4. くちづけと旅立ち

「本当は私、今日は来るつもりじゃなかったんです」


 勿論それは、夕方のアフレコのことだ。でも……あたしは、夜景の綺麗な居酒屋風のダイニングバーで篠崎氏を前にして呟いた。でも、その言葉の続きは、ついには出てこなかった。その代わり、実はあたし、お酒が飲めないんです。そう切り出すと「実は僕も……」と篠崎氏は苦笑いしながら告白した。それでも、ちょっぴりアルコールが欲しい気分だった。あたしにとっては会社の飲み会というのは、ほぼ苦行に近いものがあったのだが、そう打ち明けると篠崎さんは、じゃあ今も? と、少しだけ意地悪っぽく訊くも、嘘、嘘と、笑いながら謝った。


 それでも、そんな当たり障りのない会話で談笑しながら、あたしたちはどことなく不安だった。そもそも、その不安を埋めるために、こうして二人して逢っていること自体が、その傷みの元凶であるというのに。その矛盾の悪循環に、次第に互いに嵌っているとも知らず……そして、だからこそ。


 そのループ地獄を忘れるために、今こうして飲めないお酒を二人して飲んでいる。嫌だァ、何だかすごく自虐的。伊勢崎ナミ、あんた一体何してんのさ!?思わず真っ赤になって自分自身に突っ込みたい心境。そう現実なんて、ほんとこんな恥ずかしいものでしかない。というか。


 本当なら楽しいはずのここでの会話も、どこか見えない心が痛くて、でも、その傷みをこうして分かち合っていること自体が、今彼とあたしとを深く結び付けてる、そんな気がする――それはきっと延々と続く、甘い痛みの無間地獄。


「じゃあ、どうして僕を呼び出したりしたの?」


 さっき言い淀んだ言葉の続きを確認するように、篠崎さんが尋ねる。そんなこと――言えるわけない。急に心臓が早鐘を打ち始め、心なしか頬が紅く染まったのは、決してちょっぴりのアルコールのせいではなかった。


 黙ったまま俯くあたしに、篠崎さんは「行こう」不意にあたしの手を取って店を出た。


     *


 実はさっきね、神代さんにこれ以上、あなたに関わらないで欲しいって言われたんだ――えっ。あたしはそう告げられ、思わず篠崎さんの顔を見上げる。都会の街明かりが綺麗な眺めの高台の遊歩道。五月初旬だというのに心なしかひんやりした夜風がかえって心地よい。でも……篠崎さんは、そう言って夜空を振り仰いだ。もう季節は初夏に近いけれど、春とも夏ともつかない宵闇のそよ風が、悪戯のように頬をくすぐる。


「何だか不思議だよね、どうしてあの夜空に星がまたたいているのか考えると」

 そんなまるで無関係の話をしているようで、その実、篠崎さんは真剣だった。


 僕たちがこうして出会ったのだって、その不思議の一つかもしれない。確かにルミナス・コードという作品を介して、だけど。あの星の光が、こうしてここにいる僕たちの目に届いているのと同じように、いつかどこかで、これまで絶対に出あうことのなかった、たくさんの人たちと、この仕事を通じて出あえる。それは、実際に会っていない人たちとも。きっと演じている作中の登場キャラクターを通じて……だから僕は、この仕事を選んだのかもしれない。最初は映画を作るのが夢だったんだけどね、でも結果的によかったと思ってる。


 そう、そうだよね。あたしと篠崎さんだって、このルミナス・コードという作品がなければ、きっとずっと出会えなかった。


 それでも、そんな彼の話を聞いていると、殊更に自分自身が小さく思えてきてしまう。あたしは――そんな夢とっくに諦めてしまってたかもしれない。自分がやりたい、関わりたいなとおぼろげに思ったことは、どれもがすべて実現しない儚い夢幻まぼろしでしかなかった。だからこそ篠崎さんみたいな人が、あたしにはすごく眩しく思える。


 でも……今、傍にいるこの人を身近に感じていると、急に自分にも何かが出来るような気がしてくる。ああ、これってきっと奇跡だ。胸に湧き上がる、こみあげる、この熱い思い。それはルミナス・コード云々とかじゃなく。あたしは素直にそう思っていた。


「よかった」「え?」


 やっと笑顔が戻った――篠崎さんは、そう言って微笑んだ。あたしは純粋に嬉しかった。その笑顔が、ものすごく。そして、だからこそ。再び先程の胸の痛みが心に迫る。あたしはこの通りのただの凡人。そして篠崎さんは。でも、そんなことすら越えて、ここでこうして出会えたのに。


「篠崎さん……あたし」


 急に涙声になって自分自身でも焦る。でも。どうして、こんな出逢い方しかできなかったんだろう。それでも、確かにそのルミナスの呪縛があればこそ、あたしたち二人はこうして出逢えたのだ。その切ない皮肉を愛しく思いながら、それでも彼に引き付けられてしまう自分自身のこの運命を呪った。


「伊勢崎……さん?」

 やだ、ダメだ――停められない、よ。胸が痛くて、苦しくて、知らず知らずに零れる涙。


 これは一体なんの涙なんだろう。いままでずっと独りぼっちだった自分を慰める涙?それとも。目の前のこの人は、確かにここにいて、ここで息をしている、そう生身の誰か。決して想像の中のアニメのキャラクターじゃない。その誰かと出会えた、そんな大切な想いが、こうして際限なく膨れあがって。


 そう、それは決して、その相手が“ルミナス役”の篠崎さんだからじゃない。


「ナミ――、さん」

 しかし次の瞬間、ふわっとしたシャツの感触が濡れた頬に触れたと思ったら、あたしはいつのまにか篠崎さんの胸の中にいた。


 ぎゅっとしっかり抱きしめられていたのに、あたしはまるで大海原で波にさらわれる小舟のようだった。篠崎さん、篠崎さん、篠崎さん……無意識のうちに、いや、強く心の中で何度もその名を呼ぶ。あたしをしっかりと抱いていてくれる、その温もりが今、確かにここにあった。


 伊勢崎さん、君は――。


 何だか淋しそうだったから……だから不思議と、その本当の笑顔が心から見たいと思った。きっと初めて会った時から、そう感じていた。多分、この出会いは遠くから誰かに仕組まれたものだ。でも、たとえそうだとしても。どこかで、誰かの声が囁く。


 ――オマエノココロハモウ、ワタシノモノダ。


 ルミナス、お前か。それでも、やつに操られるままに、意識を手放す。そして。聡己としき……あなたはもう、私だけのものではないのね、そう、先にルミナスに心を捧げてしまった、ひとみが胸の奥で囁いた。


 二人は、これからどこへ。あたしは、篠崎さんの腕にぎこちない身体を預けながら、その初めての唇の感触を受け入れた。


     *


 実際この二期はルミナス・コードの第二段階だ。一期でまず広げた間口――その取っ掛かりを切っ掛けにして、文字通り“餌”を蒔いた。そして案の定、こうして幾つかの逸材が見つかった。それはしかるべき手順に従い、しかるべき時に罠にかかった、見つかるべくして見つかった存在。……神代未玲しかり、そして伊勢崎ナミしかり。


 二期の制作がどれほど押そうと、これだけは絶対に譲れない。実質彼女らがいなければ、始まることすらなかったルミナスの二期。おそらくこのまま、水澤ひとみも意識を取り戻すこともなかっただろう……ただしそれも、既に朽ちてしまった抜け殻に過ぎないが。


『水澤さん、来月にも新しいアルバムの制作に取り掛かるそうよ』


 彼女の事務所とも秘密裏に繋がりを持つ円城寺冬華が言った。「ひとみんレボリューション」既にその新譜アルバム発売に伴う全国主要都市でのツアーの日程まで組まれているほどだ。実質、水澤のマネージャーにも既に円城寺の息がかかっていた。そう、人の心を掌握するのは彼女の専売特許だった。


「まったく、ご苦労なことだな」


 ええ、そのようね。まるで人事のように竜崎とのTELで話す円城寺。実際彼女は押しも押されぬトップ声優アイドル。その彼女にはまだ、多くの使い道が残されているということだ。勿論それは、ルミナス・コードのヒロインを演じるという重要な役割含め。だから――やはり“彼”と“彼女”は文字通りお付き合いしてもらわないと。その想いの輝きが大事な命それ自体の輝きとなる。恋人を生かすために、その恋人自身に心を偽り永遠に裏切り続けなければならないなんて……、篠崎君も随分と不憫な役回りですけどね。


『いいえ、その裏切りこそが彼自身の心の真実』

 ――生きること自体がその裏切りと競争の連続。


 そうふふっと笑うその声は、確かにこの事態を楽しんでいた。誰も好き好んで人の不幸を喜んだりしないだろう。だが、そうとも限らないのが、この世の常だ。だが彼女の場合、いや、それは己自身もだが――こういうことに慣れっこというか、何事にも余計な感傷を抱いたりせず、ここまで不感症なまでに冷静になれるというのは。


 しかし。……ふっ。次の瞬間、受話器から響く溜息を聞き、我に返る。

『ほんとう、彼女たちを見ていると、何か昔を思い出してしまいますね』


 昔、か。それは我々未来人にとって、いつのことを示すのか。いや。「ここ」は既に別の世界なのだ。いつしか時の流れ自体が正常なのか正常でないのかすらも、わからなくなった。自分がどこにいて、どこで息をしようが既にもうどうでもいいことだ。竜崎もふっと息をつく。


「ところで、どうするつもりだ――次のアフレコまでに、」

 しかし、竜崎の言葉を半ばで遮るように、円城寺は即答した。


『……熊野』


 そっと置くようなその言葉。聖地巡礼、か。そうだな、それは。確かに生まれたばかりの新しい恋人たちにとって、そこへ赴くことは、魂のみそぎそのものだ。まさにこの世とあの世の境目、あるいは神界への扉を開くに相応しい場所。ひっそりと深い神秘のもりに覆われ、聖なるものと忌むべきものとが織りなす深淵なる息吹。


「篠崎君には、既にそのことを吹き込んであるってわけか」


 ええ。本気で水澤さんの意識を取り戻したいなら、本当に彼女を救いたいと思うなら……彼は“彼女”と繋がるしかない。それは表面上愛ではない。いや、愛であってその愛そのものを穢す極上の行為。あの子たちには申し訳ないけれど。


 せっかくのG・W《ゴールデンウィーク》ですよ? いかがです、竜崎さん。私たちも御一緒に。本放送を直前に控え、ルミナスの制作は現在その真っ只中であるというのに。その円城寺の冗談とも本気ともつかない言葉に、思わずふっと笑いがこぼれた。


     *


 ったく、制作が遅れに遅れた「ルミナス・コード」の第二期。そのおかげで制作進行デスクの自分は各セクションから酷いブーイングの嵐を受けている。乙部晴之は深い溜息をついた。遅々として進まぬ脚本作業。大本の脚本ホンが上がってこなければ、(絵)コンテも出来上がらないし演出家も出番が来ない。当然、作画作業も思うように進まない。一体、総監督は何を考えてるんでしょうか。あんな素人上がりの生娘みたいな新人脚本家連れてきて。こちとら甚だ迷惑ですよ。


 その乙部の本音は、このルミナス・コード制作陣の総意でもあったのだが。だが、ようやくここへ来て先月まで、その曇りに曇っていた事態に明るい兆しが見えてきたようだ。


「おっとべクゥン、ごめんねー色々迷惑かけてェ」


 おっとべくんじゃないっすよ。……ああ、ここにもいた。どこの馬の骨とも判らないホストもどきが。そう、助監督の相澤太一。こっちも神代未玲と同様、今回の二期で抜擢された胡散臭い新参者ニューカマー。ま、ようやく先日二期の第一話アフレコも滞りなく終了したことだし、制作自体も何とか軌道に乗り始めたけど、あと半年もこの人たちと付き合わなけりゃならないかと思うと……。


「ところで一体誰なんですか、あの一般人のは」


 一般人?……ああ、伊勢崎さんね。先日のアフレコ現場でちらっと見かけたのだろう、思わず不審がる乙部の疑問に答える相澤。要するに彼女はファン代表。今回のルミナスの指針は一風変わっていてね。そりゃわかりますよ、どんだけ一風変わってるかなんてのは一目瞭然、第一あなたを見れば。内心、乙部は晴れやかに続ける相澤に一人突っ込んだ。


「ああ、そうそう。実はこれから一週間、とあるロケハンに出掛けることになったから、あとはよろしく」


 え"え"ぇ"――ッ

 思わず乙部は、その言葉にその場に卒倒しそうになった。


     *


 その夜、どうしても未玲は容易に寝付けなかった。まだ、さっきの篠崎氏との会話が脳裏に焼きついている。結局あたしには、何一つ止められないのかな……どうしようもなく弱気になる。ナミにはナミの意思というものがある。だけど、そうだとしても。


 そうだとしても、あたしはナミを守る――。


 それは一〇年という年月を経て、再会したあの日に誓ったこと。確かにあたしは何かから逃げていた。ナミと、そして自分自身の心からも。二人が一緒にいればいるほど、あたしたちは自ずと遠ざかる。それは同じ孤独をどこかで共有していながら、まだ一〇代だったあたしたちが常に実感していたことだった。


 オタクという冗談そのものの聖域に守られて。そう、あたしたちは、あたしたちだけの理屈が通じる世界に逃げ込んでいた。というか、腐の道はそのなれの果て、だったのか。どちらにしても、あたしたちのモラトリアムの時間はとっくに過ぎ去っていたのだ。


 ――結局どうしたって、この悪循環は停められない。

 ええい! 何がどうなろうと知ったこっちゃない!

「ナミ、あんたが篠崎氏とどうなろうと、あたしは……」


 そうだ、もうルミナス・コード二期冒頭の脚本ホンは、上げてしまったのだから。新たなステージ、か。“あいつら”が何を望んで企んでるのか知らないが、こうなったら乗りかかった船、やるしかないんだ。やつらの好き勝手になんかさせるもんか。


 そう思いつつも、未玲はそれでも自分たちが既に竜崎と円城寺、二人の手の内にいることを、本当の意味で、まだ知らなかった。


     *


 翌日、美玲はいつものように都内某所にあるスタジオ・ネプチューンへ向かった。


 必ずしもアニメ脚本家は制作スタジオへ出向いて作業しなければならないというわけではなかったが、脚本家によっては、そちらで実際の執筆作業を進めた方が、監督や作画スタッフなどとの直接の意思の疎通も出来、結果として効率がよいということもある。


 ――というか、あたしの場合、あいつらの動向を常に窺ってなければならない、という切実な理由もあったのだが。


「神代未玲を舐めんなよぉ……っ!」

 気合が入りすぎて、思わずそんな台詞が口を突いて出る。するとスタジオの片隅のデスクで、何やらマップやら時刻表やらを広げて朝っぱらから思案している相澤の姿がが目に入った。


「や、やぁ神代クン、今日は早いね」

 いつも通り嬉しそうに挨拶するも、どこかその表情からは、慌てふためいた様子が容易に見て取れた。はーん、これは。あたしに隠れて何か企ててるんじゃね?……図星だった。見ると、相澤は机の上に広げていた諸々の資料を慌てて片付け始めている。


「どうかしましたかぁ相澤福監督」


 凶悪な笑顔を浮かべてにじり寄ると、ほんとなんでもない、なんでもないからっ。あははは、と冷や汗をこめかみに浮かべ、笑いながら相澤は旅行パンフレットなどのカタログ類を抱えて後ずさった。


「何コレ――へぇ、熊野?」


 今度は熊野まで、わざわざお祓い……? 意地悪くそう呟き、デスクの上にしまい忘れた一枚のパンフレットを手に取る未玲。いやいや、違う違う。こっこれは単にロ、ロケハン、いや、ただの観光……。ロケハン?未玲はその言葉尻を捉えると、すかさず睨みを効かせて相澤を視姦する。


「ほんとほんと、何だか今回は監督や円城寺さんたちも“彼ら”に付いてくみたいだし」

 あっと思ったが遅かった。思わず口が滑ってしまった相澤に、さらに未玲はにじり寄る。彼らって誰――? まさか……。


 結局、相澤は未玲の脅迫に、すべて吐かされてしまった。次のアフレコまでの一週間。ルミナス役の声優の篠崎聡己、そして瑠美那役の水澤ひとみと、そしてもう一人。伊勢崎ナミは伊勢、熊野へと向かう。その一行に気付かれぬよう、どうやら竜崎たち黒幕連中も人知れず同行するようなのだが……。


 相澤は一人単独行動で、別の案件――そう文字通りのロケということで、伊勢路から一路、熊野三山へ向かうとのこと。今さら何のロケハン? それに主要スタッフである監督たち――この際、竜崎や円城寺はともかく現場の指揮を執らねばならない助監の相澤まで――が、揃いも揃って。一体、何の目的があって熊野くんだりまで(というか、あんたら仕事しろ、仕事)。


 それより、ナミ……!


 どうしても解せぬことばかりだ。これまでもこれまでだったが、今回ばかりはさすがに……ナミと篠崎氏、そして水澤ひとみ。奇しくも、この間の神社でのお祓いの面子。何となく聞き齧っていた知識程度だけど、確かに熊野は伊勢(神宮)、出雲と並んで霊験あらたかな神社の総本山がある所だ。というか、いまや世界遺産。そのほとんどを深い森林に覆われた人里離れた紀伊山塊は、それだけで思わず拝んでしまいそうな何かが隠れていそうだ。


 神様――か。ルミナスは、ほんとにほんとの神様なのかな。だとしたら。


 しかしそれより。こんなことしてて、本当に大丈夫なんだろうか、このアニメ。これまでも、うっすら思っていたことだったが、あまりに全てがルーズすぎる(盛大に脚本作業を遅らせた、あたしが言うことじゃないが)。まさか、それさえも神様とやらの威光で、どうとでもなるとか本気で考えてやしないだろうな。


 そうは言っても実際未玲には、そんなことどうでもよかったのかもしれない。そう、本当はナミさえ無事なら。あいつらの考えてることは、本当に解らない。それだけに実際、ナミが彼らに付いて行くとは容易に思えない。だが――、


 何となく未玲は不吉な予感を感じていた。ナミは篠崎氏のために……。そんなばかな、そんなこと、あたし――あたしは。それでも未玲には、ナミを止めることはできない気がした。


「……行くよ」

 え? 行くってどこに。思わずそう尋ねる相澤に未玲は言い放つ。

「熊野に決まってんじゃないのよ!」


     *


「新キャラの設定、もうあがってきてるんですかね?」


 現在、急ピッチで作画作業が進められているスタッフルーム作画室。本来なら(誰かさんたちのせいで)死にそうなほどのジェットコースター的過密スケジュールだったのだが、作画監督兼、メインアニメーターである大森貴幸は、もう一人コンビを組む同アニメーターの若林聖子に作業途中、話しかけた。


「うーん、それがね。監督も助監督も、まだ何も言ってきてないんだよ」


 えぇ? もう放送日は目と鼻の先だよ――怪訝そうに困惑の色を浮かべた声で返す大森。というか……、既に呆れ顔の相手に若林は、さらに追い討ちをかけるように呟いた。


「おかしな指示が入ってるの知ってる?」


 これからの一週間ですべてが決まる。週明けには、完全な態勢が整っているから。だから、それまでに予定される要求にいつでも応えられるようにしておいてくれ……。


「はぁ、それ監督が言ったの?」


 一体どういう意味だよ。第一、四話で登場する予定の新キャラの詳細な設定も、まだ届けられてないのに、どう要求に応えりゃいいっての。確かにその指示を伝えた制作進行の乙部を責めてもどうにもならないが。外注から上がってくる原画チェックの作業も山のように積まれているっていうのに……確かに大森は先の見えない作業の連続に些か苛立っていた。


 それでも大森は監督である竜崎や、その女房役であるメインシリーズ構成の円城寺の指示には逆らえない気がした。つうか、あの人たちこの業界では有名だもんなぁ。あれでよくネプチューン破綻しないと思うよ。進藤プロデューサーも何考えてんだか。しかしそれどころか、その強引な手腕が、いつでもこの世界の先端を切り拓く目新しいヒット作を生み出してきた。結局、そういう無理難題を押し付けられることが結果的に、最初は思いもしなかった限界を超えた何かを導き出すのだ。


 それに今回は……神代未玲という新人脚本家まで起用して一期とは一味も二味も違う作風に、いやルミナスそのものの本質を今一度掘り返すような一大手術までしようっていうらしいから。しかし、当然それに付いていく現場の制作スタッフは並の神経ではやっていけない。こればかりは暗黙の了解のようなものだった。


「でも少し……、」え?


 ほんの少しだけど何となく何かが変わった気がする。何が――? ルミナスのキャラ表を見ながら呟く若林に大森は改めて聞き返した。

「ほんと何となくだけど、なんていうか……少しだけ優しくなったような」


 狂おしいまでに美しく凶悪で冷酷なその表情は何一つ変わらない。けど。それは脚本に新たに神代未玲という、まっさらな色が加わったせいだろうか。それを動く絵として解釈する演出、絵コンテ(勿論、総監督や助監督のチェックが入ったものだが)も、微妙にその変化を敏感に捉えていた。


 実際、美麗で華のあるダイナミックな動きや表情を作り出す大森とはまた違って、若林の描くルミナスは、どこか繊細さの漂う絵柄が人知れず人気を集めていた。無論、静と動とで異なる画風の大森・若林二人のコンビであるからこそ、それがこの実質的なルミナス人気を支えているとも言えた。ほとんど女性的な勘とも言える、そんな柔らかな眼差しで、若林聖子はルミナスという典型的なダークヒーロー的美形キャラの中に潜む何かに気付いていたのかもしれない。


 このキッツキツの余裕のない容赦なさがよいのよねぇ、ほとんどファン目線のようなミーハー発言をしていた四十代目前のアラフォー女性。まぁ……そういう露骨な心酔心理が、ほぼ執念のようなものに支えられた、あの半端ない画のクオリティを生み出しているのだが。


 それは無論、大森も同じだ。彼は同人あがりの人気クリエイター集団、A/R/C《アーク》の紡ぎ出したキャラデザインから多くのものを学んだ。そしてそれを母体として、今回のルミナス・コードのような、ほぼ女性向け作品の真髄とは何かということを自身の中に獲得した。すなわちそれは、いわゆる媚びとはまた違ったところで、華やかさと硬質さとの境界に見出せる、文字通り人の心を惹き付ける独特の魅力ある作風――A/R/Cの真咲かなで、夕海みなと、榊結衣の三人が紡ぎ出すキャラ原案が伝えるもの。


 その本来、乙女心が(笑)いや人の心が見たいと思う世界を作り出すことこそが常に、アニメ制作のみならず創作それ自体の原初的な命題であると言ってもよい。それに確かに今、ルミナスのような女性向け作品が、時代的なマーケティング的にもアニメ界において実質的に注目を浴びていた。そこに竜崎悟朗のような硬派な作風で一世を風靡してきた鬼才の監督が参入してきたのも、ある意味で頷ける話かもしれない。


「福監督の相澤氏、言ってたよ。神代さんのストーリーが描く瑠美那とルミナスは一味違うって」

 大森の言葉に、二人の会話に耳を傾けていた若手アニメーターの一人、磯村はづきが口を挟む。


「ああ、そう言えば同じようなこと竜崎監督も言ってましたよ」


 時々思い出したように各セクションをチェックする合間に作画スタジオにも常時足を運び、それぞれのスタッフのデスクを覗き込むついでに、ふと漏らした呟き。


「やっぱり“恋する乙女”は侮れないなって――」


 あはは、それ磯村さんのことじゃない? えぇ、違いますよ。そんな和やかな笑い声がひと時、修羅場と化したはずの夜も更けた作画ルームの現場に灯った。



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