第9話 さらなる変身の奥で止まらない感情


「すごーい。思ったより似合う!」




 ミオさんは、僕を見つけて手を振りながら、かけてカフェの店内に入ってきて、はしゃぎながら言った。


 女子同士で会った時に、こんな風にかけよりあってぴょんぴょん飛び跳ねながら、手を取り合うのを街中で見た事がある。


 その、僕とは全く関係のかった風景に少し似ていた。ミオさんが僕のいる方にかけてくるのだけど、異性が自分に向かって急いでくるというのはこんなにも心躍るものなのだと知った。



 今日はミオさんに予約してもらった美容室で髪を切ることになっていたので、上から下まで全部先週ミオさんに選んでもらった服を着ていた。自分で買ったものはパンツと靴下だけだった。



「さすが私!天才!」



 僕がミオさんのテンションについていけないまま、お礼をいうと、

「だめだよお。そこはテンション上げてつっこむところだからね」とかわいく叱られた。

「きゃっきゃっしてる女の子に寂しい思いさせないでほしいわ」と席に座りながら楽しそうに笑った。



 僕も笑った。



 胸の奥がズキンと痛んだ。



 僕はその痛みには気づかないようにして笑顔を続けた。


「自分の飲み物、買ってくるね」

ミオさんは席にカバンを置いて、カウンターへと向かった。



 今日のミオさんは黒いニットにジーンズという格好だった。ニット生地が体にぴったりしているからか、これまでより女性らしさを感じた。僕が勝手に意識しすぎているからかもしれないけれど。


 ミオさんがカウンターで飲み物と食べ物を悩んでいる間に、カフェに来る前に1人で考えていたことを思い出していた。どうやら僕がミオさんを好きだということだ。


 僕は早めにお店に来て店内を眺めていた。このカフェチェーンだって、ミオさんと知合う前は少し苦手で入ったことがなかった。


 それが今はすごく好きな場所になったのは、きっとそこにミオさんがいるからだ。



「タバコ一本吸っていい?」

「あ、いいよ。そういえばタバコ吸うんだね」

「1日数本くらいだから我慢できないこともないんだけどなんとなく」


 そう言いながら僕はタバコをカバンから取り出して口にくわえた。その後ライターを取り出そうかとしたその時だった。


 タバコを人差し指と中指にからませて口元を覆っていた僕の右手に、ミオさんが左手で触れてきた。


 ミオさんの目を見ても、僕の目とあわない。ミオさんは僕の手の甲を凝視しながら、僕の手の甲の青いと血管を指でなぞった。



 衝撃だった。僕は声も出せずに、何も考えられなくなった。息の仕方も忘れてしまったように喉の下のほうが苦しくなった。


 かろうじて、頭を通らずに口だけの言葉で

「ど、どうしたの?」とどもりながら言った。



 ミオさんは、ぴくっとして、気を取り戻したのか左手をテーブルの上にゆっくり置いて、右手でコーヒーの入ったカップを持ち上げ、自分の口元に持って行った。


 そしてコーヒーを一口飲んでのどを一度ごくんとならした。彼女の喉が動くのが、裸よりもなまめかしくひわいに見えた。


 頭の中がミオさんと本能的ないやらしいことでいっぱいになった。一瞬で僕は頭の中でミオさんを脱がして考えられる限りのいたずらをしてしまっていた。


 そして僕はそれを気づかれないように細心の注意を払わなければならなくなった。



「ごめんねー」ミオさんの唇からそんな言葉が出てきた。

「私結構”手フェチ”なんだよね。手の甲の血管とかすごい好きで。ケンちゃん結構いい手してるねー」


 唇から顔全体に視線を移すと、あっけらかんとした表情でそう言ったミオさんがいた。


 さっき見せたあの一瞬の真剣で何かに心を奪われたような表情はちょっと卑怯だと思った。経験値の少ない僕には刺激的すぎる。


 ミオさんはころころ表情が変わるのでそこが魅力的なのだけど、無意識に魅力的だけにたちが悪いと感じた。


 僕は平常心を取り戻すために、このコーヒーに1円玉を何枚重ねたら沈むかを仮説を立てながら計算して、気を取り戻した。


「手が好きなの?変わってるね」と平常心を取り戻した僕が素朴に聞くと、ミオさんはどうだという表情で

「あら、そんなことないよ。結構手が好きな女の子って多いわよ」と言った


「手が?何がいいの?」

「まあ、人によってどういう手が好きかも違うけど、ほら男性だと顔以外がどこが好きかっていうと胸ってよく言うじゃない?」とミオさんが言った時、僕は全く無意識に視線をミオさんの胸元に向けてしまった。


 でも、全くの無意識だったので、そこに視線が行っていることにも気が付いていなかった。動物的についつい目を向けてしまっていたのだ。


 ミオさんの細身なのに意外とありそうな胸を黒い夏用のニットがかたどっていた。



 ……視線の上からミオさんの声が聞こえてきた。


「私の胸に注目しろなんて言ってないでしょ」

そう言われて僕ははっと自分を取り戻し、視線を上げた。少し照れて赤らんだ顔のミオさんが少し口をとがらせ気味にしていた。


 僕は何も考えなしに動く自分の視線を恥ずかしく思い、呪った。


「え、あ。ごめんなさい。でも不可抗力です。胸の話をするから」と僕は焦りながら必死に言い訳した。

「自分の視線って意外と自分ではコントロールできていないものみたいなんですよ。動けと思ってから視線を動かすことってできないみたいで。視線を右にと思って視線を動かしたら変な感じになるでしょ?」こんなに必死に言い訳したのはいつ以来だろう。


 ミオさんは素直に自分で僕が言った視線を動かそうと思ってから視線を動かすということを試したようで、右を見たり正面を見たりして、なるほどねえなんてつぶやきながら、

「うん。まあ、私も悪かったけど」と、あっさりと自分の非も認めた。


「でも、手が好きな人って、そんなにいるの?」僕は慌てて元の話題に戻した。


「いや、男の人がおっぱい好きなほどじゃないけど、男の人の体で一番好きな場所で手って言う人結構多いよ」


「そうなんだ。自分の手なんか意識した事なかったけど」

「うん。そんな感じだね。でもいいよ」

「何が?」

「ケンちゃんの手。結構筋張ってて好き」


 何気なく言っているんだろうけど、「好き」という言葉が誇張されて耳に響いた。なんだか受入れてもらえたような気がしてじんわりと幸せになった。


 幸せって、後から感じることはあるけど、今現在が幸せって感じるのはもしかしたら人生で初めてかもしれないと感じていた。


 でも、その感情がまるで小中学生向けの少年マンガ雑誌に載っている恋愛マンガの中に書かれているものと同種のもののようで、少し恥ずかしさも感じていた。


 そして、こんな風にミオさんのこと好きになっていいのだろうかとも考えた。いや、良くないんだろうな。


 とてももやもやした気分になった。もやもやというより、ごちゃごちゃの方がぴったりしているかもしれない。



「3時から美容室予約しているから、そろそろいこっか?」

という、ミオさんの一言で僕らは待ち合わせたカフェを後にした。



 風が気持ちいい季節だった。ゴールデンウィーク前後のこの時期が、一年で一番好きだ。長袖のシャツ1枚で過ごせると、気持ちも軽くなった気がする。


 先週の服選びの時に続いて、またこの街の山側のオシャレエリアを歩きながらミオさんが予約した美容室に向かった。


「はい。えっと、一つ聞いてもいい、かな?」歩きながら僕はミオさんに聞いてみた。


「ん?」小首を傾げてミオさんは返事した。こういうミオさんはとてもかわいい。


 思わず「なんでもない」って照れて下向き加減に言っててしまいそうになるのを耐えた。


 付き合いだした初々しいカップルでもないのに、この反応は気持ち悪いというのは僕でも分かったからだ。



「実は美容室初めてなんだ。なんかこれは知っといた方がいいという作法とかあるの?」


 これまで小さいころから行ってる近所の散髪屋で、顔なじみのおっちゃんにしか切ってもらったことがなかったので、未体験の美容室に少し気後れしていた。


 ミオさんはそんな僕の話しに対して目を大きく開いてびっくり目をした後、

「作法って、茶道とか結婚式じゃないんだからないよ、そんなの」と手を叩いて大笑いしながら言った。


「いや、そうだろうけど」と少しだけ僕はむっとした。成人男性がむっとしてもかわいくないのは分かっていたけど、少しすねたくなってしまったのだ。


 大笑いして目に涙を浮かべながらミオさんは言った。

「ごめんね。笑って。でも、初々しくていいなあ。私もそういうのなんかないかなあ」


 泣くほど笑うことないのにと思う一方で、目をうるませながら笑っているのもかわいいなと思いながら僕は

「そういうのって何?」と聞いた


「えー。女も30半ば過ぎると色々な経験してるから」と言った後に、両手を胸の前で組みながら斜め下を向いて、いつもよりひとまわり高い声で、

「私、こんなの初めて」と言った後また普段の声に戻った。

「とかいう機会がもうないんだよね。そういうの、初々しくてかわいくていいな、って思う」


「でも男がやってもかわいくはないですよね」

「そんなことないよ。最近はかわいい男性も多いじゃない。とか言ってるうちに、ついたよ。ここ」


 美容室というより、カフェかと思うような店づくり。当然男一人では入れないような店で、店内に男性はいたが、やっぱりみんなすごくオシャレだった。


「私がいつも使ってる美容室だけど、美容師さんは女性を指名したから会話を楽しんでね」なんて、無責任に楽しそうにミオさんは言った。


 ミオさんはいつも男性の美容師に切ってもらうらしいけど、僕の髪を切る女性の美容師とも顔見知りのようだった。



「フジイさん。待ってました。こんにちはー」

「ほら、この子がケンちゃん。こないだ言ってた」

「あー。こんにちはー。会いたかった。安心して、かっこよくしてあげるからね」


 なんて、初対面なのに人見知りのかけらもせずに美容師さんは近づいてきた。上から目線での話し方だけど同い年か、下手したら年下ではなかろうかと思った。


 別に嫌じゃないけど。同じように男から上から言われたら嫌なんだろうけど。そう思うとかわいい女性って不思議な存在だな。


 ミオさんは待合の席で雑誌を見ながら待っててくれるようだった。自分の子供を散髪に連れてきたように座りながら僕に手を振って見送ってくれた。


 その美容師さんは細身で顔が小さくて綺麗な女性だった。こういう女性はどうして顔が小さいのに胸が大きいのだろうと思う。


 いけない。また自然と胸に目が行ってしまっている。


「だいたいのイメージはフジイさんに聞いてるから」と美容師さんはつぶやきながら、髪質を確認するように僕の髪に触れた。


 考えてみたら血の繋がっていない女性に髪を触られるのは初めてかもしれなかった。少なくとも記憶には殆どなかった。


 少し冷たい細い指先の感触が気持ちよかった。髪を触れられるのも気持ちいいと感じているのも気色わらがられるのだろうか。何だか怖い。


「じゃあ、先にまずシャンプーしますね」といって洗面台に移動を促された。


 席移動をするのも、髪を切る前にシャンプーをするのも、仰向けにシャンプーするのも初めてで、一つずつ初めてなのを気づかれないように大人しく従った。


 綺麗な女性にシャンプーをされているだけで少し幸せな気分になっていた。顔に乗せられる布に時々胸が少し当たっているような気がした。


 それが胸なのかどうか顔の上の布を取って確認したい気持ちを我慢するのに困った。思わずそちらに寄り添ってしまいそうなのを我慢しながら、でも頭の中では美容師さんの胸の形をくっきりと想像してしまっていた。


 初めてだからしょうがない。初めてだからしょうがない。何度も心の中でつぶやいた。



 何回か、髪の毛をはらったりなどで美容師さんの手が頭に触れる度に、どきどきしていた。綺麗な女性に触れられるということだけでお金払えるななどと思っていた。


 しかし、そんな関係のないところばかりに注目している僕を置いて、僕の髪はとてもさっぱりと、今風に無造作にばらけた感じになっていた。


 そして髪が軽くなって、なんだか自分も少し垢抜けたように見えた。自分が自分でないような気がした。



「じゃーん。完成。どう?いい感じじゃない?」と美容師さんに言われ、僕もまんざらでもない気になっていた。


 この人も初対面の人にテンション高く接することができる人なので、この人に惚れてしまう人も多いんだろうなと思いながら、美容師さんにお礼を言った。


 待っていたミオさんの元に行ったら、ミオさんはすごく喜んでくれた。


「すごい!見違えるように爽やかになったよ。もう別人みたいだよ!」

 なんて、すごくかわいく、キャッキャッしながら喜んでくれた。


 その笑顔がまたとてもかわいくて、そのかわいさで本当に息が詰まりそうに苦しくなった。



 期待なんてしちゃだめだって、分かっているし、知っている。


 だけど、胸の内から勝手にどんどんどんどん期待がふくらんでくるんだ。



「だめですよね」

僕は胸の内で、そう呟いた。

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