2. アフレコの闇

 不思議だな、どうして彼女はあんなこと言ったんだろう。


 彼女を車で駅まで送ったあと、篠崎はずっとそのことを考えていた。……伊勢崎ナミ。本当に普通の女の子、なのに。だけど、普通とか普通じゃないとか、問題はそんなことではなかった。現に自分だって――一介の声優とはいえ、至極普通の人間だ。むしろ、そっちの方が問題じゃないのか? この現実世界における、それぞれの立場や居場所。あるいは歩いてきた人生の道のり。そういうものをすべて取っ払った所にある、もっと別な何か。そういう深層から湧き起こる何かが、自分を彼女に引き付けているんじゃないだろうか。


 それよりも、差し当たっての問題は彼女ではなく、そう、ひとみだ。彼女が心配するのも無理はない。昨日からずっと、ひとみと連絡が取れていないんだ。昨日の神社でのお祓いが済んだ後、一人暮らしの自宅へ彼女を送った。だけど。それ以降、ずっと彼女の携帯に連絡を取ろうとしているのに、一向に返事がない。やっぱりおかしい。そう思いながら藁にもすがる気持ちで、俺は……。


 きっと伊勢崎さんとなら、何かの解決の糸口がみつけられる。事実、彼女と色々な話をして、彼女が今置かれている状況、それにルミナスのスタッフの一人に加えられた、友達の神代さんのことなど少ないながらも現状が把握できた。やっぱり竜崎監督、あの人は一体何を考えているんだ。


 ルミナス・コードの一ファンとはいえ、素人同然の彼女を巻き込むなんて。一体どういうつもりだ。そうは考えても、それ以上、思考がどこかに進むわけでもなかった。篠崎は一人歯噛みした。まったく、すべてが霧に包まれている。


 それより、なぜだか彼女のことが酷く気になる。伊勢崎ナミ――、さんか。篠崎聡己の中で何かがグルグルと廻り始めていた。それは一声優と世間一般から認識されているであろう己自身を確かにどこかへと引き込もうとする不可解な力。


 あの時一瞬、彼女の眼差しに吸い込まれそうになった。どうして……。ひとみとは違う、もっと別な純粋な眼差し。ひとみが太陽なら、きっと彼女は月だ。そういう控えめで陰性の力を持つ光。きっと誰も気付かないだろう。でも、確かにあの時、自分は彼女に引き付けられそうになった。昨日のお祓いの時から、ずっと気になっていた。いや、もしかしたら初めて会った時から……。なぜ彼女が、このルミナス・コードという作品にこうして引きずり込まれてしまったのか、何となくだが、その理由がほんの少しだけ解るような気がした。でも、どうして――。


 不思議と篠崎は、先ほどの彼女のあの何気ない眼差しを、忘れられずにいる自分自身を感じていた。そのひとみの奥に揺れる光。


『ごめん――急に手が動いて……』


 そんなまるで白々しい言い訳に、自分自身戸惑った。手を握る以上に――、最近知り合ったばかりの女の子の髪に触れるなんて。でも。確かにすごく嬉しかったんだ。だから、つい? 彼女の髪を撫でてしまった? だけど……。人知れず篠崎はかぶりを振る。


 俺は何をやっているんだ。ひとみが大変なこんな時に――。けれど、その罪悪感ですら次第に闇の中へと薄れていくなど、その時の彼には想像だにできなかった。


     *


 ……代、クン。かみしろ、みれい君。

「ああああぁ、もう! るっせぇなあ!!!」


 未玲は執拗に自分の名を呼ぶその声を振りほどいた。しかしハッと我に返って見やると、助監督の相澤が表情をヒクつかせて、未玲の傍らで苦笑していた。


 今日はルミナス・コード第二期のアフレコ当日である。その日の午後、都内某所の録音スタジオの小会議室にて、またしても未玲と相澤は二人してアフレコ台本の最後の調整、見直し作業に入っていた。は、調整? 見直し? だってもう台本はこの通り出来上がってるじゃないのよ。この期に及んで何をこの優男と話すってのさ。


「だからさ、今日が文字通り最後の詰めのチャンスってこと。役者さんたちも、そろそろスタジオに集まってる頃だし、現場アフレコに入れば、もっと具体的なリテイクもあるだろうし。君ももう少し真剣に取り組んで……」


 相澤がそう言い終わらないうちに、あたしは凄い形相で相澤を睨み、苦笑いしながら言い返した。


「えーえーそりゃもう真剣にやってますよ、ホントこれ以上ないってくらいにね!」実際、未玲は真剣だった。そう、あたしナミを、こいつらから引き離すことに。


 というか、さっきまで未玲は心ここにあらず、という感じだった。とにかく頭の中がモヤモヤしていた。なんでナミは昨日、朝からずっと連絡が取れなかったんだろ。まさか……未玲がそう考えるのも無理はなかった。勿論、ルミナス関係のスタッフには全て確認は取った。無論、大元締めの竜崎と円城寺にもだ。でもその日、不思議とナミの消息は誰からも窺い知れなかった。ネプチューンのやつらに捕まっているのでなければ、何の問題もないはずだった、それなのに。


 それでも未玲の胸にかかった霧は晴れなかった。というか、どう考えても……、未玲は一昨日のお祓いでの篠崎聡己とナミとのやり取りの一部始終を、その目でしっかり見ていた。そして、自分でも不可解な感情に見舞われた。というより、何となくナミに隠し事されているような気さえする。


 やっぱりあたし、どうかしてるんだろうか?


 そんな風にぐるぐる考えていた矢先に、相澤から何度も声をかけられたもんだから、怒り心頭、つい大声を出してしまったのだ。


「というか、勿論今日は、監督と円城寺は来るんだろうね?」


 とりあえず、そう念を押す。きっとあたしの脚本ホンが気に入らなかったもんだから、わざとあたしとコイツを二人きり居残りみたいにさせて――、それでまた、どこかで二人して油売ってたりしたら、容赦しないからね! すると相澤は、待ってましたというように、間延びした声で答えた。


「勿論だよー何せ、大事な第一話のアフレコだからね。きっとそろそろ伊勢崎さんも――、」


 ――なにぃぃぃ!!! 相澤の発したその名に反応し、思わず未玲は大声を張り上げた。今にも目の前の優男の首ったまを引っ掴まんばかりの勢いで。その頃あたしは、面会人が来ているからと呼び出され、終業間際の職場に突然現れた円城寺に、今さらながら絶句していた。


     *


 ……何となくどこかで、そんな予感はしていた。


 そして、あたしの予感通りにアフレコ当日、現れた円城寺冬華。ていうか、あたしの職場に堂々と。それより、いつ調べたのかということの方が気になるし、やっぱりちょっと怖い。でも、そんなことどうでもよくなるくらい、あたしは若干戸惑

いながらも円城寺の出迎えを受け入れた。受け入れてしまった。


「ごめんなさいね、でも……あなたとしても、やっぱり気になるんじゃない?」

 ふふっと確信犯的に微笑する円城寺。そのサングラスの向こうの瞳が妖しく輝いた。


「ね、伊勢崎さん、誰?」


 隣の席に着いていた同僚の女子が、目の前の妖艶なおかつ洗練された佇まいの謎の美人を見て小声で囁く。ううん、何でもないから……そう言いつつ、既に五分ほど退社時間を過ぎていたこともあって、あたしは堂々と円城寺氏に連れられていった。むしろ連行――、巧みに作られた和やかな雰囲気の中にあっても、あたしとしてはそういう感じの方が的を得ていた。だけど、なぜか今回ばかりは。やっぱり昨日の篠崎さんとのことがあるんだろうか。どこかで、あたしに助けを求めていた――そんな風に考えるのは、ちょっとおこがましいし、第一あたし自身に何かができるなんて、とても思えない。でも。


 あたしが行って、一体どうなる。けど円城寺氏は、あたかもあたし自身の存在が、このルミナス・コードに必要不可欠だ、みたいなことを以前言っていた。未だにそんなことは微塵も信じられない。それに、その言葉自体が何か罠みたいに感じられないこともない。だけど未玲や、それに今度は篠崎さんのことがあって、何だかんだで、やはり今回も言葉巧みに騙されてしまうんだろうか。――いや。


 やっぱり、あたしは行かなきゃならない。ほとんど確信と言ってもよいような直感が、あたしの背中を後押しする。もしかしたらそれは、篠崎さんを放っておけないという気持ちから来るものだけなのかもしれない。でも、きっともっと、何か大きな流れみたいなものの中で自然と引き付けられる何かがどこかにあって。本当にそれが何なのかも、未だまったくわからないけれど。


「……さ、」


 ロータリーに停めてあった円城寺の赤いクーペに勧められるまま二人して乗り込む。もうそろそろ一話のアフレコが始まるわ、その言葉に思わず緊張する。あたしは思っていた。昨日の篠崎さんとの話……まるで操り人形みたいに、台本を貰いルミナスというキャラと向き合った途端。実際に演じる以前まえから何かに取り込まれるような感覚。自分ではない、何か誰かに魂ごと身体を乗っとられるような……。


 きっと篠崎さんはもう取り込まれてしまってる。まるで悪夢みたいな、その運命の連鎖。その半ば半覚醒のような意識の淵で、ようやくあたしに連絡することを思いついた。そんな気がする。でも、どうして――どうして、あたしなの。


 なんだかこれじゃあ、ほんとに作中の瑠美那みたいだよ。


     *


 都内某所の録音スタジオ。それほど広くもないスタジオ内には、既に主要キャラと、そしてゲストキャラ役の各声優たちが、それぞれ第一話の台本を手に集まっていた。その中で一際ひときわ目を引きながら、なのに誰よりも神妙に畏まっている端正な顔立ちの二枚目声優が一人。そしてその傍らで、ほとんど何も喋らず俯き加減で寄り添っている若手女性声優。主演のルミナス役の篠崎聡己と金城瑠美那役の水澤ひとみだ。


「篠崎君、それに水澤さんも、お久しぶり」


 そうにこやかに微笑みかけるのは、ツクヨミ役の男性声優、寺嶋彰である。女性的な役柄通り、たおやかな雰囲気の、しかし非常に人を見る目を持った篠崎の二年先輩の実力派声優。今回ツクヨミはモノローグでしか出てこないはずだが、やはりそこは本作の人気を二分するキャラだけあって、しっかり現場に顔を出している。


 お久しぶりです……、篠崎はあくまで控えめに、そう答えた。そして不思議に俯いたままだった隣の水澤も篠崎に呼応するようにして、小首を傾げるように、にっこり笑った。ほんと久しぶりだよね、このメンツ。やっぱりルミナスだけあって他とはちょっと違う緊張感がたまらないね。そんな風に話す寺嶋は、何ともないんだろうか? 思わず篠崎は、その如才ない先輩の顔色を伺う。ん?という表情を向けて寺嶋は、その細い目をさらに細くさせた。慌てて篠崎は視線を前方に逸らす。


 見ると、既に三台ほどしつらえられた眼前のTVモニターに何やら試験的な動画が映し出されている。一般的なTVアニメはよほど制作環境が整っていない限り、アフレコ時に色付の動画が見られることは稀かもしれない。それくらい厳しいスケジュール体制で制作されているということ。それでも一つの大手アニメスタジオが抱える作品数は多岐に亘るといえ、近年躍進めざましいスタジオ・ネプチューンは、文字通りこのルミナス・コード一本に今期、時間と労力とを集中させていた。つまり、それだけの人気作ということだ。


 それでも、これだけ制作状況が逼迫し、スケジュールそのものが遅れているというのは……。


 篠崎は今回の二期の脚本シリーズ構成に、彼女伊勢崎ナミの友人である神代未玲が参加していることを思い出した。そういえば、確かにそんな名前がスタッフリストにあったことは知っていたが、まさかそれが素人同然の女性であるなどと。普通だったら、そんなことは実際考えられない。ある程度この業界での仕事の経験がある者にその資格が与えられるはずだ。


 伊勢崎さんのことといい、一体監督は何を考えているんだ。改めてそう思いつつ、それでもメイン・シリーズ構成の円城寺冬華の独自の采配に支えられ、確かに新しい何かを感じる話の筋に、心なしか感心してもいた。要するにプロの目線ではない、もっと斬新な新しい息吹が欲しかったということか。容易に考えられるそんな裏のシナリオ。でも、そうだとしても、何かがやっぱりおかしい。


「それより水澤さん、今までどうしてたの?」


 何ともいえない独特の個性が天然さまでをも醸し出す寺嶋に、そう無心に尋ねられる。勿論、彼は彼女と篠崎が恋人同士だなんてことは一切知らない。


「あ……知らなかったんですか、寺嶋さん。彼女はここの所、体調が芳しくなくて、ずっと休養してたんです」


 思わず口を突いて出る、当たり前の本当のような嘘の偽装発言。あーそうだったの。それは大変だったね……。確かに病み上がりみたいな蒼白の表情の水澤ひとみを見て、あたかも心配そうに気遣う寺嶋。そんなやり取りを、周囲はそれと気付かれない様子で、ひそひそと囁きながら盗み見ていた。


 ――やっぱり、水澤さん……わかんないわよ、そんなこと。そうだよな、だって篠崎さんってば。


 まるで暗黙の公認の仲だとでも言うように、二人を恋人同士だと知る面々が好き勝手に囁き合う。人知れず、そんな皆の好奇の目に晒される人気声優二人。まるで劇中のルミナスと瑠美那の面影は、そこには一切なかった。あるのは、この数奇な物語に弄ばれ疲弊しきった、そして文字通り魂を抜かれたような二組の男女の姿だった。


 そんな何か霞がかったような、がやがやとしたブース内の様子を録音機材のコンソールが並んだ室内で伺う色黒のオールバックの男と、そしてもう一人、スラッとしたスリム体型の、まるで俳優と見紛うばかりの美形優男。総監督の竜崎悟朗と、そしてようやく新米脚本家の神代未玲のお守りから開放された助監督の相澤太一である。


「いやー……ようやく始まりますねぇ」


 感慨もひとしお、といった風情で相澤が口を開く。ったく一時はどうなることかと思いましたよ。実際、脚本作業は遅れに遅れていた。だが、それは今回の二期の白眉ともなる必然的必要性でもあった。確かに今回は神代君と伊勢崎さんがいないと始まらないんですけどね、そんな謎の言葉を相澤は投げかける。


「で、その肝心の……」

 伊勢崎君は――、と竜崎が言いかけようとするのを遮るように、相澤は言った。

「もうそろそろ着く頃ですよ。きっと円城寺さんが上手く話を合わせてくれてるでしょうし」


 だが、何となくそんな必要はない気がした。一昨日の篠崎とナミの様子を見るにつけ――竜崎は異様に視線を鋭くして、眼前のブース内の片隅で畏まる篠崎と水澤両名を舐めるように視姦した。オタクとかオタクでないとかは関係ない。そうであろうと男は男、そして女は女。近年めざましく世間一般から注目を浴びている声優という職業も例に漏れず。


「ところで、神代君はどうしたの?」


 思い出したように相澤に尋ねる。ああ、それが……伊勢崎さんの名前を出した途端、血相変えて飛び出していきましてね。若干引きつった表情の相澤を気の毒に思いながら、またなんてことを。そう思いつつ、ちょっと面白そうに唇の端でニヤと笑う。どうせこれから実際に現場の手直し作業のリライトがあるんだし、彼女にも、ね。実際のアフレコ現場でのルミナス二期の醍醐味を味わって貰うのも悪くはないだろう。


 元腐女子だろうと何だろうと、女は女、か。まるで蛇みたいな執拗さが、もしかしたら世の真理にはあるのかもしれなかった。


     *


「やだな、寺嶋さん。水澤さん一ヶ月前のお披露目イベントでも大活躍だったじゃないですかっ」


 そう快活に話しかけるのは、石室聡介役の神崎まことであった。さすがに劇中での因縁のパートナー同士だけあって、ボケとツッコミの絶妙な間柄の二人である。ああ、ごめんごめん。寺嶋が面目ないというように、なぜか後輩の神崎を立てる。


「ね、霧江さん」

「そうだったよねーやっぱり歌も上手いし、ちょっとあこがれちゃうな」


 そう返すのはクロエ役の霧江可奈。彼女は水澤のような華々しい活躍をするタレント並のヴィジュアルタイプの女性声優とは違い、縁の下の力持ち的演技の幅で、人気こそそれほどでもないが、どこか名バイプレイヤーそのものの実力と絶妙な雰囲気を持った文字通りの絵に描いたような役者だった。本ルミナス・コードでは、水を打ったような沈着冷静さが印象的な厳しい女剣士役であるが。


「でもクロエだって一期は結構いい線いってたじゃないすか」


 あはは、そうだねえ。アグニがあんなことになって、ちょっと可哀想な気もするけど。それにクスヒ様には結局、全然かまって貰えないしね。そう言いつつ、篠崎に冗談半分ウィンクしてみせる。はあ……これだから中の人は、などとあからさまにファンが漏らすような感想は勿論、声優同士では日常茶飯事なこともあって別段何とも思わないんだけど。それでも篠崎は、そんな何気ないやり取りに少しだけほっとする。


 けれど同時に他の役者たちは、たいして何の支障も影響も受けていないようだという事実を目の当たりにしてもいた。じゃあ、やっぱり僕とひとみだけが……。やはりルミナスの根幹に直接関わるルミナス自身と、その巫女であるヒロインだけが。これは一体どういうことなんだろう。


 本当は神社でのお祓いだけじゃ済まないんじゃないだろうか、ちょっと霊媒師イタコでも呼んで貰いたいような気になる。いや、霊媒……まてよ、


 ふと篠崎の脳裏に何かが閃いた。俺がルミナスを演っていて感じるあの感覚。自分自身が自分でないような、ふわふわした……それに、伊勢崎さん。急に不安になる。まさか。奇しくも一期劇中でルミナスは瑠美那と一つになり、デュナンという別の肉体を得た。そうだ、“ヤツ”は他人の身体を乗っ取るんだ。そうなんだろう……。


 今頃気付いたのか、愚かなヤツめ――そんな声が空耳のように、どこかからか聞こえたような気がしたのは気のせいだろうか。


 そんな風に思い巡らせていた次の瞬間、ブースの外の録音室の扉が突然開いた。そして背の高い美人に連れられた、さして目立たない平凡な風情の一人の眼鏡っ娘の姿が目の端に映った。


「伊勢崎さん……っ」


     *


「どうも、皆さんお疲れさまでーっす」

 さて、という感じでブース内に入っていった相澤が各声優陣に、こなれた調子で挨拶する。


「どうも、初めまして。今回ルミナス・コード第二期、『くれない記憶ミラージュ』で助監督を務めさせて頂きます、相澤太一と申します。色々と不慣れな部分もあるかもしれませんが、どうぞよろしくお願いします!」


やはり現場は相澤の独壇場のようだ。そういえば相澤はこの業界に入る前は、何かのマーケットの営業みたいなことをしていたらしい。加えて、その界隈では人気の占い師だったという知られざる事実まで。


 そんなどうでもいいことを思いつつ、巧みな話術でどっと場を笑わせ和ませる相澤の背中を感心しながら眺め、竜崎は思い出したように背後にやってきた円城寺と、まるでウサギのようにその場に畏まる小柄な細身の女性に振り返った。


「ご苦労様……」


 っと、伊勢崎サンお久しぶり。こっこんにちわ!思わず立ち上がり一礼するあたし。そんなに恐縮しなくていいから、ホント楽に見学してていいよ。その竜崎監督の言葉に、ほんとにそれだけでいいんだろうか、とあたしは思った。室内の片隅の席に落ち着いて改めてブース内を見やる。あ、篠崎さん……各々の登場キャラの説明と細かな演技指導を受ける声優陣の合間に見え隠れして、その姿があった。勿論、傍らにはヒロイン瑠美那役の水澤ひとみ。


 その二人の姿を見て、何となくだけれど、ぎゅっと胸が締め付けられるような心地がした。自分でもよく解らない、この異様な感覚。やはり昨日の篠崎さんとの密会が功を奏したのだろうか。昨日一日だけのあれは誰も知らない、あたしと篠崎さんだけの秘密の会話。そのことを特別な理由にするわけじゃないけど。だけど。


 急に真っ赤になって一人あたしは思った。


 あはは、碌に男と付き合ったこともない喪女が何やってんのさ。誰かがどこかで笑う声がする。そうだよね、あたしって、すっごく変。いい歳してアニメのキャラに熱あげて。だけど、この胸の鼓動は、心の動きは、別に何だってよかったのかもしれない。そういう言い方はちょっと誤解生むけど。


 あたしが手を伸ばしたかったのは、本当のあたたかい体温。あたしを抱きしめてくれる優しいかいな――きっと誰だってそうだよ。独りでも、そしてたとえ誰かといても、どうあっても思い通りにならない、そんな誰もが抱えるうつつの病。ただ現実で実現しないなら、別の何かで代用するしかない。別にそんな悲しい理由じゃないけどさ。ただ想いの矛先がそのまま、まだ見ぬ遠い誰かを思ってきかないんだよ。


 だったら、もっと自分に素直におなりなさい……。


 ―――あたしの中の誰かがそっと囁く。そこから出て、早く新しい扉を開くの。そんなわけない……そんなわけないじゃない。そんなこと、あるわけ。必死に否定する理性とは裏腹に、何かの気配が胸のうちで蠢く気がした。ドクンドクン、いつしか心臓の鼓動が鳴り止まなくなっていた。


「伊勢崎君、どうしたの?」


 再び振り返り、そう何気なく訊く竜崎に、なんでもありません、平静を装って答える。でももう、既に自分の中の何かの準備がスタンバイOKであるのを、当のあたしは何も知らなかった。


     *


 どうして彼女が……。助監督の相澤の説明を受けつつ時折、背後に気を配りながら、篠崎は気が気ではなかった。たとえ一昨日のお祓いに参加したファンとはいえ、一般人の彼女がこの場に駆けつけること自体、やはりどう考えても、おかしい。


 篠崎君、今はそんなこと考えてる場合じゃないわよ。円城寺は一人思っていた。というか、もうすぐ本当に、そんな場合じゃなくなるんでしょうけどね。しかし、不思議と今回はシンクロ具合が鈍かった。やはり彼女との間に何かあったのかしら? 元々そうなるように仕向けたわけではないんだけど。でも、実質的に彼と彼女は。皮肉ね、あなたたちがそうやって心を通わせることが、結果的にルミナスという真実への扉を開く切っ掛けになる。冷たい微笑を浮かべながら、ちらと円城寺はあたしを見やる。


 さながらイザナギとイザナミは、日本神話におけるアダムとイヴだった。けれど火の神カグチツを産んだため命を落としたイザナミは早々に黄泉の国へと退場する。彼女を追ってきたイザナギは醜く腐敗したイザナミの姿に恐れおののき――そして二人の間に思わぬ夫婦間の確執が生じる。神々が隠れるとされる熊野や出雲には、どことなく黄泉の国のイメージがある。実際、アマテラスやスサノオ、そしてツクヨミを生み出したのは、イザナギである。が、その背後に厳然として存在する、イザナミの亡霊。まるでそれは、日本国土を包み込むように存在する海そのもののようだ。


 竜崎は、そんな隠された存在であるイザナミの呪縛に、今さらながら一人思い馳せるのだった。


「ナミ……っ!!」


 そんな折、唐突に未玲がスタジオの扉をばん、と開けて入ってきた。やれやれ、そんな呆れた調子で、いかにもめんどくさそうにそちらへ振り返る竜崎。あんたら一体何やってんの、さ……、そこまで言いかけた未玲の口は立ち上がり、つかつかとやってきた円城寺の手に塞がれた。


「もー神代さんたら、何やってるのよ、もうテスト始まってるじゃない!」


 そう大袈裟に皆に聴こえるよう諭す。音響監督も既に度肝を抜かれている。さ、いいから、あなたは現場にお入りなさい。ほとんど押し込むようにブース内の扉を開けて追い立て御丁寧に鍵まで閉める。ばんばん!と未玲は、おかまいなしに内側から、ぎゃあぎゃあ言いながら不服そうに防音ガラスを叩くも、場の空気を全く読まないその剣幕に、気付いた相澤に奥へと連れて行かれた。さすがに声優たちの目に晒されると彼女は途端におとなしくなった。


 くっそ……みてろよ。未玲はギリギリと歯軋りして振り返る。ごめん、未玲。相変わらず収まらない胸の鼓動を抑えながら、目線だけで、あたしは謝る。そんな冷たくも静かな攻防戦が繰り広げられる中、ルミナス・コード二期第一話のアフレコは着々と進められようとしていた。


     *


 なんで、どうしてだよナミ……。


 だが、やはり未玲には納得いかなかった。あれほど彼女には、この作品に金輪際関わるな、と言って聞かせたっていうのに。確かに円城寺たちに今回も無理やり連れてこられたのかもしれない。それを最後まで阻止できなかった自分にも責任はある。それ以上に、未玲はやはりナミ自身の心の変化を疑っていた。嫌なら嫌と言えたはずだ。勿論これまでのように、不可思議な引力が文字通りあたしたちを、このルミナス・コード自体に引き付けたのかもしれない。けれど……。


 目の前のモニターに向かい、台本を手にした数名の声優が、何度か代わる代わるマイク前でテストを繰り返す。本作の主役であるルミナス役の篠崎聡己の出番は、もうすぐだ。そして、そのあとすぐに控えているヒロイン瑠美那の第一声。


 だめだ、激しく波打つ心臓の鼓動が停められない。その時、篠崎はこちらも異様な胸の高鳴りを、文字通り人知れず感じていた。やっぱり来るのか……あいつが。


 一年前にようやく終わったと思った恐怖の瞬間の連続。それが再び始まろうとしている。それに今回は、なぜか声優やこの業界とは一切関わりのない一般人である伊勢崎ナミが、この場にいる。そうだ、ひとみは……篠崎が見やると、隣の席に着いた水澤ひとみは、相変わらず抑揚のない調子で台本を開き、覚えたての台詞を、ぶつぶつと一人繰り返していた。さっきまでぐったりしていたかと思ったら。すると俄かにその眸に異様な光が宿り始める。……っ!


 しかし、篠崎が覚えていたのは悔しいかな、そこまでだった。

「はい、ラステス、いきます」


 音響監督の声がマイク越しにブース内に響く中、新たなるルミナスの舞台が次第に、その場に集うプロの声優陣によって巧みに形作られていくのだった。


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