ゴブリンの哀傷-1

 アイラはゆっくりと右手を前へ差し出した途端、水軌の体に嫌気が走った。


「まさか...」


 それが後に失敗に繋がるか、功を奏すかは分からない。が、自分達以外敵だと想定しても決して大袈裟な表現ではないこの状況で1番やってはいけない行為だろう。

 水軌はアイラを止めようと声を発そうとしたが、もう遅かった。

 アイラの手のひらにホタルのような淡い光が集まり、いつしか淡い光であったそれは熱を帯びて紅蓮色の炎の塊となる。

 そう、アイラは通行の邪魔となっているこの森を焼き尽くし、木々によって阻まれたゴブリンまでの道を直通にする気だ。


「鬱々たるメーデイア


 アイラが何らかの魔法の呼称であろう単語を口から発したのを引き金に、アイラの手の平から炎の光線が放たれた。

 憐憫れんびん哀惜あいせきの欠片も無い無慈悲な炎の光線は、草や木、虫や小動物を焼き尽くす。アイラが今しがた手の平で生み出した炎の塊を起源に、光線は噴水のように湧いて出る。

 まるでアイラの掌中に、活火山でも潜んでいるのだろうか、紅蓮の光束は一直線に絶える事なく草木へ牙を剥く。

 炎の圧力に耐え切れず、地面に沈み込む草木を目の前にした水軌は、もうアイラの進撃を制止する事を諦めていた。手遅れだ。


「よし」そう呟くと手の平からエンドレスに発出されていた炎の光線は徐々に勢いを失くし、数秒経つまでもなく源の紅蓮色の炎ごと、儚く消えた。

 まるで消えかけの線香花火を見ているような。

 しかし消えたのは芽出しの炎だけであり、前を見ると、目の前に御天道様おてんとうさまでも落ちてきたのかと誤想してしまうくらいの業火が、神々しい炎達が草木を完膚なきまでにしいたげていた。


「炎を消さないのか? このままじゃ俺達まで炎の餌食になってしまう」


 徒然つれづれと食べては誇大化を繰り返している炎は、辺りの食材もとい木材を食い尽くしてしまい、さらなる領域へと身を乗り出そうとしている。

 炎の海は手を伸ばせば届く距離まで迫っていて、その炎の余波はじわりじわりと水軌のHPを削っていた。


「そうだな、このくらいで良いか」


 そう言って懐から一つの小瓶を取り出すアイラ。

 その小瓶は親指程の大きさで、中に何が入っているのか見当もつかないし、この業火を小瓶一つでなんとか出来るとは思わなかった。

 それでも水軌はアイラの行動を信じて、この場に踏み止まる。

 もちろん逃げる猶予も抗議の声を上げる事も出来るが、未熟者の水軌が考えてとった行動が良い方向に傾くとは思わない。


「そんなに難しい顔をしなくて大丈夫。全てこの水虎の瓶が炎を鎮圧してくれる筈だ」


 アイラは水虎の瓶の蓋を取り外して、瓶の中身を取り出そうとせず、そのまま空へ放り投げた。

 小瓶はクルクルと空を舞う。

 ある程度の高さに達した所で、小瓶は空を駆け上るのをやめ静止した。

 その物理法則を無視した小瓶の無茶苦茶な挙動に対して水軌はもう驚きもしない。

 一体あの小瓶がこの絶望的な状況をどう打破してくれるのだろうか、水軌はそれだけを考えて小瓶を見つめる。

 と、同時に小瓶は乾いた破裂音を上げて砕け散り、中から鉛色の何かが飛び出した。

 その鉛色の"何か"は、溶けたアイスのようにドロドロと、透明色の空気から濃密な灰色へと色を染めていく。


「あれは一体なんだ?」


 澄んだ空気をどんよりとした不快な色へと侵食していく鉛色の気体。

 それを指差し水軌は怪訝そうに眉をひそめる。


「あれは雲。伝説の水虎が生き絶える寸前に、自らの残りの生命力を犠牲にして産んだ産物」


 雲にしては綿あめのように幻想的な外見をしているわけでもなく。

 それは雨雲と比べても暗くて暗くて、重そうだ。

 空気が、その水虎が産んだと言われる雲の重さに耐えられず、落ちてきそうな兆しがする。一寸で空を覆った鉛色の厚雲は、水軌達そして原子の森を萎縮させた。

 ずしりと、今この世界は重たいコンクリートの下に位置している様で、人類がセメントで固めた遊歩道で森羅万象全てを、支配という二文字で鍵のない金庫に閉じ込めている。

 人々が何食わぬ顔で踏み付けているコンクリートの下には、生命の神秘溢れる森が広がっているのではないのか?

 水軌の目に広がる雲はいつしか辺りに幾多もの大粒の水滴を降らす。

 その雨は水滴というにはあまりにも大きい。

 一粒一粒が、水が入ったバケツをひっくり返したように勢いをもって燃え盛る炎に特攻していく。

 雲は大粒の涙を流す。

 コンクリートは人間の技術によって巧みに操られ、罪の無い自然を塗り固めていく。

 それを詫びるように自然をそこなう劫火を身を以て撃退していった。


「正直ここまでとは思わなかった。火に強い効力を持つ聖水、それ生成する雨雲を小瓶に収めた水虎の瓶。また買っておかないとな」


 原子の森全てを喰らい尽くす程の勢いを有していた烈火は、水軌達に広大な焼け野原を置き土産にこの世界のどこかへと召していった。

 鉛色の雲、改め水虎の幻影は炎が完全に消えたのを確認すると、蒸発した水のように上へ上へと登っていく。

 その半ば、鉛色の陰気な体は浄化していき、透徹した空気と混ざり合う、そしてついに水軌達を救った偉大なる雨雲は太陽のもとへ登っていく途中で泡沫に消えた。


「なぁアイラ、森を燃やさずに普通に歩いて探した方が良かったんじゃないか?」


 雲の最後を見届けてふと我に返る水軌。

 それを聞いてアイラは心底嫌そうな顔をする。


「緑色の森の中で緑色のゴブリンを探すのは面倒じゃないか」


「何回も交差する意識リチェルカを使えば良いだろ!」


「それが面倒だろう?」と、アイラは至極当然といった感じで返答する。

 この行動によって沢山のリスクが産まれるというのに、それを面倒で一蹴とは大胆な性格なんだな...

 まずこの騒ぎを聞きつけて初心者狩りがやってくるかもしれない。次に、


「突然の火災に驚いてゴブリンが逃げ出している可能性もあるんじゃないか?」


「その問題は無いな。付いて来い」


 アイラは焼け野原へと足を踏み入れる。

 上から降り注ぐ日光を殆ど独り占めしていた背の高い木々は、炎によって灰と化した為太陽の光を遮る物はもう存在しない。

 先程までずっと薄暗い森の中に居た事によって、太陽の光が少し眩しい。

 豪雨によって出来た水溜まりが、光を反射してキラキラと輝く。

 黒と灰色がひしめき合う森の焼死体。

 その中に煌めく光束達がアクセントになって映画のワンシーンのような景色だ。

 そこには花は無いが華があった。


 魔法によって見つけたゴブリンが居るであろう場所に向かってから程なく、遠方に鬱蒼と茂る草木達を発見する。

 どうやら炎達はあの彼方で惜しくも息絶えた様。そこへ足を運び、不自然な点を一つ見つける水軌。

 炎の被害にあった場所、そして炎の手から間一髪逃れて被害を受けずに済んだ場所、その境界線がはっきりし過ぎている。

 まるで緑と黒色の布を無理やり縫い付けたような印象だ。

 それ程あの雨の勢いが凄まじかったという事だろうか。


「全く、この世界は無茶苦茶だな」


 ファンタジーな世界観の中に、時節垣間見えるリアル。その二面性を持ったこのゲームに水軌はすっかり心を奪われていた。


「交差する意識リチェルカを使っている最中に思い出したのだが、確かここはゴブリンのスポーン地点だ。待っていればいずれお目当ての者が出現するだろう」


 スポーンとはゴブリンのようなモンスター、モブがこの世界に命を持って生成されるという意味だ。

 つまりスポーン地点というのは、モンスターが生成される場所。

 現実では到底あり得ない事だが、スポーン地点さえあればモンスターは無限に沸き続ける。

 勿論特定のモンスターが出現するスポーン地点に待機して、同じモンスターを永遠と狩る事もできる。

 が、そう言った事を防ぐ為2日に一回はスポーン地点が全て変更されるという処置が取られている。

 更にモンスターはわんさかと出現するわけでもないし、この世界に生を受けたモンスターは原子の森というベースを自由に動き回る。

 それを踏まえてスポーン地点を特定するのは、ほぼ不可能と言っても言い過ぎでは無いのだ。

 そんな離れ業をさらっとこなしてしまうアイラの、このゲームに関する技量は計り知れない。


 閑話休題。水軌達は息を潜めてゴブリンが出現するのを待機する事にした。

 アイラは草木生い茂る森を、水軌は草木灰と化した焼け野原を。

 生と死の境界線で互いの背中同士を合わせている。

 スポーン地点を特定したとはいえ、モンスターが出現する場所には多少の誤差がある為、手分けをして360度くまなく探す必要があった。


「にしても、こんな開けた場所を歩いてよく初心者狩りに襲われなかったと思うよ。運が良いな、俺」


 何人の気配もない静謐な森の焼死体を眺めて、ぼそりと呟く水軌。


「私と共に行動していたからだと思う。これだけ初心者狩りを殺していればギルド内でも私の事が噂になっているだろう」


 ふん、と鼻を鳴らすアイラ。

 初心者を騙す為にあえて、自身のレベルを1まで下げている初心者狩り。

 レベル475のアイラにとってレベル1の雑魚をさいなむ事なんて容易い。

 そんな事を話していた矢先、水軌の前方で幻怪な現象が生じた。

 水軌の一寸先は焦げた木片と墨で染めた程黒い土しか無い、何度も見た光景が広がる。

 しかし一つだけ異なる点が生起していた。

 生命の気配が一切ない、見た人を一瞬でブルーな気持ちにするどころか程無力感漂う森林火災の跡に、キラキラと光る粒子? が散らばっていた。

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