EX1 『死神』事件

「はぁ……、はぁ……っ」

 時間は午前2時を過ぎた頃。暗く、明かりがない町の小道を、1人の不良が走っていた。その表情からは、焦り、恐怖といった感情が読み取れる。時折後ろを振り返り、追っ手が来ていないか確認していた。

「くそ……、なんで俺がっ……!」

 事の始まりはほんの10分前。暗い路地裏のいつものたまり場で、いつもの仲間数人といつも通り誰か女でも捕まえようといった、下品な会話を繰り広げていたとき、突如それは起こった。

 何の前触れもなしに、目の前の2人の仲間の首が、落ちた。

 最初は何が起きたのか理解できずにいたが、すぐに事の異常さを理解した。そして慌てふためき、悲鳴をあげる間もなくまた1人、今度は隣にいた仲間の首が落ちた。

 それからは、ひたすら走った。まだ生き残っていた数人の仲間の悲鳴が後ろから聞こえるが、気にせずにただ走った。走りながら、最初に一瞬だけ見えた黒い影について考えた。はっきりとは見えておらず、ただの黒い影が通ったことしか認識できずにいたが、それだけで十分なほど恐怖した。

 ニュースなどでよく見る、とある事件の犯人の特徴。それを思い出しながら、漠然と、自分がその犯人に狙われていることを理解していた。

「俺が、なんか、したかよ……」

 そう言いながら、不良は自分の犯罪歴を思い出していた。したことがあるのは、強姦、万引きくらいか。しかし、これまでの事件の被害者は、殺人、強盗殺人、テロリストなど、どちらかといえば重い犯罪の加害者だった。だから自分なんか狙われないだろうと、思っていた。それでも念のため最近は軽い犯罪でも起こさないようにはしてきたが。

 そのくらいで、なんで……。そんなことを考えていると突然、前方10mほどの場所に、何かが降り立った音がした。突然の出来事に、小さく悲鳴をあげながら立ち止まる。

 自分がいるのは暗く、細い路地裏。逃げ場はない。相手は、まだ見えない。少しずつ、後ずさりをはじめる。警戒を解かずに少しずつ後ずさりを始め、相手が近づいてこないことを理解すると、後ろを振り向き駆け出した。振り返るとき、一瞬だけ何かが小さく光って見えた。

「どこか、明かりのあるとこ、人が、いるところ……」

 夢中で駆け出す。しかし、このあたりは首都の中でも夜になると人通りが少なくなる場所。どんなに走っても、薄い明かりがついているところしかない。

「くそっ……!」

 携帯は、最初の場所に落としてきてしまっていた。どうしようもないと、諦めかけたそのとき。先ほどと同じ、前方に何かが降り立った音がした。今度は、薄い明かりと暗闇に慣れた目のおかげではっきりと相手の姿をとらえることができた。

 ニュースで見た、犯人の特徴。黒いマント、黒い服、黒い手袋、黒い靴、黒いマスク。そして、刃の部分についた何か赤い液体が滴り、光っている、大きな鎌。

 間違いない、こいつは……『死神』だ。

 不良はそう直感で理解し、その恐ろしい姿に身動きすらとれず、体が震えだした瞬間、重く、低く、暗い声がその場に響いた。

「少し、聞きたいことがあります」

 ボイスチェンジャーで声を変えているのだろうか。何か機械的にも感じられるその声が、『死神』から発せられているものだと理解するのに、数秒かかった。そして、恐怖を感じさせる姿とは対照的な丁寧な言葉が、逆に恐怖を加速させる。不良は恐怖で喉がかすれ、震えている声でなんとか返答する。

「……な、なんだよ」

「こうして死を直感する気分ってのはどうですか?」

「……は?」

「だから、今の気分ですよ。足が震え、体はすくみ、止まらない冷や汗、止まらない鳥肌、渇ききった喉に唇、定まらない焦点、かすれた声」

 『死神』が言葉を発するたびに、男の体の震えは加速していく。

「そんな恐怖を一気に味わう気分は」

 『死神』は丁寧な口調で話し続ける。丁寧な口調のはずなのに、『死神』の声は、自分の心を、体を、間違いなく支配していく。死から逃れられない恐怖で。

「……あ、あ」

 声は、出なかった。懸命に声を出そうとするが、体の震えが、喉の渇きが、それを許さない。不良は、声をあげることすら叶わない。

「ああ、答えられないならいいです。それが、答えでしょう?」

 そう言うと、『死神』はゆっくりと、1歩ずつ近づいてくる。『死神』の履いている革靴が立てる足音は、不良にとって死へのカウントダウンも同義だった。

 死へのカウントダウンはゆっくりと自分に近づいてくるのに、十分に逃げられるスピードなのに、足が動かない。ハリアルを出して抵抗しようにも、手が上がらない。『死神』は一直線に歩いてくる。自分のハリアル、銃さえ出せて、1発でも打ち込めれば、もしかすれば助かるかもしれない。

 そんな小さな、小さな希望で自らの体を奮い立たせ、なんとかハリアルを出し、腕をあげ、引き金を引く。だが、銃声は鳴らなかった。ただ、銃が地面に落ちる、ゴトン、という音だけが聞こえた。

 それから徐々に襲いくる激痛。その激痛が右手が、利き腕が落とされたものだと理解するのに時間はかからなかった。

「ああああああああああああああああああああ!」

「抵抗しない方がいいですよ。死への時間が長くなるだけです」

 不良は、ない右腕を抑えるようにしてうずくまる。『死神』はいつの間にか後ろにいた。『死神』がいるのは、自分の少し後ろか、それとも遥か後ろか、それとも真後ろか。不良にはそれを判断する気力さえ残っていなかった。不良は、全てを諦め、目を閉じた。

「おーおー、派手にやってんな」

 しかし、不良が目を閉じたのと同時に聞こえたのは、若い、男性の声。『死神』の声ではない。恐る恐る目を開ける。不良の30m程前のところに、短い金髪で、サングラスをかけた、軽薄そうな男が立っていた。

「てめえが『死神』さんか。悪いな邪魔してよ」

 男はこの惨状にも物怖じせず『死神』に話しかける。

「…………」

「あ、怒ってるのか? カカッ、悪い悪い」

「……誰ですか、あなたは」

 『死神』が口を開いた。その声は、不良をまた震え上がらせたが、男は気にした様子も無い。

「ま、気にすんな」

「……まあ、いいでしょう」

 『死神』はひとまず不良を殺そうと鎌を不良の首めがけて振った。しかし、その刃は不良の首には届かない。

「おいおい、そう邪険にするなって。せっかく俺が遊びに来てやったんだ」

 『死神』の鎌の刃は、男によって止められていた。それも、刃を摘む形で。

「なっ……!」

 男は、30m程もあったはずの距離を一瞬で詰めてきていた。『死神』が初めて動揺を見せる。不良は、何が起きたか分からない、といった顔をしていた。気がついたら自分の首のところに刃があり、さらにそれを見知らぬ1人の男が止めているという状況に困惑する。

「ほら、てめえは逃げな。ここにいられても邪魔だ。……助かるかは知らんがな」

 その言葉を聞いて、不良はその場をなんとか脱出し、暗い路地裏を重い足取りで逃げていく。

「悪いなあせっかくの獲物を逃がしちまって。多分あいつは大量失血で死んじまうだろうが」

「あなたは……!」

 『死神』は鎌を男の手から離そうと両手で鎌を引っ張るが、ビクともしない。こんなに力を込めているのに、涼しい顔をしている男に『死神』は少し震えた。

「さ、て。そろそろ本題に移ろうか」

 男が突然鎌を離す。鎌を引っ張っていた『死神』は体勢を崩すがすぐに立て直し、距離を取る。先ほどまであった余裕は完全に消えうせていた。

「来いよ」

 男は余裕そうに言い放つ。ズボンの両方のポケットに、手を入れたままで。

 『死神』は逃げることも考えたが、先ほどの速さからそれを断念し、戦闘体勢に移行する。男を観察してみると、戦う気すらまるで感じられなかった。ポケットに手を突っ込んで、棒立ち。あの体勢では自分の攻撃に対する回避も防御も不可能だ。そう判断した『死神』は、距離を一気に詰め、男を斬る。しかし男は姿を消した。

「3歩か」

 動揺した『死神』の耳に飛び込んだのは男の声。それも、後ろから。気がつけば男は先ほどまで『死神』がいた位置に立っていた。

「あの距離を3歩じゃなあ。……期待外れか?」

 ありえない。回避をしながら、この暗闇で、自分の歩数を数えたというのか。『死神』は戦慄した。男の、果てしない速さに。

「んー、ま、試すか」

 男はポケットに手を突っ込んだまま突っ込んでくる。『死神』は防御体勢をとる。しかし、『死神』の視界から、一瞬で男は消えていた。代わりに背中に伝わる強い衝撃。それが男から蹴られたものだと『死神』が理解するのに、時間はかからなかった。

 衝撃により吹き飛ぶ『死神』。しかし、『死神』が地面に着地する前に男からの追撃が入る。腹に入る膝蹴り。なんとか手で防御はしたが、すさまじい衝撃に少し体は浮いてしまう。その浮いた体に、今度は上からの衝撃。男が上から蹴ったことによるものだった。その衝撃に、『死神』は地面に叩きつけられる。一瞬朦朧とする意識の中で、『死神』は男の強さを実感する。自分の下で膝蹴りをしたと思えば、一瞬で自分の上から蹴りをくらわせる。そんなこと、人間ができることではない。

「くそ……貴様……」

 『死神』はゆっくりと体を起こす。男は距離を取っていた。あれだけの動きをしたにも関わらず、息はまったく乱れていない。

「ああくそ、聞いた話からするともうちっと強いと思ってたんだが……」

 男は首を捻っていた。何かを考え込んでいる様子だ。『死神』はその隙に、この場から逃げる算段を考える。

「……本物じゃないってことか?」

 そして男ははあ、と短くため息をついて、『死神』に片手をあげた。『死神』は一瞬、警戒する。

「じゃ、俺はいくわ」

 そのまま男は背を向け悠々と歩いていった。『死神』は男を追撃しようとは思わなかった。いや、できなかった。

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