第5話 拘束と束縛
オレは新婚らしい。
過酷な潜入ミッションを終えて家へ帰ると、美しい新妻が出迎えてくれた。
妻は多田野乙女だった。いや、今や五階堂乙女か。ちょっと大人っぽくなっている。
美しい妻が言う。
「お帰りなさい。うふふ。お風呂にする? 食事にする? それとも……」
オレが言う。
「君かい?」
妻は首を振って、「これよ」と言って俺に頭からバケツの水をかけた。水浸しになって、コンセントに感電して全身が痺れた。ビクンとして体が跳ねた。
「うわっぷ」
実際に水がかけられた。が、バケツじゃなくてコップだったので、さほど濡れてはいない。前髪から水がしたたり落ちる。動こうと思ったが、両手と両足、あとたぶん首も何かに固定されている。おそらくが椅子かなにかだ。食い込んでいる感触から、止めているのはプラスチックの結束バンドだろう。力が入りにくいように位置を決めているらしく、引きちぎるのは無理なようだ。
椅子ごと移動しようと思ったが、ビクともしない。椅子を床に固定してあるのかもしれない。意識はハッキリとしているが、全身がだるい。
それにしても、いきなり撃ってきてさらにこの手際。ただものじゃないぞ、あの女。しかし、視界に姿が見えない。どこにいるんだ。部屋は薄暗くて、どうなっているかよくわからない。
「あんた誰? なんなの?
頭の後ろからいきなり声がした。
「あ、ああ」
後ろにいやがったのか。首はあまり動かせない。相手の様子が全く分からないのでは、完全に
「えーと、
「人に名を尋ねるときは、まず自分から名乗れ」
何かで頭をぺちぺち叩かれた。くそう。めんどくせえ女だ。
「オレは多田野乙女さんの
「オツメちゃんの? 何も聞いてないけど」
「依頼を受けたのは今日ですから」
ふうん、と言って、千口平は背後にあるドアから出て行った。玄関ではマスクをしていたので目しか見えなかったが、この女が千口平で間違いないはずだ。目視レベルだが、身長とスリーサイズの情報と矛盾がない。最初に母親と名乗った声と同一なのも確実なので、つまりこいつは俺をハメたんだ。やられた。
こんな、首まで結束バンドで止めるエゲつない拘束テクニックは、こいつも
「あきらめた?」
また頭上から声がした。俺が抜け出そうと試行錯誤しているのを見ていたのか。くそ。
「オレは味方なんですって」
「封筒に
視界の端の方に、さっき仕込んだばかりの
「まったく信用ならないなあ君は」
華麗に暗躍して周囲をこっそりコントロールしたかったのだが、悔しいが負けを認めるしかない。転がり込んできた状況を幸運と思って不用意に踏み込んでしまったオレのミスだ。
「すみません調子こいてました」
オレは全面降伏を決意した。正直打つ手がない。千口平に殺意があれば、オレはエアキャップを潰すより簡単に
「おや? 素直だね」
「どうしたら勘弁してもらえますか」
「そうだなあ、頼みを一つ聞いてもらおうかな」
「頼み?」
「ヘル部は人の頼みを聞くのが商売なんだろ? 五階堂クン」
「ぐぅ」
オレのこと知ってたのかよこのクソブス!!
その後、このドS女に散々もてあそばれた後、ついにオレは殺風景な拘束部屋から解放されて、千口平家のリビングに通された。後半ちょっと楽しんでしまったので、オレはM属性があるのかもしれない。
リビングのソファに座ると、千口平にコーヒーを出された。いい予感は全くしないが、いまさら抵抗してもどうにもならない。コーヒーは美味かった。つい飲み干してしまうほどに。
部屋を見渡してみるとあまり生活感がない。千口平が
オレの所属している組織についてはあまり詳しく言えないが、というよりあまり多くを知らされていないが、孤月学園の生徒の何人かはその組織に属していて、たとえば高校生役で潜入するミッションで借り出されたりだとか、生命の危険の比較的少ない作戦に経験を積ませるために参加させられたりだとか、卒業後すぐに戦力になれるようにするためのカリキュラムが盛り込まれている。作戦に参加する場合は、出席扱いになるし、単位も取れる。寮もマンションの個室が与えられるので待遇は悪くない。学費も免除だ。しかもなんと給料が出る。
「なんでオレのこと知ってたんですか?」
「ナックルに聞いてたから」
「夏来部長と知り合いなんですか?」
「知り合いっていうか
ぐぅ。最悪じゃねえか。やってられん。つまりオレはうさぎ狩りのつもりで虎の穴に入り込んで、まんまと頭から齧られているというわけだ。そういえば部室で部長が千口平を知ってるようなことを言ってたよなあ。そこで気づくべきだった。悔しい。
「まあまあ、君もよくやったよ。まさか今日の今日でいきなりウチまで来るとはなかなか優秀じゃないか。てっきり真古賀部長の雇った
「味方だってわかってからもだいぶ遊んでませんでしたか」
「許せ。あたしだって少年を拘束して遊びたい年頃なんだよ」
まったく。なんて人だ。ちょっと美人だからいいようなものの、ヒドい目にあった。
「ちょっとってのが聞き捨てならないな。校内でもイケてる方だと思ってんだけど」
え? 読心術? エスパー?
「いやいや。君さっきのコーヒーが効いてきたみたいでずっと声に出てるよ」
マジカヨ! いつから?
「部屋を見渡してみたってあたりから」
最初からじゃねえか! 何を混ぜたんだ。
「いやあ、
効き過ぎだろ。
「味の調整には自信があるのだ。コーヒーそっくりだったろ。ここまで効くなら制式採用も夢じゃないな」
あのコーヒーが丸ごと100%の
「おや? オツメちゃんの
ええ、そうです。その〈絶対味覚〉ってなんなんすか。
「一度食べたものの味を完全に再現できる能力といえばいいのかな」
ラーメン屋がライバル店のスープを真似してみたいな?
「うーん。それはちょっと違うかな。素材に何を使ってるかとかはわからないよ」
じゃあ、中華だしと牛乳でトンコツスープを再現とか。
「ああ、それに近い。全然違うもので同じ味になるようにするってヤツね」
なるほど。例の課題のプリンを食べたことあるって本当ですか?
「ああ、真古賀の〈究極至高のプリン〉だろ。一度だけどあるよ」
作れますか?
「まあ、一応ね」
一応って。
「条件があるってことだよ。言うほど簡単じゃないんだ」
そうですか。
「あたしが現物を食べ比べながら、自分で作るのであれば丸1日あればできる。調理時間を考えるとそのぐらいかかってしまう」
今回は無理ですよね。まず現物のプリンがない。
「記憶を頼りに作るなら、最低でも3日は欲しい。うまく味を寄せられなければその倍かかるかもしれない」
そして、調理するのは多田野だ。
「誰でも作れるレベルのレシピに落とし込むのであれば、どんなに急いでも一週間はかかるよ。それも調理者が繊細な調理ができて、手順と分量を厳密に計量するのが条件だ。そして量が多ければ多いほど誤差は出やすい」
そして、多田野は味見もできないと……。
「いや、それは関係ない」
え?
「むしろ味見なんかしない方がいい。機械のごとく正確な調理をしてくれればいい。だから多田野を指名したんだ。多田野の調理は見たか?」
手際はよかったですね。あのモンゴルトースト。
「モンゴルトーストとは上手いことを言う」
笑顔はちょっと可愛いんだよなあこの人。
「だからその『ちょっと』はやめろ」
すいません。
「プリンに関しては、調理は多田野がいれば大丈夫だろう。そして、レシピもすでにある」
あるんかーい。
「残る問題は一つだけだ」
なんですか。
「調理者以外に味見をする人間が必要だ」
味見はいらないって言ったじゃないですか。
「このレシピは
今、毒味って言いましたよね。
「そういえば君はわたしの頼みを聞く立場にあったな」
毒味って言いましたよね?
「多田野に協力してやってくれ。あと、さっき拘束したときに写メ撮ってあるから」
汚ねえぞ。
「それは
くそう。今日をやり直したい……。
「んふふ。まあ和洋研のことは任せたよ。あたしは週末から
ああ、それで入院したことにしてたんですね。わかりましたよ。勝負には負けて、千口平さんを和洋研の部長にすればいいんですよね。
「なんだそれは。勝負には勝て。本多を粉砕しろ。ただし部長は本多でいい。あたしは忙しくて部長なんか無理だ」
多田野からの依頼と真逆じゃないか。なんなんだ。
「頼んだぞ」
どこからどこまでが「一つ頼みがある」の「一つ」なのかわかりません先輩。
「全部で一つだよ」
鬼!
「あと」
まだあるんですか?
「自白剤が効いているうちにもう一つ聞いておこうかな」
なんなんすかもう。
「〈オブリビオン〉ってなんだい? 知ってるんだろ?」
オレは千口平芽以に包み隠さずオブリビオンの説明をし、現物を取り出して、そして発動させた。
オブリビオンの第十一番目の被験者になった彼女の中で、破壊された記憶がどんな風に再構築されたのかはわからないが、いつものようにオレは嫌われ者になって、ビンタされて、分厚いレシピを顔に叩き付けられて、睨まれながら部屋を追い出された。
つづく
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