第3話 優しそうな彼女
「優しそう」
それが彼女の第一印象だった。
クリッとした瞳、少しタレ目気味の目尻、なんとなくキョトンとした表情
その時、角を曲がってきた女性は美人だとか、かわいいとかいうより、「優しそう」という表現がぴったりだった。年齢は僕と同じ20代半ばくらいに見えた。
彼女はTシャツの上に着ている黒いジャケットの袖を少しまくりあげ、グレーぽいパンツを履いてやや姿勢よく歩いていた。僕と違って、普通に男性と付き合ったことのあるタイプだろう。
どんな人が歩いてくるか全く分かっていなかったが、優しそうな人で良かった。
実際の中身は分からないけれど、単なる外見とはいえ、きつそうな人だったら僕はもっと躊躇して、その一歩を踏み出せなかったかもしれない。そう思うと、現れた女性が彼女だったのは、僕にとって幸運だったと思う。
「あ、あの、すみません!」という僕の声で振り返った彼女に向かって、僕はさらに二歩、右手、左手、左足、右足を交互に動かして近づいた。要するにすごくぎこちなかったと思う。
彼女は僕に少し驚いたのだろう。振り返った彼女の、その表情をなんと表現していいか分からないけれど、街中で珍獣に遭遇したらこんな顔をするんじゃないかな?というような戸惑った顔をしていた。
いや、珍獣といってもいろいろだな。例えるなら、そう!街中でラクダを見かけるとこんな表情になるのではないだろうか。意外で何事かと覗き込むような、でも弱そうだからあんまり危害はなさそうな、そんな表情でぼんやりと戸惑っていた。
ただ、一つだけ補足しておく。ラクダは例として使っただけで、別に僕がラクダに似ているわけではない。あんなに不細工ではない。自慢することでもないが、僕は至って凡庸な顔つきだ・・・多分。
ここは誤解されたままだと、僕の話が素直に頭に入ってこないかもしれないので言っておく。
話を本題に戻そう。
彼女がぽかんと戸惑っている中、その当事者の一方である僕の心中は、正に戦場であった。
耳元に心臓があるのではないかと思えるくらい心臓がばくばく音を立てているのが分かった。そして、その音がさらに僕を一段と緊張させた。
小学校の学芸会の時、「脇役C」にあたる、実に平凡な役をいただいたことがある。幕が開けた時に、その瞬間舞台にいたわけでもないのに、父兄が拍手した時、すごく緊張したのを覚えている。
拍手の音にびっくりしたのだが、そのびっくりが自分の胸から背中の上に斜めに駆け抜けたような気がした。僕は幕が下りるまで、そのままびっくりし続けた。
しかし、彼女に声をかける時はその学芸会の時とは全くもって比較にならないほど緊張した。
こんなしょうもないエピソードと比較する方がおかしいのかもしれないが、僕の人生では残念なことに比較できる経験はこれくらいしかない。僕だって他の例も探したのだ。
そう思うと他に緊張した時といえば、大学受験の時とか学校のマラソン大会のスタート前ぐらいしか思いつかないので、あまり緊張する機会のない人生を送ってきたのだなあと思う。
改めて考えてみるとしょんぼりするような話だが、今はそれどころではないので、話を戻すとその時の僕は人生最大の緊張を感じていた。
突然、真っ赤になって硬い表情をした見知らぬ男が自分に近づいてきたのだ。本来ならば彼女はこの辺りで恐怖を感じた表情になり始めてもおかしくなかっただろう。
だけど、彼女は微妙な表情のまま小首を少し左側に傾けた。
これが、少し僕を安心させた。
こういうとっさの時の反応で意外と人柄がわかったりするものだ。この時の反応で僕は本能的に彼女が優しい人だと感じとって、自分の勇気を鼓舞した。
「いくぞ、いくぞ、いくぞ!いけ、いけ、いけいけ!」
また僕は心のなかで自分に向かってたくさん呟いた。
僕は何度も練習していた、「突然ですが、好きになりました。一目惚れです。付き合ってほしいと思っていますが、いきなりは難しいと思いますのでとりあえず、一緒にお茶をする時間をください」を一気に口にしようとした。一度止まってしまったら言い切れない恐れがあるからだ。
しかし、今になって思えば、そんな焦った時の言葉としては長すぎたのかもしれない。いや、長すぎたかもというより明らかに長すぎたのだろう。その言葉を口にしようとしたけれど、最初に口が空振りしてしまい、パクパクと空を切ってしまった。
また、僕の耳元の心臓がさらに大きな音を立て始めた。
正直もう何も考えられなかった。
とりあえず、練習していた言葉だ。
「いけっ!いけっ!言うんだ!言うんだ!いけいけいけいけっ!」
僕は心の中で自分を追い立てた。追い立てても、追い立てても、のんびり気弱な僕はすぐには動き出さなかったが、何度目かの追い立てで、気弱な僕は反応した。
そして、心の奥底から言葉をしぼりだした。
「突然ですが、ぅきでっす!」
豪快にかんでしまった。
噛んだことにも戸惑ったが、「です」の間に小さい「つ」が入ったのもさらに情けない失敗だった。「ちーん」という音が頭の上遥か上空から鳴り響いてきたが、それでもなんとか頑張って心を立て直して、僕はもう一度言い直した。
「好きです!」
今度は言えた!
でも、言うには言えたけれど、言った後、完全に思考停止になってしまい、次に何を言うのかも忘れ、何をしたらいいのかも分からずその場に固まってしまった。さっきまで、耳元で大きく鳴っていた心臓の音すら聞こえなくなっていた。
真っ白だった。
噛んだトラブルにパニックになった僕はそこまで言い切るのに全力を使い切ってしまったのだ。
彼女は僕の方を向いて、2度ほど大きくまばたきをした。ぽかんと戸惑ったまま。それはゆっくりしたまばたきだった。
その後、彼女は硬直した僕をまじまじと見て、自分の後ろとか横とかあちこちをきょろきょろしだした。少し不安そうに、少し引きつり笑いをしながら、何かを探しているようだった。
今思えば、知り合いのドッキリかカメラでも探していたのかもしれない。もちろんそんなものはなかった。どっきりではない。僕の真剣な行動なのだ。
きょろきょろした後、彼女は少し「ぴくっ」と動いて、僕の方をもう一度見た。
そして、彼女はその細い腕で、少し優しい腕組みをした。人を拒否するのではなく、気遣って考えるような軽い腕組みだ。少なくとも僕にはそう見えた。
彼女は両方の眉を内側に寄せて、少し困った顔をしながら、自分の歩いてきた方のななめ後ろを指さしながら、
「ここじゃなんだから、ちょっとそっちの方のお店に入ろうか?」と言った。彼女の声は少し高めのかわいらしい声だった。
僕はこの言葉に救われた。救いの提案だった。本当になんと言っていいか分からないのだけれど、ともかく本当に助かった。遭難しかかっている僕に差し出された救助の手に僕はすがりつこうとした。
僕は何度もコクコクと声もなく頷いた。実のところ何度頷いたのか覚えていない。頷きすぎて気持ち悪いかもとは、その時は全く気が付かなかった。
彼女はそんな僕を見て、少し口から「ふうっ」と息を吐いて、後ろを振り帰って僕から遠ざる方向に歩き出した。
僕はちょっとその様子をぼんやりと見てしまったが、自分も付いていくのだと気が付いて、歩き出した。
本当に付いて行っていいのかと少し不安になったが、一度振り返ってニッコリ微笑んでくれたので、付いて行って良かったのだろう。
なんだか、すごく安心した。
彼女はその後も何度かちらちらと僕を見ながら歩いていた。今思えば正直怖いのもあったのだろう。
とにかく僕は、彼女が優しい人で良かったと、神様に感謝した。
神の存在など信じていないくせに、大いに感謝した。
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