第14話 映画館の甘い匂いが恨めしい


 一緒に映画を見に行く日になった。


 待ちに待った日だ。やばい顔がにやけてしまいそうだ。


 まだ、梅雨にはなっていなかったけれど、その日は小雨だった。そして歩いているだけで汗が噴き出してくるようなじめっと暑い日だった。


 公的な不快指数はかなり高かっただろう。だけど、今の僕には全く関係なかった。なんだか自分が無敵の状態になっている気がする。



 ミオさんが来た。今日はいつもと違って、おとなしめの笑顔。珍しいので、ちょっと不安になった。


「おはよ」

「ジーンズ似合うね。いいじゃん、それ」

「すごいな。ミオさんってそういうのすごく気づくの早いよね」


「そんなことないよ。って、なんかケンちゃんに褒められたー」いつものミオさんの満面の笑顔になった。


 たれ目の大きな瞳の目尻にシワを寄せてる笑顔。良かった。安心した。

「褒めたっていうんじゃないけど」

「ううん。褒めてくれたんだよ。そういうのさらっと言えるのってすごいと思う。でね、女の子っていくつになっても、よしよしって褒めてもらいたいんだよね」


「すごいなあ。ミオさん、どっからでもアドバイスできるんだね」

「そうよお。今頃気付いたのー?って、なんか褒めあってるね。私達」


 私達という表現がでると2人で一緒にいる気がして嬉しい。


 今日のミオさんは、肩から腕にかけての部分が少しすけてる黒い服を着ていた。こういうのは何て呼ぶんだろう。よく分からない。でもかわいい。


 この間の変な勢いでの告白のことは2人とも触れなかった。少なくとも僕はそれを話題に出すことによって、このいい感じの今の師弟関係?が壊れてしまうのを恐れていた。


 多分ミオさんもそれに気付きたくないのだと思う。だから2人は恋愛感情に触れないように恋愛の話をした。


 ショップの店員さんがまるで恋人のように選んでくれたと言ったら、良かったねと自分のことのように喜んでいた。



 駅の西側に隣接するハーブの名前が付いたファッションビルの9階に映画館はあった。 


 駅前の映画館なので前にも行ったことがあったのだけど、これまでとはどこか違っていた。


 エスカレーターを登る途中各フロアのショップには夏物の服が並んでいる。


 これまでの僕だったら「服屋があるなあ」だったけど、今の僕はファッション雑誌も読むので、あのブランドとあのブランドがあるなって分かる。


 参考になるなあと思いながら、

「あれ?どう?よさそうじゃない?」なんてミオさんに聞いたりする。

 2ヶ月前の僕には考えられない話だった。


 風景が違って見えるというのはこういうことかと思う。


 服のことを意識するのがすごいことだとは思わないけど、新しい視点で物事を見れると、全く同じ場所にいても世界が広がるんだなと思った。


 そう思うとこれまで僕は自分の狭い視野の中で生きてきたのかもしれない。恋愛だけでなく、もっともっと視野を広げていきたいと思った。


 改めて、ミオさんには感謝の気持ちが湧いてくる。「付き合ってもらおうなんて、おこがましい」と思ったら、吹っ切れた気がする。


 エスカレーターの一段下のミオさんに向かって言った。

「ミオさんにはすごい感謝してるんだ。ミオさんと会って、世界が変わった気がする」

そう言うとミオさんは、瞳を大きく広げ、頬が赤らんだ。そして、

「何、急に。不意打ち」と、うつむきながら、かわいい声で呟いたのが微かに聞こえた。


 ミオさんはすぐに顔が赤くなるんだけど、それがずるいと思う。頬の赤さは伝染するんだろうか、赤くなったミオさんを見ているとこっちまで赤くなるような、ぽーっとのぼせるような気持ちになった。


 うまく表現しきれないけど、なんだか苦しい。息がしにくい。さっき吹っ切れたきがするけど、一瞬でふっとんでしまった。


 どうしていいか分からないままエスカレーターを上り続けた。8階から9階へのエレベーターが8階までのエレベーターから少し移動する位置にあった。その移動の途中、並んで歩いた。


 僕は笑いながら、「変だったよね。ごめん」と言った。

「ううん」とミオさんは首を振った。


 首を振ったからか、隣で歩いたからかミオさんから甘い香りがした。外が雨だったから気づきにくかったのかもしれない。


 女の子はみんなこんないい香りがするのかな。また、考えが持っていかれる。自分の思い通りにならない。


 9階の映画館の券売機のフロアは全体的に甘いポップコーンの匂いで充満していた。


 その匂いでミオさんの香りが分からなくなって、僕は勝手に恨めしく思った。ポップコーンの匂いを恨めしく思うなんて生まれて初めてだ。


 でも、それで、我に返れた。また、警戒されるような場面にならずに、助かったのかもしれない。


「あー。この雰囲気。久しぶりっ!私結構映画館の食べ物好きなんだよね〜」

「分かる。お祭りとかもそうだけど、美味しく感じるよね」


「そうそう。なんでだろーねー」とミオさんはいつもに増してテンションが高かかった。


 楽しそうにしてる女性ってなんでこんなにかわいいんだろうなと思いながら、無表情にならないように気をつけていたら、

「ケンちゃん、笑顔増えたよね。元々かもしれないけど、ふわっと笑ってると優しそうに見える」


「見える、って。何それ」と突っ込んでから僕は続けた。「うん、でも、無表情にならないように気はつけてる」

「偉い!彼女欲しい男性には重要なスキルだ」


「ミオさんに言われてから、毎日鏡に向かって10回を5セット練習してる」

「うそっ!」


「いや、冗談だけど」

「えー、いつからそんな冗談言うようになったのよ」と言いながらミオさんは僕の腕を叩いた。


 なんか恋人のような雰囲気だなと思った時だった。ミオさんは「ハッ」としたような表情をして、急に考え込むような冷たい表情になった。


「もう、ケンちゃんは彼女できるよ」と、ミオさんが呟いた気がした。

「え?」と僕が聞き返したのに対して、

「もう始まるよ」と振り返ったミオさんはいつもの明るいミオさんだった。本当は何て言ったのか聞きそびれた。



 映画は田舎の先生が生徒と心を通わせる感動もののストーリーだった。暗い映画館でミオさんが隣にいると思うと幾分映画に集中できない時が時々あった。


 隣に座っているからか、ミオさんのほのかな甘い香りも伝わってきた。そしてそれが僕の意識を持っていった。


 恋人同士だったら手をつなぐんだろうなと思うと、考えているだけでドキドキした。こんなこと考えているの僕だけだろうなと思ってミオさんを盗み見たら、ミオさんはすごく真剣な表情でスクリーンを見てた。


 スクリーンのライトに照らされてとても綺麗だった。映画でなく、ずっとミオさんを見ていたくなるくらい綺麗だった。


 「いつもよりも綺麗に見えるのは、年齢のこともあってか暗い方が美しく見えるのかな」なんて不謹慎なことを考えながらすっかり見とれていたら、急にミオさんがこっちを振り返った。


「なに?」って、ちょっと軽く睨まれたような気がした。

思わず「あふっ」て声が漏れそうになった。

女性に軽く睨まれるのって、こんなに気持ちがいいの?


 僕はMっ気があったんだろうか。いけない、いけない。終わったらミオさんと映画の感想を話しあう予定なのに、ストーリーが頭に入ってこない。



 映画の感動ストーリーは音楽と共に進行していて、ちょっとジーンとしかけた時だった。


 鼻をすする音が横から聞こえてきたので、ミオさんの方を向いたら、涙で瞳をいっぱいにしていた。


 その姿に、打ちのめされてしまった。何故か、月夜に照らされている少女のようにも見えた。


 もう抱きしめたい気持ちでいっぱいになった。気が付いたら僕ももらい泣きしていた。


 その時、ミオさんの手が、僕の視界に入らないところで少しだけ僕の手に触れた。少なくともそんな気がした。


 全身が電流が流れたように、しびれた。


 本当に手が触れてるのかを自然に確認する方法を考えているうちに、ミオさんの手が離れた。ミオさんが正面を向いたところで映画は終わり、字幕が流れだす。


 僕はちょっと我に返り、

「あれ?え?今手が触れた?触れてない?気のせい?」なんてずっと考えながら、ミオさんの方を向いて確認する事もできずに字幕が流れるのを眺め続けた。


 字幕が終わったら、半分くらいの観客は既に席を離れていた。照明がついたらすぐに、こちらに顔を向けずにミオさんが「いこっ」と言って席を立った。


 その後、ミオさんの都合が急に悪くなったということで、その日の感想を述べあう会は後日メッセージアプリでとなった。


 何だか狐につままれているように、その状況がよく飲みこめていなかった。


 僕は帰り道、恋愛の経験値が高かったら、この状況のことが分かるのだろうかと思いながら、ミオさんの手と触れたかもしれない左手の感触を、必死に思い出そうとしていた。

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