第2話 3時までのカウントダウン



 「その角を曲がってきた人に僕が恋をする」



 それは僕が勝手に決めた事だ。

 だから何かを発展させるためには、そう。僕は角を曲がってきたその人に声をかけないといけない。

 生まれてこのかた一度もナンパなんてしたことない僕だから、声をかけるには勇気がいるのもなんとなく分かる。



 いや、嘘だ。僕は今、見栄を張って嘘をついた。



 ちょっとクールに構えてみたけれど、勇気なんてもんじゃない。実行するためには、ちょっとした英雄と並び称されかねないほどの、今までの人生では比較することができないほどの勇気を振り絞らねばならない。


 それはまるで、一円を積み上げて東京タワーと同じ高さにするくらい、―いや、東京タワーに登ったことがないから本当なら通天閣くらいのと言ったほうが的確かもしれないが、1円を積み上げて通天閣なら、なんだかひよっとしたらできそうなので、東京タワーにしておくが―、とにかくこんなに訳の分からない比喩をひねり出さなければならないくらい、大変な勇気なのだということは分かってほしい。



 少し落ち着いて話そう。他でもない、僕のためにだ。




 僕が決心した内容は具体的にはこういうことだった。

 3時丁度に僕が決めたその角を曲がってくる人が誰であれ、僕はその人を好きになって、その人に告白して、その人と付き合う。

 25歳まで女の人と付き合ったことがなく、女友達もいない僕にとって、きっと最適で、そしてもう後がない背水の陣の作戦だ。


「よしっ!」僕はそこで自分にありったけの根性を集めて、気合を入れるべく、ガッツポーズをした。

 でも、声は人に聞かれないように小声でだ。大声でやる根性がないのではない。大声でやったらおかしな人に見られるからだ。


 そして僕は今、あらかじめ調べていた、この近隣で一番若い女性が通る通り、―少なくとも雑誌やネットではそう言われている通り―、にある、おしゃれなビルの1階にあるコンビニ横のベンチに座っている。おしゃれなビルはクリーム色と水色に彩られていて、絶妙に古びているところでそのおしゃれさに嫌味を感じない、そんなビルだった。

 

 いや、正直に言おう。これがおしゃれというのは本当はよく分かってない。さっきの表現は殆ど読んだ本の受け売りだ。本当の僕の感覚では、少し慣れない、だからこそ苦手な雰囲気を感じるだけだ。


 これまでおしゃれと無縁だったのだ。自分の中のおしゃれ辞典の中は見開き2ページほどもないのだからこれはしょうがないことだろう。でも、このビルは僕にとって本題ではないのだから、雰囲気を感じるだけで充分なはず。


 でも、ちょっとまてよ。3時まであとちょっと時間があるからと、さっきから少し通りを歩く人を眺めていた。―できる限りじろじろという雰囲気ではなく、さらっと何の気なしに眺めている雰囲気を心がけたつもりだ―。


 大丈夫、そんなに怪しくないはず。


 それで見ていて気が付いたのだけれど、ここを通る人にはカップルが結構多かった。いや女性連れの2人組もちろん多い。だけども性別が問題なのではない。…いや違うか。性別は重要だ。でも、それより今の僕が問題だと言いたいのは人数なのだ。考えてみれば当たり前かもしれないが1人で歩いている人はそんなに多くなかった。




 2人で歩いている人に声をかけるなんて、・・・できない。




 ちょっと考えただけで、声をかけた2人が自分そっちのけで盛り上がって、自分がかわいそうな状況になっているのが、簡単に目に浮かんだ。

「えー、ほんとー?優子、私告白されちゃったー」

「何言ってるのよー。頑張って言ってるんだから茶化しちゃだめじゃなーい」

なんていうように、声をかけた女性が僕ではなく友達と話す。


「えー。でもー。」

「でもじゃないでしょー」

「うーん、そっかあ」といったように。


 ただの自分の想像なのに、まるでここに自分がいないかのように扱われるその扱いに僕はおおいに震えた。一体何の罰だというのだ。


 僕は震えた後に居たたまれなくなった。因みにそんな時に女性二人がそんな時にどんな会話をするのか全く想像がつかないので、変な会話になっているのはご容赦いただきたい。


 実は「優子」は歳の離れた、いとこの名前だけど、例に挙げる名前も思いつかない想像力のなさにもご容赦いただきたい。他には小学生の時に好きだった女の子の名前くらいしかストックがないので、それはここでは恥ずかしいので使わないでおく。


 そして、それだけじゃないツッコミどころもきっとあるのだろうけど、この際全てにご容赦いただきたいのだ。



 …話を戻そう。そうだ、そうなんだ。その女性は「1人で」ここを歩いてこないといけないんだ。


「3時を過ぎて、初めて1人で歩いている女性と恋をしよう」僕はそう決めた。そう決めなおした。もしかしたらそれは3時過ぎではなく、あるいは4時かも5時かもしれない。


 …夜まで現れなかったからまた出直そう。2人組に声をかけるよりはその方がずっとましだ。



「でも・・・」


 僕はその時1人ロマンチックなことを思いついてしまった。こんな場所を1人で歩いているんだから、今勝手に僕が決めたことだけど、ほんとにそれは運命かもしれないなんて勝手に感じ始めていた。

 僕とは彼女とは運命の出会いなんだ。そう思うと緊張している中にも、ほんのりウキウキした気分になれた。


 ただ、ここまできて僕は、まてよと思った。

 ナンパで出会って結婚したら、結婚式では知合ったなれそめを「運命の出会い」と表現すると聞いたことがある。

 考えてみれば、僕のこの行為はおおまかに言うと、ナンパと変わらないのかもしれないと気づいた。そう気付くとひとつハードルが高くなったような気がする。




 大学生の時に、一度だけ友達とナンパしようかという話題が出てきたことがある。僕の人生で今のところ最初で最後のできごとだ。


 大学2年生の夏に、近所にある海水浴場に行った時のことだ。僕たちは男3人でむさくるしく、夏を満喫しようかと海に行って空いているところに質素なシートを広げ、泳いだり寝転がったりしていた。目の前にはかわいらしいシートの上にちょこんと座って楽しそうに話す女子高生か女子大生の2人組の女性がいた。


 1人は細身のショートカットの女性で、もう1人はスタイルのいいセミロングの女性だった。そしてここが一番大事なことだったが、2人ともとてもかわいかった。その2人組に、10分に1回程度の割合で次々と男性から声がかかっていたのだ。


 いかにも軽そうな感じの男性から、堅そうな男性まで次々と声をかけていく様子が見事だった。早送りの画像を見ているようだった。中には一度断られた後に、もう一度声をかけてくる剛の者もいた。


 僕達の目の前で起こっていることなのだけれど、自分達には無縁だからと注目しないようにしていた。でも、あまりに目の前でその光景が繰り返され続けるので、つい、大人しい方の友達のタナカも、

「あの二人ずっとナンパされてるね」と話題にあげてしまった。

 そしたら、なんと、もう一人の活発な友達であるイズミが、

「こういうのを見ていると、俺たちもチャレンジしないと!って、気になるね」なんて言いだした。


 なんてことを言い出すんだ。不穏な空気が流れ始めた。


沈黙に耐えられずに僕が、

「え、もしかして声をかけるの?」と聞いたら、イズミは

「いやあ、さすがに声をかけるとしても、あの2人は無理じゃないかな」と現実的なことを言った。


 それに対してタナカが不用意に、本当に不用意にさらっと、

「でも、あんなに次々とみんなが失敗しているのに成功したら気持ちいいだろうな」とゲームの攻略か何かのように言うので、その場に「え?本当にやるのか?」と言ったような、さらに妙な空気が流れだした。急にその場に、誰も落ちたくないのに中を覗きたくなるような落とし穴が出現してしまったようだった。


「次々と声をかけられてますけど、声かけられないように一緒にいませんか?とか?」

少しの沈黙の後に、ずっとむっつり考えていたのではないかというタナカの一声で僕達はさらに緊張感が高まったが、イズミの、

「うん、それ、さっきの2回目の男も言ってた」という一言で、一気にその場が、まあないな、という空気になった。本当に3人ともが意気地なしでよかったと僕は本当に心の底からほっとした。


 結局その日は誰も声をかけようという結論に至らなかった。結局それだけの話しだったのに、猛暑の中、緊張感で僕の手のひらは冷たい汗でびっしょりになった。何も起こらなかった。話題が出ただけだというのにだ。


 僕ら女性と交流のないものにとって、ナンパとはそれほどまでにハードルの高いものだった。




 でも、今日の僕はこの行為がナンパかもしれないという結論に至っても、決心が揺るがなかった。


 こんなことは今までの僕には殆どなかったことだ。寝室で一人呟き続きけて、これ以上なくみじめさを感じたかいがあったのかもしれない。



 それにしても、コンビニ横のベンチから通りを見ていると、見事なまでに「男が1人で」なんて僕だけのようだった。


 みんな楽しそうに通り過ぎるから、僕のことなんて気にしないけれど、それ自体はとてもありがたいことだけれど、それでも男性1人の僕は明らかにその場の空気から浮いていると感じた。


 ベンチに座りながら、僕は「うつむいたら負けだ」と勝手に自分で決めて、顔を上げて3時を待った。


 自分なりには「キリッ」としながら待っていたつもりだ。

 周りから見たらどうだったかは敢えて考えないようにする。自分から落ち込む材料を集める必要はない。



 待っている数分間で、何百回も、―きちんと数えていないから定かではないけど感覚としてはそれくらいの回数―、声のかけ方を頭の中でシュミレーションした。


「あの、すみません」が最初の一言、と決めていたんだけれど、不思議なことにシュミレーションだというのに、何万回繰り返しても僕は、

「あ、あの、すみません」と一度どもることになっていた。

 どもらないのを想像することさえできないのだ。


 ただ、無理にどもらないのを想像しようとすると却って緊張してしまいそうなので、僕は何万回も繰り返される自分の

「あ、あの、すみません」の最初のどもりを、なすがままにしていた。




   問題はその後だ。




「突然ですが、好きになりました。一目惚れです。付き合ってほしいと思っていますが、いきなりは難しいと思いますのでとりあえず、一緒にお茶をする時間をください」

 これが事前に考えていた、その次の言葉だ。


 これを何回も頭で行ってみるのだけど、何回言っても、 「好きになりました」のところで胸が締め付けられるように苦しくなって、続けられなくなってしまうのだ。


 頭の中で何度も言いながら、「これって恋なのか?」っという、不思議な考えが頭の中でぐるぐるしだした。

 もし、今あなたがこんな僕を「気持ち悪い」と感じても、今はそっとしておいてほしい。



 とにかく、本当は相手がいなくても「好き」という言葉だけで、恋ができてしまうのではないかと思うくらい、僕はドキドキしていた。「なんだこの胸の高鳴りは」と1人心の中で独り言を言ってしまった。そしてなんだか顔に力が入って、ほてり、頭がぼーっとするのだ。


 世の中の人はこんな経験をして、人と付き合っているのかと、僕は新しい真理を知ったような気になって少し嬉しかった。


 そうやって、1人で恋をしたような気になりながら、気がついたらもうすぐ3時が迫っていることに気づいた僕は大いに焦った。


「くるぞ、くるぞ」とやったこともない波乗りの波を待つような気持ちの高鳴りを感じながら、僕は3時を迎えようとしていた。


 腕時計が3時に近づくのを確認して、僕はベンチから立ち上がった。


 僕はすごく緊張していたから、いつもと違って右足から立ち上がった。少なくともそんな違和感を感じていた。でも改めて考えると、多分普通に両足で立ち上がっていたと思う。



   3時だ



 ・・・いや、



正確には、2時59分46秒だ。


 立ち止まって時計をチェックするタイミングが、少し早かったかもしれない。

 僕は世の中のほぼ全ての人にとって殆ど意味がないであろう、こんなタイミングで、その時間がこれ以上なく大事であるようにカウントダウンをしはじめた。

 頭の中で後10秒というタイミングが少しずれてしまった。

 でも、修正が効かないので0コンマ何秒かずれたまま僕はカウントダウンした。

「10、9、」


 全然針は進まなかった。1秒ってこんなに長かっただろうか。

 こんなところでこんな姿勢で長時間止まってたら変に思われないだろうか、そもそもカウントダウンに意味はあるのだろうか、そんなことを考えながら僕は秒針がゆっくりと、殆ど止まっているように進まないのを凝視していた。


 こんなことなら1秒づつ進む時計でなく、連続して秒針が動く腕時計にしておけばよかったと、信じられないくらい後悔した。



 それからどれくらいの時間が経っただろう。


 僕の3時丁度のカウントダウンが

「3、2」

と進み、ようやく僕は腹がすわった。


 そしたら急に0が僕に飛び込んできた。

僕は腕時計から目を離し、顔を上げた。



 角から20代半ばの僕と同い年くらいの女性が歩いて出てきた。



「いくぞ、いくぞ、いくぞ!いけ、いけ、いけいけ!」

 僕は心のなかでたくさん呟いて、一歩踏み出そうとした。


 バンジージャンプで、背中を誰かから押されてようやく空中に飛び出すような、ふわっと髪の毛が逆立とうとする、まさにその時だった。


 女性の横から間の抜けたように優しそうな男が現れた。

 そして、2人は僕の横を何もなかったように、―いや、何もなかったんだけど―、それにしても本当に何もなかったように通り過ぎた。



 バンジージャンプなどしたことがないことを思い出しながら、「カップルかあ」と僕が呟いたその瞬間だった。

 男の後ろから女性が1人で歩いているのを見つけた。


 少し細みのかわいらしい女性だったので、僕は少し安心した。


 だけど安心したのは一瞬で、直ぐに僕は四方八方から大量の緊張感に圧倒された。でも、圧倒されながらも彼女に近づこうとした。


 僕は今度こそ、背中を誰かから押されて、髪の毛が逆立つように感じながら、でも頑張って目は見開かないように、乾いた瞳で不自然に「普段」を意識した大きさを心がけて、一歩を踏み出した。


 頭の中が真っ白になって、右手、左手、左足、右足を交互に動かすことをしっかり意識しながら、僕は彼女に近づいた。


 僕に気づいて、ふわっとこちらを向きかけた彼女の顔に向かって、僕は練習していた言葉を投げ出した。




   「あ、あの、すみません!」

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