229/結婚にまつわる衒学

 ひい祖父から伝えられた「座標」に近づくに連れて、ジョーの左手首の昇竜のアザの痛みが増してきた。


(構わない)


 左手首には痛みがあり。右手首には姉から受け取ったチェーンが巻きつけてあり。胸には強い覚悟があった。


 駅の東口からしばらく歩くと、やがて先日も訪れたコンビニエンスストアが見えてきた。この深夜でも、煌々と電気が灯っている。伝えられた住所は、やはりこの辺りだ。


(思い出せ)


 自分は子供の頃どうやって、「紫の館」に出入りしていたのだったか。


 周囲を観察する中、フと気になったのは、コンビニエンスストアと隣のビルにある僅かな空間だ。路地というにはちょっと広く、空き地というにはちょっと狭い、そんなスペース。そこには、古びたコンテナが鎮座していた。


(どこかの家の物置?)


 その時、背後に気配が現れた。ずっとそこにいた存在が、ヴェールを外したために、こちら側でも認識することができるようになった感じ。


 振り返ると。


 文明の光に照らされて、翡翠ひすいの瞳の少女が立っていた。絹の黒髪を夜風になびかせている。幽性の存在が、急にこの現実世界に肉付けされるようなこの感覚は、経験済みだった。


「理華」


 祝韻しゅくいん旋律せんりつの代表者。聖女・中谷理華は清らかな声で。


「運命の待ち合わせランデブー場所・ポイントへ、ようこそ」

「X。俺の祖父じいちゃんにあたる人が生きた痕跡が、この世界から消えてしまっていることに、あんたも一枚噛んでいるのか?」

「そのことを説明する前に、一つだけイイかい?」


 ジョーは頷いた。


「私が生まれる頃には、結婚してずっと一緒に生きていこうみたいな価値観は、半ば崩壊していた。個人という類まれなほど貴重な存在の願望に基づいて、力が、知力が、金が、叶うなら、より優れた異性へ、またその次へと代替していけばイイって。女性の権利がうたわれる背後で、本当はみんなどこか消耗品なんだって。女の方はそのことに気づいている、現実に適合している私ってやつを他人との比較で持ち上げて自我を保ちながら。男の方はそもそも、生物というものがより広範囲に遺伝子を拡散したい本能を持っているのだから、そっちの方が真実だって、そんなことを考えられる古きに囚われない先進的な自分ってやつに酔ったりして。結局、結婚なんて割の合わないことだって、どこかでもう、そんな感じ」


 理華は、自分が背負っている組織とか、肩書きのことは少し横に置いて、とても個人的な事柄を述べているようで。普段は感じられる彼女の聖性のようなものが、今は消えていた。


「でもね。だからこそ、と私は思うんだ。この世界の全てが、消費と代替と動物的本能に還元されてゆく流れの中で、『わたし』と『あなた』は1=1なんだっていう、『理性』に基づいた『契約』を結ぶということ。1=3でもないし、1=5でもない、やはり1=1なんだっていう『普遍』に基づいた約束を一人の人間と一人の人間が共有するということは、尊いことなんじゃないかって」


 理華はそっとジョーの右手首を指差した。


「本当は、お祖父さん本人の許可がなければダメなんだけどね。もう、故人から許可は貰えない。でも、君がその無彩限の鍵を持っているということは、彼の奥さんが許可を出したってことだと思うんだ。あくまで私の判断になるけれど、その許可は有効だと思う。『結婚』してたって、そういうことだと思うから」


 ジョーは無彩限のストラップの先の鍵を握りしめると。


「あんたの話は、相変わらずちょっと難しい。でも、そうだな。性欲は俺にもあるよ。ただ、あんまり余裕がなかったのか、付き合った女の数を競うような周囲の流れには乗ってこれなかった感じだ。なんか、本当そういうのどうでもイイっていうか。こういう状況だからっていうのもあるけれど、今はアスミのことを考えるので頭がいっぱいだ」


 ジョーが返答すると、理華は目を瞑り、一度満足そうに頷いた。


 やがて開かれた瞳は、正面からジョーを見据えて。

 

 再び彼女特有の聖女の霊性のようなものを纏い直すと、理華は、歴史と忘却と。そして「S市」にまつわる真実の告解を始めた。



「君のお祖父さんを世界から忘却せしめた大本の本質能力エッセンテティア――スヴャトポルクにかけられた『破認はにん』を。彼の妻・宮澤アンナの承認に基づき、今から私が解く」

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