3. 物語のゆくえ

 一体未玲は、二期でどんなルミナス・コードを作りたかったんだろう。


 あたしは、どうしても一期のラストが思い出せなかった。あれほど当たり前のように自分自身の中で議論していた、衝撃的なラストの展開だったっていうのに。なのに。目の前では既に二期の本編が今こうして滑り出そうとしていた。


 ……あれっ? そういえば、睦月がいない、そう兄の真吾の方。あの声優さん、ちょっとよかったと思ってたんだけどな。あんなに瑠美那を大切にしてくれてた、文字通り、いい人だったのに。それにヴェルトーチェカ。え、なんでそんな立ち位置なわけっ。あとやっぱりデュナンは拉致られたリリアンを追ってアマテラスの学園を飛び出した。まあ、やっぱり後半はガイアでの戦いがメインになりそうだったからね。結局、勾玉オーパーツも取られちゃったし。しかし白のメシアのリュシーさんは根っからの鬼畜だなぁ……。


 そうやって待望の二期を、こうして誰よりもいち早く堪能しているあたし。それも、生の声優さんたちの熱演込みで。なんという眼福もとい耳福。それだけなら今までと何の変わりのない熱心な一アニメファンだった。でも。


 ――そしてカグツチの血を分けたアグニも勿論、一緒。そしてクロエもね。肝心の主役級ヒロインの瑠美那は、やっぱり主役だけあってガイアに旅立ってしまった、もう一人の自分であるデュナンとは別の意味で、イザナギ本国で自分自身のルーツである父親との絆に向き合うことに……。そして、アグニやクスヒ様と一緒にいることに耐えかねたクロエは、その後瑠美那と合流ってか。そして本当の意味で、それぞれの二人の皇子を大切に思う気持ちを新たに。それにツクヨミと聡介は。


 ――本当、どうなっちゃうんだろう、この先。


 でも、そんなただのあらすじみたいなものの感想は、文字通りどうでもよかった。まあ、普通に面白いんだけど、ね。それより何より、今目の前で繰り広げられてる、確かに肝心の動画自体も音楽もないけど、生の声優さんたちの迫真の演技。ああ、やっぱりすごい。キャラクターに命を吹き込むっていう言葉の意味が身をもって感じられる。


 そう、本当ならあたしは今頃、そんなアニメファンであるオタ丸出しの感嘆にまんま耽っていたはずである。だが、しかし……。


 突然、強烈な眩暈めまいに襲われる。吐き気がする。ドキドキと脈打つ鼓動だけが聴覚を支配して。手足の感覚もないままに、唐突に無重力の宇宙に放り込まれたような異様な感覚にすべての五感が奪われる。


 あれ、ここってどこ。いつしか、あたしは自分が録音スタジオではない別の場所にいることに気付いた。何だか体がふわふわして、自分が自分じゃないみたい。それに……手も足も、気付けば自分の身体が見回してもどこにも見当たらない。何だかこれって――俗に言う幽体離脱ってやつじゃ。そのうち目の前に広がる映像スクリーンは、いつのまにか別の場所に移っていった。


「何をしているッ、お前たち!」

 何だか聞き覚えのある、凛と響きわたる、痺れるようなよく通る低い美声が、辺りの空気を圧した。


 あれって――ル、ルミナス……っ。


 不意に目の前に例の黒髪の長身の麗神が現れたような気がした。おかしいな、やっぱり夢見てるんだ、あたし。それは二次元とか三次元の区別なく、それを見ている心が心として感じる――、それより篠崎さんと水澤さん、大丈夫かな。ああ、それに未玲。ふと眼下を見ると、見慣れたアフレコ・スタジオの風景が立体的にそこにあった。そこで懸命に演じている各声優さんたち。そしてマイク前で台本を構えた篠崎さんも。


 ああそうか、篠崎さんが喋ってるんだ。それは確かに個人的にも、とても聞き覚えのあるルミナスの声だった。

「お前たちじゃないわよ、ルミナス!アンタこそ今まで何してたのよっ!」


 その、これまでにないほど意気揚々とした快活な明るい声は、確かにこちらも聞き覚えのあるヒロイン金城瑠美那のものだった。あー何だかスカッとする。やっぱり、それでこそ瑠美那って気がするよ。えっ……ということは、瑠美那役の水澤さんは。


 眼下を見ると、いかにもらしいカンジで瑠美那役の水澤ひとみが、これもマイク前でピンと背筋を伸ばし、特徴のある明朗な叫び声を高らかに発していた。ほぇーっすごいや。と、視線を微妙にライトの当たったブース内から薄暗い録音室の方に移すと――じっと聞き耳を立てる竜崎や円城寺、そして音響監督に混じって席に着くあたしの姿が……。


『………ッ』

 あたしは俄かにぞっとした。


 その眠るように気を失った自分自身の姿を発見した途端、いきなり意識が混濁し始め、唐突に頭がぐらぐらし始めるのだった。


     *


「ナミっ……ナミッ!!」


 未玲は狂ったように目の前の防音ガラスを叩いていた。その向こうでは、ぐったりしたあたし伊勢崎ナミと、さも当然の如く前方の声優たちの演技をシビアにチェックする竜崎監督と円城寺冬華の姿。どういうことだよ……。呆然とする未玲には、一体何がどうしたのか正確に事態を把握することも叶わなかった。


 目の前のマイク前では今までの鬱屈した様子が嘘のように篠崎と水澤が、生き生きと水を得た魚のように、それぞれ自分の役柄であるルミナスと瑠美那とを演じていた。やはりプロの仕事は違うな……そんな少し前までは、TV番組の紹介などでファン側の意識でいたはずの素直なアフレコ現場の感想も、実際にその場を肌で感じると全く違って感じられた。それは、まさに闘いだ。あたかも、もう一人の自分自身と戦うかのような。その一人一人の演技のせめぎ合いが、複数間だとさらに多面的に増幅される。そのまさしく火花を散らすかのような化学反応が、ものすごい。


 いや、そんなことはこの際どうでもいい……だがしかし、実際はそうでもなかった。こんな風に水澤たちが活発に迫真の演技ができるのは。このルミナス・コードに限っては。やはり何かが不思議に神がかっていた。誰かの身体に乗り移れば、確かにもう一人の自分になれる。新たな自分自身として生きられる。そう、もしかしたら今ナミは、文字通り目の前の水澤ひとみ演じる、金城瑠美那として生きていたのかもしれない。

 

 ――そう、あたしは確かに今、金城瑠美那だった。これまでTV画面を通して感情移入していたのと同様。いや、もしくはそれ以上のシンクロ率で、文字通りあたしは今、瑠美那として生きていた。そして目の前には、篠崎聡己演じる、いや彼の呼吸や鼓動をその糧として生き永らえる日神ルミナスが……こんな話、きっと誰も信じないだろう。ううん、それはあたし自身が信じたくない事実だった。だって既に生ける屍と化した水澤ひとみの身体を乗っ取って、あたしは。そして傍らでは篠崎さんが、やっぱり誰か違う人格に乗っ取られているかのように、嬉々とした表情で冷酷な様のルミナスを演じている。


 ダークヒーローと宿命というその数奇な運命に翻弄されるヒロイン。それも表面上の認識では、それは悲恋、いや悲哀と称される愛……それでも、やっぱり瑠美那は、ルミナスという呪縛から逃れられない。その仮面の下の真実に気付いてしまったから? いいや、それ以上に。


 それは文字通り、あたし自身が瑠美那として直にルミナスに触れて感じたのものだ。いや、これからもっともっと、それを身をもって感じることになるのだろう。決して理屈では説明できない、まさに混沌としているけど、どこまでも世の真理に近い、その生の感情。


 それはあたかも、すべてを飲み込む闇のようでもあり、同時に奇しくも命のゆりかごである子宮の如くの母なる海のようでもあった。生の誕生は、その暗闇の中から始まる。誰もが皆、その闇を経験して生まれてきたんだ。そして誕生の瞬間、光が満ちる。「光あれ」そう天地創造の神は言った。一生に一度しかない、その究極の光を感じる瞬間。


 だから本物の闇は怖い。怖いと感じる思いが、その反対の死を常に人に怖れさせてきた。でも、本当は逆なんだ。本当は怖くも何ともない……そう思い込んでいるだけ。でも、それでも、やっぱりそのことに気付くには随分と時間が必要なんだろうけれど。


     *


 別段、何か特別な原因があるってことでもなかった。けど、あたしはずっと以前から、何かの病に取り付かれていたんだ。実際、高校で未玲に出会うまでは、ずっと友達というものが作れなかった。怖かった。自分自身を取り巻く、世界のすべてが。それを言葉で表現するのは、とても難しいけど。けれど、実際あたしは、幼少期から自分だけの世界に閉じこもり。そこで想像の翼を広げることが、あたしの中のすべてだった。


 幼い頃から多種多様に見続けてきたアニメ作品の数々。それが確かに、一人ぼっちのあたしの孤独な心を救ってくれた。空や海を感じることも、そして友情や恋も冒険も、その中で想像することだけで、すべて事足りた。心は、いつだってそれだけで十二分に満たされた。


 そう……どうせそんなこと、単なる引きこもりの隠れ蓑に過ぎないってこと解ってた。第一、二次元萌えじゃあ恋に恋する乙女レベルでしかないよ。いや、それ以下か。でも。恋愛云々はともかく、あたしの心は、そんなものに救われてしまうほど絶海の孤島に幽閉されていたんだ。ずっとあたしの周囲には、見えない冷たい壁が張り巡らされていた。それを作り出したのは、もしかしたら、あたし自身だったのかもしれないけど。


 ここにこうしている間は、あたしはものすごく自由だった。誰も何も、あたしを責めたり怖がらせたりしない。自由に手足が動き、言いたいことを言えた。でも――これじゃあ、まるで身体障害者みたい。どこにも行けず、何一つ満足に自由に行えない。だから一種の精神疾患なんだ。怖い、と怯える感情が、すべてをぎこちなくさせた。何より自分自身を誰かに意識されることが怖い。見られることが、そして見ること自体が怖い。できるなら、この世界からいなくなりたかった。消えてしまいたい。淋しいとか、ひとりぼっちとか考えるその前に、あたしは人の間に自分がいること自体が怖くて、とにかくここからいなくなりたかった。どうして――。


 そんな時だ。未玲と出会ったのは。勿論、最初はオタ絡みの接触だったかもしれない。それにしては、未玲は派手に目立つ外見や立ち振る舞い自体が独特だったけど。実際あたし自身、未玲と友達になれるなんて最初は思ってもみなかった。それでも、未玲も様相は全く違うけれど、あたしと同じ孤独を抱えていたのかもしれない。だから、とてもそうは思えないけど、彼女もアニメなんかの想像の世界に遊ぶ趣味たのしみを持っていたんだ。


 だけど、でも……そんなのは本来誰だって経験できる楽しさなのかもしれない。


     *


「もう少し瑠美那の台詞に説得力が欲しいな」


 神代君、神代君ってば。(彼にしては珍しく?)助監督らしくアフレコ現場の指揮を執る、きびきびした相澤太一の言葉に、未玲は現実に引き戻された。見ればナミは普通に席に着き、何事もなかったように、こちらを見学している。まさか、夢……だったのかな。そこは何の異常も感じられない、当たり前のアフレコ現場に戻っていた。ルミナス役の篠崎も、そして瑠美那役の水澤ひとみも、何の違和感もなくアフレコ作業に没頭している。未玲は慌てて手にしたアフレコ台本を見直した。


 何かもう少し……そう、分離したルミナスを気遣うような。そうか、二期ではデュナンとルミナス形態とで、いうなれば一粒で二度楽しめるような展開にしたんだっけ。確かにデュナンとして存在していた方が、ルミナスとしては都合がよいかもしれないけど、そればかりだと本来の神様形態の魅力が薄れてしまう。それに、その方が瑠美那とも直に接触できるしね。


「じゃ……じゃあ、ここのタンカ切る部分を削りますかー相澤カントク」


 そうすれば分数も足りるし。そうだね、そうしてみようか――そんな当たり前のやり取りを、わざとらしく相澤と交わしながら、なんであたし、こんなことしてるんだろうと美玲は改めて思う。それでも、それが今のあたし自身の仕事だ。アニメ業界、脚本家。まるで降って湧いたような突然の抜擢だったけど。でも……まさか、そこにナミが関わるなんて信じられないようなコトさえなけりゃ、絶対に引き受けなかった。というか。


 逆に考えれば、ナミが関係するとなれば、あたしは絶対にこの場から立ち去るなんてことできない。第一ナミを守らなくちゃならないあたしが、どうしてあいつらから背を向けられる。そう、ナミがここにいる限り、やっぱりあたしは。


     *


 やっぱりものすごく疲れた。そう、久々にルミナスを演じた篠崎聡己は、ぐったりとした疲労感を抱え、アフレコ現場ロビーのソファーで項垂れた。それでも、どこかで微妙に以前とは違う感覚が、再びの悪夢に挑んだ精神を支えていた。そう……今回は伊勢崎さんが側にいた。


 そのアフレコ後ひとみは、不思議と以前の水澤ひとみに戻っていた。ほんと久しぶりね、篠崎さん。まるでその時、初めて再会したかのように、“声優仲間として”水澤ひとみは明るく俺に話しかけてきた。どういうことだ……? その普通は当たり前の喜ばしい変化に、逆に戸惑う自分。アフレコ前までは、ずっと魂が抜けたような状態だったのに。それはそうと、伊勢崎さんは。


 竜崎監督と円城寺女史との間にいる彼女を先程見かけた。無事第一回目のアフレコ作業が終了した直後だ。俺とひとみは、最後のちょっとした録り直し部分があったからブース内に残っていたけど。その後、彼女の姿はもうなかった。それより不思議なのは、今回は一期の頃のような同じ脱力感はあったとしても、以前のような、自分が自分でないような、そんな金縛り状態にはならなかった。


 確かにアフレコ時には、自分はルミナスとして存在していたかもしれない。そういう別人格状態とでもいうのか、確かに何かが、どこかから降りてくるような感覚は依然としてあった。よく歌手とか俳優や、あるいは創作系アーティストなどが、その状態をそう表現しているのを見かける。


 何か自分ではない別のものを演じる時、あるいは何かの別世界にこころを飛翔させる時、そういう感覚を感じることはよくある。そんな瞬間、確かに人は神がかった何かに触れるのを感じる。自分のそれも、そういう類のものかもしれない。しかし、それにしたって……この得体の知れない恐怖感は異様すぎる。それでも篠崎は、このルミナス・コード二期を介して彼女、伊勢崎ナミに出会ったことで、確かに何かが変わったことを実感していた。


「あの……篠崎さん、」

 その時、不意に自分に声をかける人の気配を感じて、篠崎は顔を上げた。


 君は……神代、未玲さん。見ると先程、自分たちのいた同じブース内で脚本の手直し作業を行っていた神代未玲が、どこか所在なげな表情で佇んでいた。伊勢崎さんの親友の神代未玲。自分と同じにたった今、アフレコ作業から解放されたところか。


 未玲はずっと何か言いたげな顔をして黙っていたが、その沈黙に自ら耐え切れなくなったように、ようやく口を開いた。


「ナミに……伊勢崎ナミに、これ以上関わらないで貰えませんか?」


 自分でも何を言っているのかと思う。しかし未玲は、そう直接声をかけずにはいられなかった。篠崎は、ビクッとして改めて未玲の顔を見上げた。そのどこか何かを怖れているような、それでいて至極真剣な表情に、篠崎は釘付けになる。やっぱり彼女は勘付いているんだろうか、俺と伊勢崎さんのこと。


 しかし、そんな何かが彼女と自分との間にあるとは到底思えなかった。――いや。それでも、その未玲の強い眼差しを見ていると、自分が何かの罪悪でも犯したような気分になる。


「伊勢崎……さん?」


 その名を口にして、改めて自分が彼女を強く意識していることを実感する。そして不意にその罪の意識から逃れるように、篠崎は途切れ途切れに小さく呟いた。……どうして。どうして彼女は、今日この場所に現れたんだろう。その消え入りそうな呟きを聞いて、未玲は初めて自分が篠崎を責めているような気分になった。そう、あたしは確かに、“彼に嫉妬していた”。ナミを、ナミを取らないで。あたしからナミを奪わないでよ。


 実際奪われたのは、篠崎ではなくルミナス・コードそのものからだったのかもしれないのに。


「きっとあなたも、ナミも、そしてあたしも――、」


 このルミナス・コードの呪縛から逃れられないのかもしれない。自分でも意味不明のコトを言っている気がする。それでも、どこかでそれは、今この時のあたしたち三人を表現するのに最適な言葉のような気もした。


「神代さん……」


     *


 ここにいるのは、自分自身。そして、あたしが見つめているのは、確かにそこに存在している、誰かのあたたかな温もり。このややこしい現実では、あたし自身がそう当たり前に感じることすら叶わぬ何か。それは、あたしが欲しいと思うすべてだった。


 想像の世界の中だけで満足してしまうなんて、本当に馬鹿みたい。これじゃ永遠に恋人も作れないし、結婚なんて勿論できないよ。そんな切実な問題に囚われてしまうなんて、ほんとつまらないやつだよね。それでも。


 ――それでもあたしは、その想像の世界を介して、すべてがどこかに広がっていくなんてこと、確かに俄かには信じられなかった。ああ、そうか。確かにそうやって、あたしは未玲とも出会ったんだ。そして、今度は篠崎さん……。


 あたしが好きだったのは、ずっと囚われていたのは、二次元の存在のルミナスだったかもしれないのに。もしかしたら、そう思っていた心が、引き寄せた出会い。そして――その出逢いさえも、見えない遠い世界へ繋がる道しるべだっただなんて。当のあたし自身、そんなこと当たり前に想像することもできなかった。


 逢いたいな……篠崎さん。


 ふと携帯画面のアドレス帳のTEL番号に目が留まる。精神的引きこもりの自分が、まさかここまで積極的になるとは思わなかった。あたしの指は自然と吸い寄せられるように、恐る恐る呼び出しボタンを押していた。


 トゥルルルrrrrr……

 その遠い携帯の呼び出し音に、眩暈まで感じる気がする。

 数秒後。少しためらったような間隔の後、その声が言葉を発した。

「……はい、篠崎です」


     *


 本当にこんなこと、未玲は絶対に許さないだろうな。それに……本当にあたしってば、何やってるんだろう。篠崎さんの車が待ち合わせの場所にやって来るまで、数分もかからなかったのに、随分と長く感じた。篠崎さんは、さっきの電話で少し躊躇いながらも、すぐにOKしてくれた。明日は休みだから……そう付け加えた言葉に、そういえば、あたしも明日休みを貰っていたことを思い出した。それはなぜか円城寺が、あたしの職場の上司に強引に頼み込んだことだったらしいのだが。


 夜九時。夕方五時から始まった、さっきのアフレコが終わったのが、ちょうど七時半頃。案外、収録自体は二時間強くらいでスピーディに終わってしまうものだ。それから、あたしも篠崎さんも一旦帰宅したんだけど。


 本当にどうしたの……きっと篠崎さんは、そう思っていたに違いない。けれど、それでも二人とも、きっと躊躇う気持ちを越える何かを感じていたのかもしれない。「こんばんわ」――そんな当たり前の挨拶。けれど、その後ずっと続く沈黙が、お互いの心の葛藤をそれぞれ抱えていたことを示していただなんて。……本当にいいの? 本当に。そして、その沈黙を破り、ようやく口を開いた篠崎氏。


「……さっきは驚いたよ」


 ああ。そういえば、あたしも篠崎さんも、さっきのアフレコ時には一度も言葉を交わさなかった。その――あたしも。確かにあたし自身、自分が問題のアフレコ現場に連れてこられるなんて思いもしなかったんだけど。


「本当にあの人たちは、何を考えているんだ」


 勿論それは、竜崎監督と円城寺女史のこと。でも……もしかしたら今日、水澤さんが無事にアフレコに参加することができたのは、そのおかげだったのかもしれない。あたしは心の中で思っていたことを篠崎さんに言おうか言うまいか迷った。だって、あたしはさっき、確かに水澤さんの意識の中の金城瑠美那だったんだもの。しかしそれはイコール、むしろあたしがいなければ、水澤ひとみは金城瑠美那として存在しえないということになる。いや、それ以上に。


 あたしは水澤さんの代わりに、瑠美那として生きていた。そんな自分でも信じられないような事実が、確かに感覚として先程、感じられたのだ。そして、もしかしたら今もあたしは――。


「――まだ、ルミナスはあなたの中にいるんですか?」


 あたしは不意に、まるで独り言のように俯きながら助手席で呟いた。え?と、瞬間驚きの表情を浮かべる篠崎氏の横顔。ルミナスの中に俺がいるのか、それとも俺の中にルミナスがいるのか。けれど、それ以上にそうではないと否定したがる篠崎自身の心があった。そう、決してあいつに操られて、こうして君と会っているんじゃないと。


『これ以上、伊勢崎ナミに関わらないで貰えませんか?』


 さっきの神代未玲の言葉が、何度も篠崎の脳裏で木霊のように鳴り響いた。けれどそうやって意識の壁を叩かれる度に、何かの思いが不思議に強くなっていく。瑠美那とルミナスが惹かれ合うのは、まるで運命そのものの導きに拠るもの――そう、それは決して理屈では片付けられない宿命的な何かだった。


 きっとおそらくそういうものは、作中の話だけじゃなくリアルな世界にも存在しているのかもしれない。だからこそ、アニメ作品という架空の物語が決して書き割りのような平面的なものにならず、妙な説得力を持つに至るのかもしれない。現実を映す鏡。それはきっと人の心が生み出すものだからだ。もし、そうであるなら、彼女伊勢崎ナミとの、まるで何かの偶然のようなこの出会いも、単なる偶然ではなく、それを越えたところにある必然であるといえる。


 ふと胸中に去来する、そんなロジックでさえ、今この瞬間の引力に勝る術を持たない。篠崎は、なぜこうして彼女と逢っているのか、その理屈を越えたところにある理由を、無意識のうちに理解している自分自身を感じた。


 そうであっても、あたしは――あたしたちは、水澤さんの心と身体そのものをないがしろにしているんじゃ……。


 その罪の意識にふと心が震える。けれど、それはあたしだけじゃなく篠崎さんも一緒だったに違いない。その罪悪感という共通意識が、奇しくもあたしたちをこうして結びつける。その意味でもあたしたちは共犯だった。それでも――もっと彼と話したい、二人でいたい。こんな気持ちになるなんて、最初は微塵も思わなかった。


 まるで女の子みたいに透ける肌の静脈。どことなく憂いを含んだ、けれど綺麗に揺れる真っ直ぐな瞳。すっと通った鼻筋、ふっくらと豊かに整った顔立ちに細い指先。あまり男の人ということを意識させない。それに気さくで話しやすい、あたたかな人柄。


 彼という人に出会って初めて思った。誰かを好きになるという、このきゅっと胸を締め付けられるような甘酸っぱい気持ち。勿論、これが初めてじゃないけれど、これまでのそのどれもが、あたし自身の想像の枠を出ない類のものばかりだった。けど久しぶりに感じたこのカンジ。これもまた以前のような独りよがりな堂々巡りに終わるんだろうか……。


 そんなことを思いながら、それでも今度は決してそうではないという感覚に襲われる。とても一つ年下とは思えないほど、篠崎氏のエスコートは優しく頼り甲斐があって、それだけで何か安心しきってしまう。ああ、でも。やっぱりどこか切なく苦しい。そんな心の傷みを、きっと篠崎さん自身も人知れず実感していたのかもしれない。



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