した際に取り上げたナイフを観察しながら問うた。


「何者だ」


 口ぶりから相手はスヴャトのことを知っているようなのだが、こちらに心当たりがなかったのだ。


 少女はよろよろと立ち上がると、先ほどまでの勢いの良さが、ちょっとなくなった感じで。


「大事なものを、奪っておいて」

「人違いじゃないのか? 悪いが、アメリカ人に知り合いはいないのだが。あ、ソビエト人の僕が憎い、とか?」


 一九六二年という時代。アメリカとソビエト連邦はいわゆる「冷戦」状態にあった。


「国籍は関係ないでしょ!」

「う、うむ。それは、そうだ」


 その言い分からすると、スヴャト個人と少女個人の問題であるらしい。


「もう一度聞く、何者だ?」


 先ほどの攻防で、ヴォーちゃんいわく地球の平均よりも相当『優れた』部類に入るらしいスヴャトの戦闘能力が自分より上回っていることを悟ったのだろうか。少女の方からも、戦うよりも会話をしようという方向に、態度に変化が見られた。ファイティングポーズの代わりに、人差し指でビシっとスヴャトを指差して、少女は名乗った。


「私は、アンナ・シュタットフェルト。あなた、私の『たましい』を勝手に使っているでしょ!?」



  /過去編――一九六二年

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