第二章 楽しい時間

第7話 最初の連絡という試練



 そんなに難しいことだとは思っていなかった。

 



「最初の連絡はケンちゃんからね」という言葉がとても自然だったから。




 僕はもう1時間近くも悩み続けていた。

 約六畳の部屋のベッドの真ん中に携帯電話を置いて。


 いや、最初はさらさらっと書けたのだ。その内容はこうだった。


「本日はお時間いただきましてありがとうございました。とても勉強になりました。次回の日程をまた改めて調整させていただきたいと思います」


 書いた後に読んで、「取引先か!」と一人で僕は勢いよく突っ込んでいた。「改まった文章書くのって取引先くらいだしなあ」なんてつぶやきながらも、その時の僕は実はまだ余裕があった。ちょっと書き直せばいいくらいに思っていたからだ。


 しかし、その文面を書き直し始めた辺りから、だんだん雲行きが怪しくなってきた。


「今日は急なお誘いにも係らず、お時間いただいてありがとうございました。敬語じゃなく、ため口の方がイイって言うから、ここからはため口にするね。と言っても、あの時ため口で話をしていたけど、文章にするととても照れますね。本当にため口で話していいのかなって思います。思えばあの時声を掛けるのは戸惑ったけれど声を掛けて本当に良かったです。そして気さくに話をしてくれた美緒さんに感謝しています。今日の出会いは僕にとって運命の出会いのようなものでした。付き合ってくれなくても、美緒さんとお話をできて、とても嬉しかったです・・・」


と書いて、文字数がいきなり200文字を超えてしまったことに気付いてかなり焦った。


 インターネットで検索すると、「最初のメッセージの文字数は少ない方がよい。いくら多くても50文字まで」と書かれていたのを見つけた。あまり長文だと見ていて辛かったりするらしい。正直重いし、キショいらしい。僕はまさにそんなメッセージを書こうとしていた。インターネットがあってよかった。


 でも、50文字でしめくくるなんてどうしたらいいんだろうか。最低限の次の約束の日取りを決める文だけで、20文字くらいはかかりそうな気がする。インターネットで探しても正解はどこにもなかった。きっとあったとしてもそれを丸写ししちゃだめなんだろうけど、それでも正解がどこかにあればいいのに。


 そうやって調べていた途中で、僕は「え?」と思い返して、もう一度最初の取引先向けのような文面を思い出した。そして思い出した文面の文字数を数えて僕は驚愕した。あの、無味乾燥な文面だって50文字で収まっていないことに気づいたのだ。


 一体全体どうやったら50文字なんて短文で僕の言いたいことの全てが伝わるのだろうか?


 詩か?詩にして文字数よりも大きな世界を表現したらいいのか?


 本気でそう思ったが、詩みたいな表現は最もキショいようだった。またインターネットに救われた。


 正解はないけど、間違いの例はたくさんあった。でも僕はさらに切実に「だったら正解をくれよ」と思った。


 そうこう考えている間に約1時間である。夜がすごい勢いで深まっていこうとした。


 ベッドの上に携帯電話を置いてごろごろしながら、考えあぐねて僕は自分に落ち着けと念じた。


 ベッド横の机の上の炭酸ジュースを一口飲んだ。実はすごくのどが乾いていたらしく、飲んだ時にびっくりするくらい大きく喉の音が鳴った。


 そして喉がきゅっと痛くなり、なんだか泣きそうになった。最初のメールを書くくらいでなんで泣きそうになるんだとまた悲しくなった。中学生くらいで終わらせておく経験をこじらせるとこんな情けない大人になるのかと切なくなった。


 切なくなった後に、ちゃんと社会人として仕事をしている自分の一面を思い出して、気をとりなおした。


 仕事での自分に自信があって良かったと心からほっとした。とりあえずきちんと頑張っていると、こういう時に役に立つらしいと知った。



 気を取り直した僕は改めて「最初のメッセージ」という単語でインターネットで検索した。検索の提案で「最初のメッセージ 恋愛」という提案も出てきたが、それは選ばないでおいた。恥ずかしかったのだ。誰も見ていないのに、一人で恥ずかしかったのだ。


 やはり正解はどこにも書いてなく、たいした情報は得られなかったが、言いたいことを全部最初のメッセージに入れる必要はないらしい。これだけの情報を得るのにまた1時間くらいかかったが、それでも一歩前進だ。


 とりあえず、「こんばんわ。今連絡していいですか?」とだけまずは送ることにした。さらっと書いて、さらっと送信ボタンを押そうとしたその時だった。


 手が金縛りにあったように、指が送信ボタンを押さなかった。「本当にそれでいいのか」と自分の内側から自分の声が聞こえたような気がした。


「本当にそれでいいのかと言われたらだめなような・・・」

 僕は思わず呟いていた。みるみる弱気な気持ちに心が侵されようとしていた。

でも、ここで考え出したら次に進めない気がする。



「ここは弱気で行動しないのではなく、行動しないリスクの方が恐い」とビジネス格言のような独り言で自分を動かした。


 僕は携帯電話を空にかざし、下を向いてそちらを見ないようにして、一気に指に力を入れて送信ボタンを押した。


 同時に「いっけえ!俺の」と言いかけたけど、変なアニメのセリフのようになりそうなので叫ぶのは止めた。叫んでどうするというのは、至極まっとうなツッコミだと思う。


 送信された画面を見た。すごい勢いで世界中の「恥ずかしい」という思いが僕の胸に集まってきたかのように、恥ずかしかった。


 メッセージが届いていることを想像すると「ふおおお」と変な声が出た。「ふおおお」ってなんだと我に返って、笑いがこみ上げてきた。完全に不審者だ。


 でも、そうしているのも一瞬だった。

 返事がすぐに返ってきたからだ。


「いいよ」



 え?



 いいよだけ?



 また僕の番なんですか?

 

 まだ僕のターンなんですか?



 しかし、こんなに早く返ってきたら早く返さないと。

 頭が真っ白になりそうになりながら最初に思いついた言葉を書いて送ることにした。


「今日はありがとうございました」

「うんうん。いえいえ」




「こういうのって緊張しますね」

「そうなんだ」




「はい。最初の一文書くの1時間かかりました」

「1時間!」

 



「ちょっと返事早すぎないですか?」

「そうかな?」




「あの」

「なあに?」




「ちょっと僕が焦ってるの、楽しんでないですか?」

「ばれた」の一言の後に爆笑のスタンプ。少しミオさんに似てるかも。


「もー。すごく緊張してるんですよ!」

「ふふ。分かる分かる。あ~。でも懐かしいかも」


「懐かしいものなんですか?」


「そうねえ。あ、でもほら、自然とやりとりできてるじゃない」


「そうですけど」


「最初の一文長文書いてきたら説教しようと思ってた」


「長文書きそうになりました 汗」


「そうなんだ!書き直して正解だね!」笑顔のスタンプ


 働いているとこうやって明確に自分の行動について「正解」と言われることはないのでとても嬉しかった。


 言われ方だけでなく、誰に言われるかというのもあるかもしれない。メールを送る前に正解を探し続けたからかもしれない。


 でもインターネットで見つかった正解をここで使っても決してこの正解にはたどり着かなかったのだろうというのは分かる。



 その後は楽しくやりとりした。最初に始めるまでにあんなに緊張したのはなんだったんだろうと思う。


 彼女と次に会う約束をして、やりとりを終わった。



「じゃあ、おやすみ」



「うん。おやすみ」




 僕は最後のおやすみメッセージをしばらく眺めていた。


 ああ、なんだろう。こういうのを「幸せ」っていうのだろうか。



 ともかく今日はとてもぐっすり眠れそうだった。


 今日のできごとが嘘になりませんように、と子供みたいなお願いを神様にして、僕はゆっくり目を閉じた。


 神様を信じていないことなど、もう完全に忘れていた。



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